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発見!キラリ〈特別編〉「第一回 東京国際映画祭 ~1985年、公園通りの魔法~」

発見!キラリ〈特別編〉「第一回 東京国際映画祭 ~1985年、公園通りの魔法~」
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11月のテーマ:遠い
 

それは遠い過去の出来事である。何せ、33年も経っているのだから。それでもあの光景は、記憶のアルバムの1ページで鮮烈な色彩を保っている。おそらくこの先も、決して色褪せることはないだろう。
 

1985年、私は就職活動真っただ中の大学4年生だった。「バブル経済」を検索すると「1986年から90年代前半にかけての好景気」と紹介されているが、もちろん1986年に突然始まったことではない。1985年は、バブル景気が近づくドスンドスンという足音がはっきりと聴こえ始めた、そんな年だった。
 

とはいえ、誰もがバブル景気の恩恵にあずかったわけではない。バブルを知らない世代には誤解があるようだが、それはほんの一握りの人たちの宴であった。仕送りとバイトでなんとか食いつないでいた貧乏学生の私からしてみれば、バブルなんていい迷惑でしかなかったのだ。物価の高騰は日々の暮らしを窮屈にし、きらびやかな場所でうかれる人たちの姿は心の底から疎外感や劣等感を呼び起こすだけだった。
 

私は西新宿の下宿から渋谷にある学校までバスで通っていた。乗り降りするのはいつも、学校まで歩くのに都合がいい公園通りのバス停だ。「バブルの時代に渋谷の公園通りが通学路だったなんてクールだね!」とひやかされそうだが、貧乏学生にとっては流行の最先端をいこうとする若者たちの賑わいなど、‘他人事’にすぎなかった。自分には縁がない場所、この街に‘いる’のは事実だが、今の自分はこの街の何とも接続していない。それが偽らざる現実だった。
 

それでも、渋谷をベースに活動することには多少の利もあった。大好きな映画館がたくさんあったし、並行輸入のレコード店がいくつもあったからだ。当時、たいがいの映画館は入れ替え制ではなかったから、授業をサボった日は朝から晩まで映画館に入り浸っていた。そうじゃなければタワーレコードかCISCOでひたすらLPレコードを眺めて過ごした。
 

そんなある日、渋谷で世界規模の映画祭の開催が準備されていることを知った。東急グループが本腰を入れるという。今思えば、バブル期の特徴として挙げられる「日本企業による凄まじい文化事業へのパトロネージ」の走りだ。手もとにある「第一回 東京国際映画祭」の 公式パンフレットには、驚くような記述が残っている。映画祭の一部に「ヤングシネマ’85」と銘打たれた、いわゆる若手監督のコンペティション部門がある。最高賞を受賞した監督に贈られたのは、なんと150万ドル(当時の換算で約3億9000万円)だ。今の国内の映画祭事情からすれば、目を疑うような高額賞金である。ちなみに、この4年後にはソニーが48億ドルでコロンビア・ピクチャーズ・インダストリーズを買収し、世界を驚かせることになるのだが。とはいえ、まだネットのない時代のこと、国際映画祭という言葉の響きにざわつく感覚はあったものの、それ以上の期待感を抱きようがなかった。
 

そんな中で私が楽しみにした作品は、前年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドール(最高賞)を受賞した『パリ、テキサス(Paris,Texas)』だった。本編への興味はもちろんだが、強いて言えば地味な作品がメイン会場となるNHKホールで大々的に上映されるということに意外性を感じていた。西ドイツ(当時)とフランスの合作映画で、ドイツ人のヴィム・ヴェンダース監督がアメリカ人の作家兼俳優、サム・シェパードのエッセイに触発されてシェパード本人に脚本を依頼したという。ジャンルは至ってシンプルなロード・ムービーであり、タイトルには「パリ」とあるがそれは花の都のことではない。テキサス州にある小さな街の名前であり、そのパリが舞台というわけでもない。
 

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小劇場が今よりずっと少なかった当時、普通に日本で公開されてもヒットするとは思えず、映画祭でなければ劇場で観ることはできなかったかもしれない。そんな『パリ、テキサス』が開幕ラインナップの一つとしてメイン会場で上映されるというのだ。おそらく背景にはカンヌ映画祭との関係があったのだろうが、ファンにとっては結果オーライ、幸運であった。
 

既に夕闇が渋谷の上空を覆い始めていた。それでも点り始めた光たちは、公園通りを昼間以上に明るく照らし出している。坂に沿って連なるポールに掲げられた映画祭の旗は、坂の中腹のPARCOを通り越して、どこまでも続いているように見える。そして歩道にはNHKホールに向かう、人、人、人。
 

この国で初めて、本当の国際映画祭が開催されるという胸の高鳴り。その現場に自分がいるのだという高揚感。SF巨編でも大捕り物でもない、カンヌで喝采を浴びた秀作を、この国の映画ファンとしてしっかり見届けるぞという使命感。人々が発するそんなポジティヴな感情が公園通りを覆いつくしていた。(出身も年齢も、学校も仕事も貯金も、家族も恋人も、みんな僕とは違うんだろうけど、今、誰もがこの映画祭の当事者になろうとしている。ここから何かが生まれ、社会に溢れ出ていく喜びを共有したいと願っている)。坂を上り切って渋谷公会堂(当時)を通り過ぎる頃、なぜか涙が溢れそうになった。
 

その時、公園通りは私にとって居心地のいい場所に変わっていた――。
 

映画祭にはそんな魔法のような力がある。日本映像翻訳アカデミー(JVTA)が設立当初から今に至るまで、映画祭の支援にこだわり続ける理由の一つは、今もその魔法が解けていないからかもしれない。
 

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● 日本映像翻訳アカデミー・国内外の映画祭への支援
【座談会】第31回東京国際映画祭開幕!映画でたどる翻訳者の過去・現在・未来

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Written by 新楽直樹

niira

日本映像翻訳アカデミー(JVTA)グループ代表。1996年、日本映像翻訳アカデミーを設立し、映像翻訳者育成に特化した職業訓練プログラムを構築。同時に、「メディア・トランスレーション・センター(MTC)」を設置して修了生の就業支援を行う。

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[JVTA発] 発見!キラリ☆ 11月のテーマ:遠い
日本映像翻訳アカデミーのスタッフが、月替わりのテーマをヒントに「キラリ☆ と光るヒト・コト・モノ」について綴るリレー・コラム。修了生・受講生にたくさんのヒントや共感を提供しています。

 
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