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明けの明星が輝く空に  第100回 特撮の神様 円谷英二

明けの明星が輝く空に  第100回 特撮の神様 円谷英二
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【最近の私】ついに100回。記事を書く機会をいただいた新楽代表とJVTA、お世話になった歴代担当者の皆さんには、ただただ感謝です。内容的に避けたかったのは、単なる「知識のひけらかし」でした。大事なことは、自分はどう感じ、理解し、評価するのか。そういった意味で、記事を書くことは、自分と向き合うこともでありました。今後いつまで続くのか、自分でもわかりません。ただ、「回数=自分の特撮愛の大きさ」だと思うし、書いている間は幸せな気分になれるので、簡単にはやめませんよ。(・∀・)

 
円谷英二なくして、特撮文化の発展と興隆はあり得なかっただろう。円谷氏は、映画『ゴジラ』(1954年)など数多くの作品で、空想の世界を映像化。特撮映画を一大ジャンルにまで押し上げ、“特撮の神様”とまで言われるようになった人物だ。様々な撮影技法を考案しただけでなく、優秀な人材を育て上げたという意味でも、特撮界に偉大な功績を残したと評価されている。

 
円谷氏は少年のころ、パイロットになるのが夢だった。おそらく、毎日のように空を見上げては、操縦桿を握る自分の姿や、上空から見下ろす景色を思い描いていたのだろう。そして、この大空の飛翔という、非日常的空間に想像の翼を広げることが、特撮に必要なイマジネーションの力を育んだのではないだろうか。

 
そんな飛行機好きの円谷氏が手掛けた『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)は、真珠湾のセットとミニチュアで撮った映像があまりにも見事で、戦後、それを見た米軍が実写と勘違いしたという。それほどリアリティある映像が撮れたのも、大空への夢を抱いていた円谷氏だったからに違いない。

 
興味深いのは、アニメ界の巨匠、宮崎駿監督の作品からも、大空への憧れを読み取れることだ。『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』など、ほぼすべての作品で、鮮烈な飛翔シーンが登場する。実際、宮崎監督は、サン=テグジュペリが郵便飛行士としての経験をつづった『人間の土地』を愛読書にしていたらしい。特撮の神様とアニメの巨匠。表現方法は違えども、ユニークな空想の世界を映像化し続けた両氏が、大空へ特別な想いを抱いていたのは単なる偶然だろうか。

 
子どものころ、飛行機の模型作りに夢中になっていた円谷氏は、機械にも強かった。あるロケ先の旅館で、壊れた古時計を直したときのエピソードがふるっている。旅館の女将に「時計は地球の磁気を受けやすいから、置き場所が大事。僕の部屋なら床の間がいいだろう」と言って、壊れた時計を10個以上持って来させ、一晩で全部直してしまったそうだ。そうして翌朝、驚いた女将の顔を見て楽しんでいたというから、いたずらっ子のような一面があったのだろう。

 
人を驚かせるということもまた、特撮に必要な要素であり、その本質なのかもしれない。先日のGoogle Doodleに、“特撮の祖”ジョルジュ・メリエスが登場したが、『月世界旅行』(1902年)を撮った彼は元々マジシャンであり、トリックで観客を驚かせていたという。マジックと特撮。特撮研究家の氷川竜介氏が、展覧会図録『館長庵野英明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和・平成の技』の中で指摘しているように、現実を超越したシーンを現出させ、見る者にセンス・オブ・ワンダーを与えるという点で、両者に違いはない。ゴジラの熱線で鉄塔がグニャリと曲がり、巨大な火の玉が変形してキングギドラが現れる。それはいわば、円谷流のマジックだった。そして僕らは、その光景に驚き、圧倒され、得も言われぬ興奮を感じたのだ。

 
ここで円谷氏が考案した特撮技法を、一つ紹介しておこう。それは、海底火山の噴煙の表現だ。本物の煙を焚いても、なかなか迫力が出せない。そこで円谷氏は、絵具で着色した水を水槽に流し込み、その映像を上下反転させることを思いついた。そうして、見事、黒や茶色い煙が黙々と吹き上がる火山の爆発が出来上がったのだ。

 
この方法を思いついたのは、味噌汁を飲んでいるときだったという。お椀の底に沈む味噌が、煙のように見えたというのだ。言われてみれば、確かにそう見えないこともない。しかし、ただ食事をしているだけで気づくことはないだろう。四六時中、特撮のことを考えていたからこそ、発見できたに違いない。円谷氏が、いかにプロとして仕事に打ち込んでいたかが覗えるエピソードだ。

 
円谷氏は、1970年、療養先の伊豆で亡くなった。日記の最後のページには、こんな言葉がある。「今度もヒコーキ野郎の企画書脱稿に至らず。わが無能を嘆くのみ。」「東京に於いて完成せん。」死の直前まで仕事が頭から離れず、まとめようとしていた企画の名前は『ニッポンヒコーキ野郎』だった。円谷氏は、最後まで空への想いを持ち続けていたのだ。松尾芭蕉の生前最後の句は、“旅に病んで夢は枯野をかけ廻る”であるが、円谷氏の夢は、この日本の大空をかけ廻っていたに違いない。

 
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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
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明けの明星が輝く空に
改めて知る特撮もの・ヒーローものの奥深さ。子供番組に隠された、作り手の思いを探る

 
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