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明けの明星が輝く空に 第108回 干支と特撮:イノシシ

明けの明星が輝く空に 第108回 干支と特撮:イノシシ
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【最近の私】JVTAのブログ『発見!キラリ』の12月のテーマは「再会」だった。考えてみれば僕は記事を書くため、昔の映像作品、そして子供の頃の自分自身としょっちゅう再会している。そういえば、「キックボクシング」も昔かじってたっけ。あれ、すねが痛いんだよねー。

 
特撮映画界には、忘れてはならない亥年生まれの巨匠がいる。『ゴジラ』(1954年)から『メカゴジラの逆襲』(1975年)まで、およそ20年に渡り、数々の特撮映画を世に送り出した本多猪四郎(いしろう)監督(1911年~1993年)だ。アカデミー賞監督のギレルモ・デル・トロが『パシフィック・リム』(2013年)のエンドクレジットで、“This film is dedicated to the memories of monster masters Ray Harryhausen and Ishiro Honda.”と敬意を表したので、特撮ファンでなくとも、名前だけなら知っているという方がいるかもしれない。

 
“モンスターマスター”のひとり、レイ・ハリーハウゼンとは、ストップモーション・アニメを駆使し、ミニチュアの怪物たちに命を吹き込んだ“特殊効果の巨人”だ。ならば、彼と並んで言及されるべきは“特撮の神様”円谷英二ではないか。そう思った特撮ファンは少なからずいるだろう。ただし、デル・トロ監督の考えは違ったようだ。では、彼を魅了した本多監督とは一体どんな監督だったのか。

 
本多監督の撮った映画をいくつか観ていると、『ゴジラ』以外の作品にも「核」の脅威が盛り込まれていることに気づかされる(水爆実験が、ゴジラ出現のきっかけとなったことは、いまさら指摘するまでもないと思う)。『空の大怪獣ラドン』(1956年)のラドンも、ゴジラとほぼ同じ理由で復活するし、『モスラ』(1961年)のモスラは、核実験場とされた島が故郷だった。本多監督自身、終戦を迎え軍隊から帰ってきたとき、広島の惨状を目の当たりにしており、『ゴジラ』の撮影に臨む際、「ゴジラの本質は原爆の恐怖」であることを、スタッフ間で繰り返し確認したという。おそらく、焼け野原となった広島を見たときの衝撃を、作品にして残しておきたかったのではないだろうか。

 
本多監督は後年、自分の作品のテーマは「科学のあり方」だと語っている。そこにあるのは、自制が働かない科学の発展は、人類の幸福につながらないのではないか、という思いだ。第二次世界大戦で使用された原爆を開発したのは、科学者たちだった。『ゴジラ』において、どんな兵器も通用しなかったゴジラを倒したのは、オキシジェン・デストロイヤーという架空の装置だったが、それを開発したのも芹沢という科学者だ。彼は当初、水中の酸素を破壊し、物質を溶解させる力をも兼ね備えたオキシジェン・デストロイヤーの使用を拒んでいた。なぜなら、その威力を知った世界の為政者たちが、それを放っておくはずがないからである。結局彼は、自分自身が悪魔に魂を売る可能性を恐れ、ゴジラとの心中を選ぶのだ。

 
芹沢博士は、戦争が原因で右目の視力を失い、顔に火傷のような傷跡が残っていた。研究室に閉じこもりがちな彼は、結婚するはずだった女性と疎遠になり、その彼女をほかの男に取られてしまう。戦後の平和な時代を謳歌する世間の人々とは、まるで対照的な存在として描かれている。いわば、社会に居場所を見つけられない人物として登場するのだが、こうした「はぐれ者」の物語こそが本多作品の実質であると、切通理作氏はその著書『無冠の巨匠 本多猪四郎』の中で指摘している。

 
考えてみれば、安住の地を追われたゴジラも、芹沢と似たような存在だ。映画の前半から中盤にかけて、本多監督はゴジラの恐怖を徹底的に描き、後半に芹沢を中心に物語を進めていく。そして、最後に用意された海中でのクライマックスシーン。ゴジラと芹沢は、オキシジェン・デストロイヤーが発する気泡の中で溶け、海水と混じり合う。このとき流れるBGMが、まるで鎮魂歌のように厳かな響きを持っているのは、芹沢だけでなくゴジラの境遇も「悲劇」だったからだろう。映画公開当時、観客から「なぜゴジラを殺したんだ」という抗議の声があったというのも、うなずける話だ。

 
重いテーマを自分の作品に込めた本多監督。さぞかし撮影現場には重苦しい雰囲気が漂っていたのでは、と思いきや、正反対だったようだ。このブログでも取り上げさせていただいた水野久美さん(第98回http://www.jvta.net/co/akenomyojo98/参照)をはじめ、本多作品に登場した俳優たちによれば、監督は温厚なジェントルマンで、撮影中に怒鳴る姿など見たことがないという。やはり当ブログに登場した土屋嘉男さん(第97回http://www.jvta.net/co/akenomyojo97/参照)は、「黒澤さんが“怒り”の人なら、本多さんは“微笑み”の人だった」と語っている。「黒澤さん」とは、あの“世界の黒澤明”である。本多監督とは助監督時代からの親友で、『影武者』(1980年)や『夢』(1990年)の撮影では、本多監督に頼み込んで演出補佐など引き受けてもらっている。

 
その黒澤監督が怒り出して撮影が止まってしまい、現場がピリピリしてきたときは、本多監督がスタッフや俳優のフォローに回っていた。そう述懐するのは、本多監督夫人のきみさんだ。彼女の回想によれば、黒澤監督をうまくなだめ、機嫌を直させたりもしていたらしい。また、何度もNGを出されて自信を失いかけた俳優には、その背中を優しく押すようにアドバイスをし、結果的に一発でOKが出ることもあったそうだ。

 
本多監督は1993年2月、天国に旅立った。その墓標には、「本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした 映画のために力いっぱい働き十分に生きて本多らしく静かに一生を終えました」と刻まれている。黒澤監督の言葉だ。葬儀にはご家族も予想しなかったほど多くの人が参列したという。それひとつ取ってみても、本多監督の人柄が偲ばれる。

 
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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
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明けの明星が輝く空に
改めて知る特撮もの・ヒーローものの奥深さ。子供番組に隠された、作り手の思いを探る

 
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