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Tipping Point Returns Vol.8 「『せつなさ』の正体」

Tipping Point Returns Vol.8 「『せつなさ』の正体」
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村上春樹の小説が世界中で読まれている理由について、フランス文学研究者で翻訳家、コラムニストとしても知られる内田樹(たつる)は次のように述べている。「世界的なポピュラリティを獲得した最大の理由は、彼の書くものが人の『せつない気持ち』を起動するのと同じ仕組みを内包しているところにある」。(『BRUTUS』2010/11/1号)

 
せつなさはある種の喪失感である。目の前に存在する風俗や肖像、つまり「あるもの」をどれだけ書いても、「あるもの」はその具体性ゆえに世界性を得ることはできない。「あるもの」は「自分が求めているものとは違う」と否定できてしまうからだ。一方、人は「ないもの」を上手く表現できない。だから「ないもの」への喪失感を巧みに描いた表現に出会ったとき「これは自分が’ない’と思っているものと同じかもしれない」という共感が生まれやすい。それが「せつない気持ち」だと言う。そして「せつなさの共有が生み出す連帯」は、国や社会の壁を越える。今日の世界は村上春樹に代表される「日本的なせつなさ」を欲しているように見えるとも論じる。

 
私は日本だけがせつなさの表現に長けているとは思わない。確かに「せつない」は日本の映画やドラマ、アニメ、漫画を読み解くキーワードに挙げられることが多いし、「せつないに該当する英語ってないよね」というのは’翻訳あるある’の定番だ。私自身も日本の漫画やアニメを通じてせつなさを感じ取るセンサーを得たと思っている。しかし、そのセンサーに磨きをかけたのは1970年から80年代初頭にかけての米英のポピュラーミュージックである。特にThe EaglesやJackson Browneなど、70年代のアメリカ西海岸で生まれた音楽の多くは限りなくせつない。「せつない」という日本語にピタリと重なる英語はたまたまないのかもしれないが、せつない話は日本だけのお家芸ではない。

 
それはさておき、せつなさは「ないもの」に抱く感情だからこそ共感を呼び起こし共有されやすいという内田の指摘にはハッとさせられる。とはいえ、「ないもの」に対して抱く感情を表現する言葉は「悲しい」や「くやしい」、「嘆かわしい」、「腹立たしい」、「妬ましい」、「羨ましい」などいくつもある。これらと「せつない」は何が違うのか。

 
せつなさについて知識人が論じたものは数多く存在するが、私は作家・山田詠美の持論が好きだ。彼女は自身が編纂を務めた短編集『せつない話』の中で「五粒の涙」というタイトルのあとがきを書き下ろしてせつなさの正体に迫った。それによれば、せつなさは「涙腺に関係しながらも、涙にはあまり関係していない」。しかし「万が一、涙に関係している場合も、五粒以内の涙である」。私の解釈はこうだ。「せつなさは『悲しい』という感情を生む出来事のように『ここにそれはあるべきだった』という前提に立たない。喪失の痛みを伴いながらも欠落したもの特有の美を抱きながら完結する」。

 
失ったもの、手を伸ばしても届かないものを欲して涙を流し続けることなら子供にもできる。それは繊細なせつなさとは似て非なる直情的なものだ。山田詠美は「『せつない』という感情を作り出すフィルターは、ソフィスティケィティッドされた内側を持つ大人だけが所有している」と言い、こう結論付ける。「(せつなさとは)ある種の特殊なフィルターを持つものだけが味わえる刹那の感情、大人の極上の消費である」。

翻訳者の仕事を評価する言葉に「英語ができるね」、「日本語が上手いね」、「背景の文化や慣習をよく理解しているね」などがあるが、「大人だね」という褒め言葉を聞いたことはないだろう。しかし、私がクライアントならせつなさの本質を理解できていない、つまり成熟した大人ではない翻訳者に大事な作品を任せたいとは思わない。せつなさは作品が生まれた国や地域、時代を問わず、少なからずのストーリー、少なからずのシーン、少なからずのダイアログや演出の細部に編み込まれているからだ。

 
成熟した大人であること――それもまた、優秀な翻訳者の条件である。

 
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Tipping Point~My Favorite Movies~ by 新楽直樹(JVTAグループ代表)
学校代表・新楽直樹のコラム。映像翻訳者はもちろん、自立したプロフェッショナルはどうあるべきかを自身の経験から綴ります。気になる映画やテレビ番組、お薦めの本などについてのコメントも。ふと出会う小さな発見や気づきが、何かにつながって…。
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2002-2012年「Tipping Point」のバックナンバーの一部はコチラで読めます↓
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