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やさしいHawaii 第71回 「ジョージとの思い出」

やさしいHawaii 第71回 「ジョージとの思い出」
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【最近の私】半年延びてしまった家のリフォーム。この寒さの中、中庭に面した壁をぶち抜いたので、家じゅうがさ・む・い。工事の都合だと思うが、ブルーシートに囲まれて、急に現場感満載!!早いとこ工事を進めてほしい。
DSC_0502

 
2019年12月14日のエミからのメールだ。
「Aloha!! Just wanted to let you know that George passed away on December 8, 2019. Diabetes and other illness compounded made him difficult to recover, spent in the hospital the last two months, never made it home……..
(アロハ!2019年12月8日、ジョージが亡くなったことをお知らせします。糖尿病だけでなく、その他の病気もあり回復が困難で、2カ月の入院生活を送ったのち、ついに帰宅はかないませんでした・・・・)
そして、葬儀の日程、場所が細かく記されていた。

 
ショックだった。ジョージが糖尿病のため体調が良くなく、透析をし、心臓の手術も受けていたことは知っていた。でもあの胸板の厚い、がっちりとした大柄なジョージは、どんな病気もはじき返してしまうだろうと、勝手に思っていたのだ。

 
ハワイに滞在していた私たちの親がわりだったのがリチャード・ヨコヤマさん。ジョージはそのヨコヤマさんの7人の妹の中で、すぐ下のミツダさん一家の長男だ。
ヨコヤマさん亡き後、一族のまとめ役だった。ハンサムで笑顔の優しい素敵な人だった。メールをくれたエミは彼の奥さんで、両親は沖縄からの移民だ。

 
1973年、ハワイでの私たちの新生活が始まった時、我が家には車が1台だけ。その車は夫が仕事に使用するものだから、平日の日中は車なしの生活になる。日本のようにバスがあり、電車がありの社会ではない。私一人のときは何とかなったが、長男が生まれてからは、緊急にお医者様に連れて行ったり、どうしても必要なものを買い出しに行ったりということが頻繁になり、私専用の車が必須になった。

 
ヨコヤマさんに相談すると、「甥っ子のジョージに相談したらいい。彼は車が大好きでとても詳しい。きっといい車を紹介してくれるだろう」とのこと。それがジョージと知り合うきっかけだった。

 
ジョージはヒロのダウンタウンでアロハ石油系列のガソリンスタンドを経営していた。車の件を相談すると、彼が所有する車の中で、フォードLTDを売ってくれるという。さて、どんな車なのか、実物を見てびっくり。私は日本ではカローラを運転していた。その何倍も大きいと感じるようなドデカイ車なのだ。
画像1
(我が家のLTDの写真がどうしても見つからない。これはpinterestから入手した画像。イメージ的には大体こんな車だった)

 
これはジョージがあちこち手を加えた肝いりの1台で、最大の特色はエンジンをかけなくても窓を開けられることだ。年中暑いハワイでは、駐車している車の内部は触れないほど熱くなっている。エンジンをかけずに窓を開け、中の空気を入れ替えられるのは、とても助かるのだ。しかしこんなに大きな車をどうやって扱えるものか。心配しても始まらないので、アパートの駐車場で何度か練習をしているうちに、必要にも迫られ何とか運転できるようになった。

 
そんなある日、長男の洋一郎が風邪をひき、熱を出した。日本で言われていたように、1枚上着を重ねベビーシートに座らせ、病院へ向かった。途中でジョージのガソリンスタンドに寄り、車の相談をしていた時だ。突然ジョージが叫んだ.
「He’s convulsing!!!」  えっ、何?? Convulsing  って何?
ジョージが指さしている先の長男を見ると、体は弓なりに反りかえり、目は白目をむいている。その異様な姿にびっくりした私は、その場から動けなくなった。

 
ジョージは「Emi, Hurry up. Yokun is convulsing(洋一郎のことを、ハワイの友人たちはYokunと呼んでいた.)と叫んだ。スタンドの奥にいたエミは走ってきて、とりあえずそばにあったバケツの水にぞうきんを浸して、洋一郎のわきの下を濡らした。そして、どうしてよいか分からず動けないでいる私を助手席に座らせ、病院まで車を運転してくれたのだ。

 
担当医は、洋一郎のconvulsing つまり“引きつけ” の原因を調べるために髄液を取った。その痛さに泣く息子の声を隣室で聞きながら、私も不安で一緒に泣いていた。夫はホノルルに出張で不在だったため、余計に不安になった。ヨコヤマさんは、そんな私に、「心配だろうから家に泊まりなさい」と言ってくれたので、私はその言葉に甘えて、2~3日泊めてもらった。結果は単なる熱性けいれんということでホッとした。こうして初産を外国で迎え、子育てについて知らないことばかりの新米ママは、それでもありがたいことに多くの人の助けを得ながら、何とか前に進むことができたのだ。

 
30年近く前のことだ。私が9時間に及ぶ乳がんの手術をして3カ月後、どうしてもハワイへ行きたくて息子二人を連れて1週間ほどヒロに滞在したことがある。毎日のようにヨコヤマ一族が集まってくれ、思い出話に花が咲いた。大学生になっていたハワイ生まれの洋一郎、高校生のシアトル生まれの俊介の成長を見て、ヨコヤマさんはまるで別人を見ているような様子だった。ハワイの人たちも皆、同じように年齢を重ね、それぞれ病気や様々な問題を抱えているはずなのに、底抜けに明るい彼らの姿を見て、私はどれほど勇気づけられたことか。手術後は何かにつけ悲観的なことばかり考えていた自分が情けなく思え、みんなから限りない生きるエネルギーを授けてもらった。

 
その時、ジョージが私たち3人を釣りに連れて行ってくれたことは、息子たちにとっても忘れられない思い出だ。近くの入江に行き、熱帯魚のような黄色と黒の縞模様の小さな魚を、釣り針でひっかけるようにして数匹釣った。これを釣りと呼べるのかは分からないが、私たち親子3人は夢中になって楽しんだ。いろいろなちっぽけな悩みが消えていった。

 
数年前久しぶりにヒロを訪れた。ヨコヤマさん夫妻はすでに亡く、妹の中でただ一人健在だったシマダさんも、糖尿病で目が不自由になり、グループホームのようなところで生活していた。夫の“仏のジョー”(根っからやさしい人だったので、みんながそう呼んでいた)はすでに亡くなっていた。このグループホームでは、1件の家の各ベッドルームにお年寄りが一人ずつ生活し、その洗濯や食事のお世話はフィリピン人の親子がやっていた。

 
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※ジョージがまだ元気だったころ、シマダさんを連れてランチに行ったとき。
ジョージの隣がエミ。私の隣がシマダさん

 
ジョージはエミと共に、毎週必ずシマダさんを連れ出して、レストランでランチを食べ、ダウンタウンのデパートに行って買い物をした。ジョージはこう言っていた「俺は親不孝だった。ろくに両親の世話をしないまま、二人はいなくなってしまった。その罪滅ぼしに、アンティ・ヨシコ(シマダさんのこと)の世話をしているんだ」。

 
私がヒロに行った時も、一緒にシマダさんを迎えに行った。もう遠くがほとんど見えなくなっていたシマダさんは、私の呼ぶ声を聞いて、ウォーカーにすがりながら「おー、アツコさん? アツコさんなの?」と近づいてきた。
そしてジョージの車でレストランへ行き、おなか一杯豪華なランチを食べ、デパートへ行ってショッピング。シマダさんは私に何か買ってあげたいとさんざん探した挙句、ブラウスとロング丈のスカートのセットを買ってくれた。

 
そんなシマダさんも、ジョージも今はいない。ヨコヤマさん、奥さんのツルさん、シマダさんのお姉さんのクレさんなど、私の親代わりになってくれた多くの日系二世の方々は、もうこの世にはいない。だが、ありがたいことに、三世、四世の人々と依然として交流は続いている。そして、エミから新しいメールが来た。
「Hi! Thank you for remembering George…still miss him…my 80th birthday was on the 28th of December he couldn’t wait to help me celebrate my birthday…at least he is without pain and resting comfortably now.」
(ジョージのことを覚えていてくれてありがとう。私もとても寂しい。彼は12月28日の私の80歳の誕生日のお祝いまで待ってくれなかったけれど、今は苦しみもなく、ゆっくりと休んでいると思う)
そしてそのあと、「3月3日に甥の結婚式が韓国で行われるので、その帰りに東京に2泊3日する。その時ぜひ会いたい…」とあった。うれしかった。こうして私はこれからもハワイの日系の大切な友人たちとの絆を大切にしていきたいと、強く思った。

 
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。

 
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