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やさしいHAWAI’I 第77回 聖なる妻ケオプオラニ(1)

やさしいHAWAI’I 第77回 聖なる妻ケオプオラニ(1)
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【最近の私】9月には2週間ゆっくりとハワイを楽しむ旅をする予定でしたが、突然事情が許さなくなり涙を呑んで諦めることに。でも来年は必ず夢をかなえます。
 
今回はカメハメハにとって、どうしても必要な人物であった「聖なる妻」ケオプオラニについて語りたいと思います。
 

ケオプオラニの肖像画 出典:「アロハプログラム」

上記は、私の知っている限りで唯一の、聖なる妻と呼ばれたケオプオラニの肖像画です。あまりに型にはまった無表情な姿は、前回取り上げた表情豊かなカアフマヌのスケッチ(下2枚)と比較すると、ほとんど人間味が感じられません。
 

なぜでしょうか?

カアフマヌの肖像画 出典:アロハプログラム
カアフマヌの肖像画 出典:「アロハプログラム」

 
1778年、キャプテンクックが初めてハワイを訪れて以降、1820年代にかけて、多くの西洋人がハワイへやって来ました。目的は様々でしたが、その一つに当時ハワイに自生していた白檀(サンダルウッド)があります。西洋人は、中国では高額で売れることに目を付け白檀を乱伐する一方で、ハワイは西洋人との取引からわずかな収益しか得ていませんでした。王国は西欧諸国から、船、武器、酒などを買い付け負債が徐々に膨大となり、それを補うためにさらに白檀の伐採が加速し、ついには枯渇して白檀貿易は終焉を迎えます。
 
これらの貿易商人のほかに、ハワイには捕鯨船員や探検家など多くの西洋人が集まりました。その中には画家もやって来て、興味深いハワイ人の生活や文化を紹介するために、多くのスケッチを描きました。対象となったのは、カメハメハ大王、カアフマヌ、その他の王室のメンバーでしたが、画家たちはなぜかケオプオラニにはあまり関心を抱かなかったと言われます。(それゆえ、彼女の肖像画は私の知る限り、上記に示したわずか一枚です)。いえ、実は関心がなかったのではなく、ケオプオラニの姿を見る機会を与えられなかったのが、その理由だったのです。それはいったいどういうことだったのでしょうか。
 
前回、カメハメハ大王にとって重要な存在であったカアフマヌについて書きました。身の丈1.8メートルで極めて美しく、大きな野心をかかえ、新しいハワイへのゲートを開く役目を果たした、カメハメハが最も気に入っていたカアフマヌ。カメハメハの死後、摂政として力を持ち、古いカプ(タブー)や従来の信仰を捨て、亡くなる間際に自らキリスト教徒となったカアフマヌ。彼女は表舞台で大いにその存在感を示しました。西洋人もこぞって彼女と接触を持ち、この興味深い女性の肖像画も多く描かれました。
 
そんな彼女の陰のような存在でありながら、カメハメハ大王にとってはどうしても必要であった女性、それは「聖なる妻」と呼ばれていたケオプラニという人物です。私はカアフマヌに強い関心を持っていましたが、さらにこのケオプオラニという女性が、一体どのような人物であったのか、カメハメハの下でどんな人生を送ったのか、大変興味を持っていました。彼女に関する情報は、カアフマヌよりさらに限られますが、その中で再び、私なりの彼女の姿を映し出してみたいと思います。
 
まずは何をもって「聖なる妻」と呼ばれたのか。
 
ケオプオラニは、キャプテンクックがハワイを初めて訪れた1778年に生まれました。彼女の先祖をたどると、父はハワイ島の大酋長、母はマウイ島の大酋長の血筋で、ついには神に繋がるほどの高貴な家系でした。古代ハワイでは、高貴な生まれを継続させるために、親族内での結婚が勧められ、とくに兄妹の間の結婚は最もステータスが高い結婚とされていました。ケオプオラニの両親は、それぞれ高貴な血筋である上に、母親が同じ人物で父親が違うという関係(これをNiau-Pio ニアウ・ピオと言います)であったため、その高貴な生まれはさらに神々と同じくらい崇高であると見なされたのです。この最高ランクのステータスは、子孫にまで受け継がれていきます。
 
当時のハワイの社会で最高ランクの立場にいたケオプオラニは、あまりに高貴なためSacred と呼ばれ、多くのカプ(タブー)を持っていました(これが「聖なる妻」と呼ばれた所以です)。彼女の前では誰もが、たとえカメハメハでさえも上半身の衣類を脱ぎ、地面にひれ伏さなくてはならず、直接その姿を目にすることはできません。また、太陽が彼女を照らし、そこに現れた彼女の影を踏んだ者は死刑となり、焼き殺されました。(これをカプ・モエといいます)
 
そんなカプを持っているケオプオラニの人となりは、実は優しく穏やかで、自分ではカプを厳しく守っていましたが、人民がカプを破ることに対してはとても寛大でした。それゆえ自分の影を踏んだものが死刑になることを避けるために、日中人前に出ることはほとんどなく、西洋人は彼女の姿を目にする機会がなかったのだろうと推測できるのです。
 

戦略に長け、大きく勢力を伸ばしていたカメハメハにとって、ハワイ諸島の統一は目前でしたが、ただ一つ欠けていたことがあります。カメハメハの家系のランクはそれほど高くなく、今後ハワイ国王の地位を継続していくためには、より高貴な存在となる後継者をつくることが必要でした。それには高貴な家系の女性を妻とすることが必須であり、それも処女でなくてはなりません。生まれてくる子供は明確に国王の血を引いていることが証明されなくてはならなかったのです。
 

1790年、カメハメハは、ハワイにやって来た西洋人から船、銃、そしてそれを操ることのできる西洋人の船員を手中にし、勢力を増強してマウイ島を攻撃し始めます。マウイの首長カヘキリは破れ、その一族だったケオプオラニ、彼女の祖母、母親の3人はカメハメハにとらえられます。その時ケオプオラニはおよそ12歳でした。カメハメハがハワイ諸島を統一し国王になるために、最も必要としていた高貴な血筋。それはケオプオラニを妻にすることによって得ることができることを、カメハメハは十分知っていたのです。
 
記録を調べると、ケオプオラニには3人の子供がいたと記されています。(第一子は未熟児で生後まもなく死亡し、子供の数には入っていません。また第ニ子が未熟児で死亡したという説もあります)。1797年男児を出産。リホリホと名付けられ、後のカメハメハ二世となります。それから17年の間をおいて、1814年カウイケアウオリ(後のカメハメハ三世)、翌年には娘のナヒエナエナが生まれました。
 
1820年には宣教師が初めてハワイを訪れ、布教のためハワイに滞在する許可を求めてきました。大半の首長たちは反対しますが、ケオプオラニは快く許可し、その後宣教師、そしてキリスト教の影響を強く受けるようになります。
 
1823年に体調を崩したケオプオラニは宣教師を伴ってマウイ島に移り住み、娘のナヒエナエナと過ごします。自分の死を予感したケオプオラニは、カメハメハ二世となっていた息子のリホリホに、父親のカメハメハが大切にしていたハワイの国民と土地をしっかり守り、宣教師たちと友好な関係を続けること、もう一人の息子カウイケアウオリと娘のナヒエナエナにはキリスト教の教えに従い、キリストを神として愛することを強く指示しました。死の間際には自らもキリスト教に改宗し、ハリエット(宣教師の一人、スチュワートの夫人の名前)という洗礼名を授かり、自分が死んだのちは、古代ハワイの葬式ではなく、キリスト教のやり方にのっとって葬儀を行うように言い残します。そしてついに1823年9月45歳で亡くなりました。

 

ケオプオラニに関する資料は、どれを読んでもほとんど上記と同じようなことが記されており、表面的な情報のみで、何か物足りなさを感じました。きれいごとを並べただけで、ケオプオラニの人間として生きた証のようなものが感じられなかったのです。
 
そこで、さらに調べていたところ、驚くような文献が現れたのです。次回はそのことに関して書きたいと思います。
 

【参考文献】

・アロハプログラム
https://www.aloha-program.com/

・Hawaiian Dictionary by Pukui

・『Keopuolani, Sacred Wife, Queen Mother, 1778-1823』 by Esther T. Mookini
・『History of the Sandwich Islands』 by Anderson Rufus
・『The Sacred Wife of Kamehameha I Keopuolani 』
The Hawaiian Journal of History #5
・『The overthrow of the kapu system in Hawaii 』
The journal of the Polynesian Society
・『Memoir of KEOPUOLANI, Late queen of the sandwich islands』
by Richards William

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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。
 
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