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明けの明星が輝く空に 第160回:シン・仮面ライダー②:黙祷するヒーロー

※今回の記事は、映画の設定に関するネタバレを含みます。ストーリーについては最小限に抑えてありますが、映画鑑賞を検討中の方はご注意ください。
 

『シン・仮面ライダー』の主人公、本郷猛は、敵を倒した後に黙祷する。これまで、そんなことをするヒーローがいただろうか。彼の敵は怪物やロボットではなく、人間だ。SHOCKERという非合法組織によってオーグメンテーション(肉体拡張)を施され、異能の力を与えられてはいるが、そこは変わらない。本郷自身もオーグメンテーションを受けており、マスクを被ると生存本能が増幅されて暴力的な衝動が抑えられなくなる。バッタオーグ(仮面ライダー)としての初めての戦いでは、襲いかかる何人もの敵をいとも簡単に殴り殺し、あたりを鮮血で染めてしまった。
 

敵といえども人間の命を奪ったことに衝撃を受け、苦しむ本郷。人を簡単に殺すことができる「行きすぎた力」を拒否する意思を示すが、敵であるクモオーグに捕らえられたヒロイン、緑川ルリ子を助けるため、再び戦わざるを得なくなる。クモオーグの手下たちを文字通り瞬殺し、クモオーグとの1対1の戦いも制した後、マスクを脱いだ本郷は「思ったより辛い」とつぶやく。そして、悲しみに耐えるかのように震えながら、文字通り泡となって消滅したクモオーグの痕跡へ向かい、頭を垂れるのだ。
 

僕は、本郷の台詞の中の「思ったより」という言葉が引っかかった。まるで彼が、人の命を奪うことを軽く考えていたようにも聞こえるからだ。その台詞を理解するためのカギは、警察官である彼の父が殉職したことだろう。銃を使わず、刃物を持った男を説得しようとして刺された父。その事件現場に居合わせてしまった本郷が、たとえ犯人が死んだとしても父は銃を撃つべきだった、と考えていたとしても不思議ではない。悲劇を経験し、人を守れる強い力を望んだ本郷は、父とは違い力が使えるようになりたいと願った。しかし、自分が実際に人の命を奪ってみると、想像以上に精神的に堪えたということなのかもしれない。
 

話を本題に戻そう。黙祷する本郷を見たルリ子は、「優しすぎるかも」とつぶやく。実は、彼女にはSHOCKERを倒すという目的があった。SCHOCKERは元々、人々の幸福を実現するために設立された組織だったのだが、オーグメンテーションを受けた者たちがエゴに走るようになっていた。ルリ子は、父である緑川弘博士とともにSHOCKERの構成員だったが、2人して組織を裏切り、本郷猛を脱出させて自分たちの計画を手伝わせようと考えていたのだ。
 

本郷に対し同じような危惧を抱いたのは、ルリ子以外にもいる。SHOCKER対策のため、彼女たちに近づいてきた情報機関の男だ。彼が本郷の行動を見て「優しすぎる」と言ったのは、ルリ子にとって「友人に最も近い」関係だったヒロミ(ハチオーグ)と戦わずして撤退した時だった。本郷は、なるべくならヒロミと戦いたくないというルリ子の心の内を察していたのだ。
 

それでも再びヒロミのアジトに乗り込んだ際には、戦わざるを得なくなる。結果、本郷は勝った。しかし、ヒロミの命を奪うことはしなかった。どうやらこの時までに、強い精神力で自制心を働かせる術を見つけていたらしい。ところが、そこに現れた例の情報機関の男が、特殊な銃弾を使いヒロミを撃ち殺してしまう。涙を流すルリ子の横で、本郷は黙祷を捧げた。
 

彼のこうした行動は、もう1人の仮面ライダー、一文字隼人にも影響を与えている。飄々としてどこか浮世離れした感のある一文字だったが、“ダブルライダー”として力を合わせて戦った後、黙祷する本郷を見て、それに倣うのだ。
 

映画を観ていない方は「黙祷するヒーロー」という今回の記事のタイトルを見て、「黙祷」は「決め台詞」や「得意技」のようなキャラクターに個性を与えるためだけの、ある意味“格好つけ”のようなものと思われたかもしれない。しかし、本郷の黙祷する姿からは、彼の真摯な思いが感じられる。そう感じるのは、本郷を演じた池松壮亮さんの演技によるところも大きいが、本郷の人物設定も同じぐらい重要だ。
 

物語冒頭において、本郷は「いわゆるコミュ障。それが原因で現在無職。バイクが唯一の趣味」という説明がなされる。これはルリ子の言葉なのだが、単に彼女は父の緑川博士にそう聞かされていたらしい。しかし、「コミュ障」というのはオーバーな言い方だ。本郷と周囲の人間のコミュニケーションは、問題なく成立している。確かに感情が話し方や表情に出るタイプではないが、自分の心情や思いは隠さず言葉にし、上辺を取り繕ったり格好つけたりする人間ではない。だから、その言動に嘘は微塵も感じられないのだ。
 

倒した敵に向かい、黙祷するヒーロー。非常に希有な存在だが、考えてみれば命を奪った辛さに苦しむのは、人として当たり前のことだ。しかし、特撮作品に限らず時代劇などでも、ヒーローのそういった姿はほとんど描かれてこなかった。正直なところ、『シン・仮面ライダー』でも十分描き切れていたかどうか、議論の余地は残る。しかし、そこに目を向けたという点において、本作は肯定的に評価されるべきだろう。
 

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】最近、意味も無く「特撮浪曼主義」とか「特撮耽美派」という言葉を思いつきました。でも文字にしてみると、なんだかしっくりする。特撮に対する自分の信条が明確になったようで。ということで、これからは特撮浪漫主義を掲げ、特撮耽美派を標榜するのだ。

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明けの明星が輝く空に 第159回:シン・仮面ライダー①:人はひとりでは生きられない

※今回の記事は、映画の設定に関するネタバレを含みます。ストーリーについては最小限に抑えてありますが、映画鑑賞を検討中の方はご注意ください。
 

この春に公開された映画、『シン・仮面ライダー』の3枚組ポスターには、それぞれ「孤高」、「信頼」、「継承」という物語の流れを示すキーワードが入っている。注目すべきは、「孤高」がひとりであることを意味しているのに対し、残りの2つは他者の存在が前提だということだ。(掲載されている写真も1枚目が出演者1人、他の2枚は2人である。)
 

本作において主人公との敵となるのは、SHOCKERと名乗る組織。テレビ版『仮面ライダー』(1971年~73年)における秘密結社「ショッカー」を踏襲したネーミングだが、単に英語表記に変えただけではない。SHOCKERとは“Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling”の頭文字を取ったもので、 “Happiness”とあるように、人々に幸福をもたらすことを理念としており、その本質は“悪の組織”ではない。
 

最後の“Remodeling”は、ライダーシリーズでおなじみの“改造”にあたり、いわゆる“怪人”たちのことを示している。本作で “オーグメント”と呼ばれる彼らは、幸福を実現するためコンピューター的知見を付与され、肉体を強化された者たちだ。ただし、与えられた力を自分勝手な目的のために使っていた。例えばコウモリオーグは、人口を減らすことが人類の幸福という信念のもと、特殊ウィルスを開発。ハチオーグは人々を支配することが自身の幸せ、支配されることが自分以外の人間にとっての幸せと考え、町の人々を働きバチのように従えている。
 

エゴに満ちた彼らを止めたいと考えたのが、SHOCKERの構成員だった緑川弘博士だ。彼は娘のルリ子を使い、バッタオーグとして自身が肉体をアップグレードした青年、本郷猛を組織から脱出させた。自由の身となった本郷は仮面ライダーを名乗り、オーグメントたちを倒していく。そんな中、ルリ子は兄であるイチロー(チョウオーグ)が羽化し、完全体になったことを知る。イチローは肉体の存在しない魂だけの世界、同時に本心だけの嘘のない世界=“ハビタット世界”へ全人類を送ることを目論んでいた。過去に母親を無差別殺人事件で失い、絶望にたたき落とされた彼は、ハビタット世界なら誰もが傷つくことはないと考えたのだ。
 

本作を撮った庵野監督の作品に詳しい人なら気がつくだろう。ハビタット世界は、エヴァンゲリオンシリーズの「人類補完計画」にそっくりだということに。その計画が完遂すれば、世界は個々の人間が肉体を失い、ひとつの魂として存在するものに作り変えられる。そこに他者は存在しない。だから、自分が傷つくことも、人を傷つけることもない。
 

どちらにも共通しているのは、悲しみと向き合うことを拒絶している点だ。それは、イチローが本郷猛を迎え撃つために用意したもうひとりのバッタオーグ、一文字隼人の洗脳方法にも表れていた。一文字は抱えていた悲しみを消され、「多幸感を上書き」されていたのだ。(一文字はこのあと洗脳を解かれ、ダブルライダーとして本郷と力を合わせて戦うことになる。)
 

悲しい記憶を消す。聞こえはいいが、それは「現実と向き合わない」=「逃げ」でもある。だからこそ、本郷猛は現実から目を逸らさない。彼もまた、警察官だった父親を目の前で殺され、絶望を経験していた。そんな彼が望んだのは、人を守るための強い力を持つこと。(その思いを知っていた大学の恩師、緑川博士が本人の承諾も得ず、彼をオーグメントにしてしまった。)洗脳されていない本郷は、何度も悲劇の場面を思い出す。彼はSHOCEKRだけでなく、悲しみとも戦い続ける男だった。
 

ところで、本郷のこういった設定を聞くと、熱い心と強い精神力を持ったヒーロー像を思い描くかもしれないが、彼はまるで正反対だ。ルリ子によれば“コミュ障”という、およそヒーローらしからぬ人物で、感情表現にも乏しい。そして興味深いことに、感情を見せないのはルリ子もイチローも同じだった。ルリ子は父がSHOCKERに殺されても悲しむ様子はなかったし、イチローも終始ロボットのように無表情で、感情が欠落した話し方をする。
 

庵野監督はエヴァンゲリオンシリーズでも、綾波レイという感情が欠けた人工生命体である少女を登場させている。しかし彼女は、主人公シンジとの交流を通して様々な感情を見せるようになる。同様にルリ子も、本郷と行動を共にするうちに表情が豊かになり、イチローもルリ子の思いに触れ、最後は人間らしい表情に変わった。
 

人は自分ひとりの世界に閉じこもれば、感情が乏しくなる。豊かな感情は、他者との関わり合いから生まれてくるからだ。また、ひとりで悲しみを乗り越えるのは辛い。寄り添ってくれる誰かが必要だ。「人はひとりでは生きられない」という言葉には、そんな意味もあるのだろう。他人を信じないと言っていたルリ子は、本郷との信頼関係を通し、「幸せ」が何であるか理解するようになった。そしてラストシーンでは、人とつるむのが嫌いだった一文字が、バイクを走らせながら本郷にこう語りかける。「オレたちはもうひとりじゃない。いつもふたりだ。」美しい景色の中、希望に向けて走り去っていくこのシーンに、庵野監督の思いが込められている。
 

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】先月、『帰ってきたウルトラマン』で主人公の郷秀樹を演じた団時朗(当時は次郎)さんが鬼籍に入られました。まだ70代。子ども時代の記憶と一番強く結びついたウルトラマンだけに、残念でなりません。ご冥福をお祈りいたします。

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明けの明星が輝く空に 第158回:ウルトラ名作探訪15「怪獣殿下」

「怪獣殿下」は、『ウルトラマン』で唯一、前編(第26話)と後編(第27話)に分かれた“大作”で、怪獣の強さをストレートに表現した単純明快さが魅力だ。登場する古代怪獣ゴモラは、純粋に体力だけでウルトラマンを圧倒。最初の対戦では、ウルトラマンを角で宙に放り投げた後、倒れたところを踏みつけたり、尻尾で何度も打ち据えたりし、ほぼノックアウトに追い込んでいる。
 

ただ、「怪獣殿下」における“スペクタクル”は、むしろウルトラマンとの戦闘シーン以外のところにある。例えば、戦車部隊がゴモラに向けて一斉に砲撃する場面。撮影では、これでもかというぐらい火薬が使われており、スタジオに立ちこめる爆煙でゴモラの姿が隠れてしまうほどだ。そんな中でも、(着ぐるみに電飾が埋め込まれているおかげで)ランランと光るゴモラの目は、異様な生命力に満ちており、凄みすら感じる。
 

また、大阪城を破壊する場面も、怪獣映画の世界をそのままテレビに持ってきたかのような迫力があって壮観だ。セットに置かれたミニチュアの天守閣は、ゴモラを上回るボリューム感。しかも、頑丈な作りで簡単には崩れない。ゴモラの着ぐるみに入ったスーツアクターも、ある程度気合いを入れる必要があっただろう。それがゴモラの本気度として立ち現れ、リアリティある破壊シーンを生み出している。
 

「怪獣殿下」のもうひとつの魅力は、当時の子どもたちの夢を叶えて見せたことだ。タイトルにある怪獣殿下とは、怪獣が大好きな少年、治(おさむ)のニックネームなのだが、クラスメートたちは怪獣の存在を信じておらず、彼を馬鹿にしている。しかし、ゴモラ出現のニュースが流れた翌日、友だちの態度も一変。正しいことが証明された治は得意満面だ。当時、大人たちに怪獣の存在を否定され、悔しい思いをした子どもたちは少なくなかっただろう。そんな子どもたちは、治に自分たちの姿を重ねて見ていたに違いない。
 

余談であるが、怪獣の存在が認知されていないというのは、ゴモラ以前に何体もの怪獣が出現した『ウルトラマン』の世界では不自然なことだ。ところが治少年を取り巻く(ゴモラ出現以前の)環境は、視聴者の暮らす現実世界と変わらない。裏を返せば、現実世界が作品内に取り込まれたと言ってもいいだろう。これは、テレビの中と外の世界が地続きであるかのように感じさせる演出だと考えられる。虚構と現実の境界をあいまいとすることで、子どもたちはますます『ウルトラマン』の世界に引き込まれていくことになるわけだ。
 

閑話休題。治がテレビの前の子どもたちに代わって叶えてくれた夢は、ほかにもある。彼はゴモラ退治に貢献した活躍を評価され、本作の主人公であるハヤタ隊員に科学特捜隊のバッジをプレゼントされるのだ。しかもそれは通信機能付きで、ジェット機で飛行するハヤタと交信まで行う。大人の僕から見ても、これ以上うらやましいことはない。
 

このように、「怪獣殿下」は子どもたちにとってのエンターテインメントとして優れた作品なのであるが、実を言うと「名作」として紹介するのには躊躇があった。それは、物語に内在する人間のエゴが、作品内で糾弾されることがないからだ。ゴモラはもともと、未開の島に生息していただけで、何ら脅威ではなかった。それを人間に発見され、万国博覧会の展示用にと、麻酔弾を撃ち込まれ空輸されてきたのだ。お粗末なことに麻酔が想定より早く切れ、科学特捜隊は暴れ出したゴモラを上空から投下。その衝撃で凶暴化したゴモラは、退治されてしまう。
 

このプロットは、映画『キング・コング』(1933年)を下敷きにしていると見て間違いない。『キング・コング』も人間のエゴを明確に糾弾しているというわけではないが、戦闘機の機銃掃射を受け弱っていくコングの表情は悲しげで、自然と観る者に同情心を抱かせる。ゴモラも尻尾を切られ角を折られ、弱々しい鳴き声を上げて力尽きるのだが、その直後に治少年と、科学特捜隊のアラシ、イデ両隊員が喜ぶカットに変わり、勝利を祝うムードに包まれる。だから「憎むべきやつだったが、かわいそうなことをした」というアラシの台詞も、取って付けたようにしか聞こえない。加えてイデが、あたかも供養のためとばかりに「剥製にして万国博の古代館に飾ってやろう」と言うに至っては、人間の身勝手さがむき出しになったという印象を禁じ得ない。(こういった観点からすれば、「怪獣殿下」は、およそ『ウルトラマン』らしからぬ作品と言えるのだ。)
 

ただ逆説的に、そのように思えた時点で、「怪獣殿下」には(おそらく制作者の意図しなかった)意義が生まれるとも言えるだろう。結果的に、人間のエゴを観る者に突きつけていることになるからだ。文学作品の批評理論に「テクスト論」というものがあるそうだが、これは作品を作者(の意図)から切り離し、書かれているものを読者が自由に解釈してもよいとする考え方だ。それとは少し違うのかもしれないが、少なくとも反面教師として捉えることはできそうだ。そして、そのような視点を持って鑑賞することで、「怪獣殿下」は名作と呼ぶことができる。そう言っても良いのではないだろうか。
 

「怪獣殿下」(『ウルトラマン』第26、27話)
  監督:円谷一、脚本:金城哲夫・若槻文三、特殊技術:高野宏一
 

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】JVTAのスタッフブログにシェイクスピアの話題が出ていましたが、偶然にも『ハムレット』と『マクベス』を最近になって初めて読んだところでした。芝居経験者としてはともかく、翻訳者として有名な台詞の知識くらいないとダメだろうと思って。まあ、メジャーリーガーあたりがシェイクスピアを引用することはまずないでしょうけど。

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明けの明星が輝く空に 第157回:特撮俳優列伝28 松本寛也

今年の干支にちなんだ記事(https://www.jvta.net/co/akenomyojo156/)を書くために視聴したスーパー戦隊シリーズの36作目、『特命戦隊ゴーバスターズ』(2012年~2013年)は、思いのほか面白かった。その理由のひとつが、陣マサトという登場人物の魅力であったことは間違いない。そして、それを演じた俳優が、松本寛也さんだった。
 

実を言うと、僕はすでに松本さんの過去の出演作品を観ていた。同じスーパー戦隊シリーズの29作目、『魔法戦隊マジレンジャー』(2005年~2006年)だ。松本さんはその中で、マジレンジャーである5人兄弟の次男(兄1人、姉2人、弟1人)、小津翼を演じている。番組開始当初、松本さんは18歳。芸能界にデビューして、初めてのレギュラー作品だった。
 

小津翼はクールで、よく言えば繊細、悪く言えば神経質そうな若者だ。彼が主役となったエピソード、たとえば禁断の魔術に手を出してしまう第23話や、絶望的状況から兄弟を救う第38話で、松本さんの新人俳優らしく若さをぶつけるような演技を見ることができる。まだどこか垢抜けなさも残るが、時折見せる真剣な表情はなかなかハンサム。経歴を見ればそれも納得で、2003年の第16回ジュノン・スーパーボーイ・コンテストで準グランプリに輝いているのだ。
 

その後キャリアを積んだ松本さんが、再びスーパー戦隊ものに出演したのが『特命戦隊ゴーバスターズ』だ。そこで演じた陣マサトは、松本さんにとっての“ハマリ役”と言っていいだろう。天才エンジニアであるマサトは13年前のある事件の際、亜空間に転送されてしまったが、アバターとしてゴーバスターズの前に現れる。ビートバスターに変身し、相棒のロボット(バディロイド)とともに、レッドバスター、ブルーバスター、イエローバスターの3人と共闘する。
 

第15話で初登場した陣マサトの印象は、単刀直入に言えば“軽くて、すかした男”。レッドバスターこと桜田ヒロムには、面と向かって「虫の好かない男」と言われてしまったぐらいだ。ビートバスターに変身しての戦闘シーンでも、ブルーバスター(岩崎リュウジ)の気合いが入った戦いぶりを見て、「お、いいよ、いいよ。熱いよ、リュウちゃん」と軽口を叩くなど緊張感もない。ただ、そんな軽いノリのまま、難なく敵を倒していく姿は頼りがいがあってカッコイイ。また、松本さんのしゃべりは多少舌足らずに聞こえるが、戦闘中はなぜか気にならない。むしろ飄々としている上に颯爽とした雰囲気もあって、聞いていて心地よいとさえ思った。
 

物語が進むにつれ、表面上は明るい陣マサトにも秘密があることが明らかになる。それは、アバターにダメージが蓄積すれば、本体も危険だということだ。そもそも亜空間にいる彼は、データの欠落が原因で、13年たっても転送が終了しておらず、下半身が実体化せぬまま昏睡状態にあった。それが現実世界における戦いの影響で、胸の近くまで消えかかっていたのだ。これには、さしものマサトも「さすがの天才もお手上げかもしんねえ」と、バディロイドとの会話で弱気な言葉を漏らしている(第40話)。それでも、「以上。報告、終わり!」なんて明るく締めくくるところが、彼らしいのだが。
 

物語がクライマックスにさしかかり、マサトは世界を救うため、自分の身を犠牲にすることを選択する。具体的には、ヒロムに埋め込まれた敵のバックアップデータを、自身の本体に転送することで取り除くのだ。しかし、大量のデータに耐えられなくなったマサト本体は、バラバラになって消滅してしまう。その計画を、同期である黒木(特命部司令官)に明かした際、「覚悟の決め時ってのがあるならよ、今だと思うぜ」と笑みを浮かべながら静かに告げる(第49話)。この時、彼が初めて見せた穏やかな笑顔が胸に突き刺さる。すべてを受け入れ、無我の境地に達した人間の表情を、松本さんは見事に表現してみせている。(その後、第50話でマサトの案に納得できないヒロムらと見せた、熱い魂のぶつかり合いにも胸が熱くなった。)
 

『特命戦隊ゴーバスターズ』出演後、松本さんは『手裏剣戦隊ニンニンジャー』(2015年~2016年)に、『魔法戦隊マジレンジャー』と同じ小津翼役でゲスト出演。2017年には「スーパー戦隊親善大使」に就任し、同年に始まった『宇宙戦隊キュウレンジャー』にもゲスト出演している。ホシ★ミナトという宇宙No.1アイドルの宇宙人役だったのだが、その姿には驚いた。もじゃもじゃのアフロヘアーの中から、漫画『DRAGON BALL』のピッコロのように2本の触覚が突き出し、皮膚は金色。見た目は完全な“キワモノ”キャラだった。仮にもヒーローを演じた人が、そんなメイクをするとは!ただし、中身は普通すぎるほど普通で、売れない頃に路上でひとりギターを弾きながら歌っている姿など、どこにでもいる若者といった雰囲気だ。その歌に勇気づけられたヒロインとの会話では、その表情から誠実な人柄も伝わってきた。
 

松本さんはさらに、『仮面ライダーリバイス』(2021年~2022年)にもゲスト出演している。そこでは、なんとチンピラ役だった。こうなったらもう怖いものなしだろう。スーパー戦隊、仮面ライダー、どちらのシリーズでもいいから、ぜひ悪の側のメインキャストとしてレギュラー出演して欲しい。特撮作品の悪役はキャラが濃く、役者として遊べる要素が多い。陣マサトで見せた時以上に、伸び伸びとした演技が見られるんじゃないだろうか。そうして特撮史に名を残す悪役を作り上げる、なんていうのも面白いではないか。
 
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【最近の私】『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』を観たら、『ボディーガード』が観たくなり…。どちらも、“エンッアーイアー♪”のところで(予想通り)泣けました。
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明けの明星が輝く空に 第156回:干支と特撮:ウサギ

正直な話、ウサギをモチーフにしたヒーローや怪獣・怪人は思いつかなかった。しかし、調べてみると見つかった。それも主役が。その名はイエローバスター。スーパー戦隊シリーズの36作目、『特命戦隊ゴーバスターズ』(2012年~2013年)のヒロイン、宇佐見ヨーコの変身後の姿である。
 

ただし、イエローバスターはあまりウサギっぽくない。ヘルメットをよく見れば、ウサギの耳らしき意匠は施されている。ただしそれは、頭部の曲線に合わせ後方に向かって寝ている形で、ほんの数センチ出っ張っているに過ぎない。前頭部にシンプルな線で描かれたウサギの顔がなければ、それが耳を模しているとはわからないだろう。
 

デザインの面では、むしろ彼女を取り巻くメカの方がウサギっぽい。まず、ちょっと口うるさい相棒、ウサダ・レタスというロボットには、頭に2本の長い耳のようなものがある。それらはイエローバスターが乗り込む専用マシンの操縦桿で、ウサダはコックピットに収まるようにも作られているのだ。そのイエローバスター専用マシンも、通常はヘリコプターとして機能するが、攻撃時にはウサギ型のロボットに変形。後ろ向きに両足キックをお見舞いするなど、アクションにもウサギっぽさが取り入れられている。
 

イエローバスターのアクションはどうだろうか。超人的な跳躍力を身につけてはいるが、特にウサギっぽくもない。こうなると、「設定をウサギにした意味はある?」と思ってしまうが、『特命戦隊ゴーバスターズ』のテーマは「変革」だったというから、そういった“いかにもありがち”な演出は避けられたようなのだ。Vシネマ『帰ってきた特命戦隊ゴーバスターズvs動物戦隊ゴーバスターズ』(2013年)を観ると、そのあたりがよくわかる。「動物戦隊」とは、本編の特命戦隊とは異なる世界、パラレルワールドのヒーローたちで、意味なく背景で爆発が起こる登場シーンや、メンバー全員が力を合わせる決め技など、 “これぞスーパー戦隊!”といった演出がふんだんに見られる。いわばセルフパロディの類いで、動物戦隊は、特命戦隊とは左右逆に映る鏡像のようなものなのだ。
 

そんな動物戦隊のイエローの名前は、ずばりイエローラビット。さらに、両手を頭の上に乗せて“耳”を作って見せたり、戦闘中「ぴょーん」と言いながらジャンプしたりするなど、これでもかというほどウサギっぽさを装う。「ぴょーん」というセリフには、女の子キャラを強調する意図も見えるが、ほかにも敵を倒して可愛く「やった!」と言うなど、本家とは方向性が180度反対だ。イエローバスター/宇佐見ヨーコのアクションに女の子っぽさは皆無で、彼女は気合いが入った掛け声もキレがいい。実は、第1話を観てまず「お!」と思ったのが、この掛け声だった。板に付いていて、カッコいいのだ。
 

ヨーコを演じた小宮有紗さんは、撮影開始当初は現役の高校生。劇中では16歳の設定で、3人いる特命戦隊のメンバー中、最年少だ。レッドバスターこと桜田ヒロムが20歳、ブルーバスターこと岩崎リュウジが28歳なので、自然と“妹”的な立ち位置になる。しかし、イエローバスターはアクションシーンにおいて年齢差など感じさせず、戦闘力も見劣りしない。小宮さん自身、ヨーコの立ち回りを見事に演じていた。中でも驚いたのが、テコンドーの二段蹴りを見せたことだ。これは一度蹴った足を地面に下さず、そのままもう一回蹴る技で、体幹が弱いとバランスが取れないし、足も上がらない。小宮さんはクラシックバレエの経験があるというから、アクションに必要な基礎体力もしっかりしていたのだろう。
 

小宮さんはまた、目に力があり、表情だけで芝居ができる女優さんだ。眉に力を込めた表情も凛々しい。そんな彼女が演じたヨーコにグッとくるような場面が、第23話「意志を継ぐ者」にある。それは仲間の1人、陣マサトが危険を冒して自分を守ってくれようとした時のことだ。彼の実体は亜空間にあり、アバターとしてゴーバスターズと行動を共にするのだが、アバターであってもダメージが蓄積すれば本体の生死にかかわる。そうと知ったヨーコは、出ていこうとするマサトを制し、自分の身は自分で守れると告げる。そしてさらに、力強くこう言った。「それに、誰かのことを守ることだってできる。」
 

この一言に僕はシビれてしまったのだが、このあとマサトによって、かつて彼女の母親ケイも同様のことを言っていた過去が明かされる。実は、ケイは13年前、ヨーコがまだ幼い頃に亜空間へと消えてしまい、幼かったヨーコには母の記憶があまりない。それでも、彼女の中には母親に似た芯の強さがしっかりと育っていた。親子の結びつきを感じさせるエピソードを挿入するあたり、心憎い脚本だ。さらに言えば、この日はヨーコの17才の誕生日。彼女の成長が、自然と伝わるような仕掛けとなっている。
 

「干支」というテーマがなければ、初見の『特命戦隊ゴーバスターズ』を全話視聴することはなかったろう。とりあえずイエローバスターをチェックするため観始めたのだが、意外なほど楽しめたし、好きな作品の1つにもなった。昭和以外の特撮も、悪くない。
 

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【最近の私】「新年の誓い」と言うほどじゃないけれど、今年はSF小説をたくさん読もうと思っている。実は、これまで単なるエンタメ系だと思って読んでいなかった。でも、常識にとらわれない発想の飛躍こそが、SF小説の魅力だと今さらながら気づいた。良質な作品から受ける刺激は、脳を活性化してくれる気もするし。
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明けの明星が輝く空に 第155回:ヒーローがいた場所:特撮ロケ地

戦い終えた本郷猛(仮面ライダー)が坂道を駆けてくる。道ばたには2匹の子犬。本郷はそれに気づくと、1匹を笑顔で抱き上げた。
 

これは、『仮面ライダー』第7話のエンディングシーンだ。撮影されたのは、川崎市多摩区の寺尾台(①)。小田急線読売ランド前駅北側の高台にある住宅街だが、恥ずかしながら、ここがロケ地だったことはつい先月まで知らなかった。「恥ずかしながら」というのは、僕が通っていた小学校がすぐ近くにあり、寺尾台には何人も同級生がいたからだ。
 

映像を見ているときに、身近な場所が撮影に使われていることに気づいたのは、前回の記事で触れた二ヶ領上河原堰(②)を含め3、4カ所ある。また、ネット上に出ている情報から、近辺にロケ地が多いことも知っていた。そこで今回の記事のテーマに選んだわけだが、改めて調べてみると予想以上に多かった。そこで今回は、ライダーシリーズ中心に紹介しよう。Googleマイマップで、この記事に対応した地図を作成したので、ぜひ参照していただきたい。➡明けの明星が輝く空に_特撮ロケ地 (本文中の丸囲み数字は、地図上のものと共通。)
 

それにしても、なぜこの地域にロケ地が多いのか。それは、『仮面ライダー』の撮影が行われた東映生田スタジオ(③)が、やはり読売ランド前駅の近くにあったからだ。場所は、寺尾台から見て西の多摩美という地区で、日本女子大学西生田キャンパスのすぐ脇。前回の記事で触れた第2話「恐怖蝙蝠男」の冒頭の場面(https://www.jvta.net/co/akenomyojo154/)が撮影された道路とマンション(④)は、スタジオから歩いてわずか数分の距離だ。ちなみに、多摩美という地名は「美しい多摩丘陵」が由来で、多摩美術大学とは無関係である。
 

寺尾台の北西に広がる菅馬場(すげばんば)の住宅地(⑤)一帯も、造成地だった当時、『仮面ライダー』のアクションシーンに使用されたようだ。小学生の頃、この造成地周辺の雑木林に、よくカブトムシを採りに行った。たまたま何かの撮影現場に出くわし、追い返されたこともある。一体何の撮影だったか不明だが、一緒にいた父によると、上半身裸の女の人がいたそうだから、少なくとも特撮作品ではないだろう。
 

寺尾台の東にある小田急線の多摩川橋梁(⑥)周辺は、『仮面ライダー』第6話のロケに使われた。また、駅名にその名前を残すのみとなった向ヶ丘遊園(⑦)は、有名だった大階段などが第4話などで確認できるが、ウルトラシリーズでも使われた有名なロケ地だ。(この2カ所は、僕が自分で気づいたロケ地だ。)そこから少し離れた場所に、『ウルトラマン』でバルタン星人が潜んでいた長沢浄水場(⑧)がある。所在地は川崎市なのに、なぜか東京都水道局の施設で、川崎市上下水道局の浄水施設も隣接しており、ややこしい。ともかく、『仮面ライダー』では建物の外観が、本郷猛の所属する「城南大学研究所」として幾度となく登場している。我が田近家のお墓がある霊園からも近いのだが、長沢浄水場を初めて訪れたのはほんの数カ月前だった。お彼岸に珍しく1人で墓参りをしたので、そのついでに足を伸ばしたのだ。
 

長沢浄水場は生田スタジオから見て東南の方角だが、正反対の北西方面には、京王相模原線沿いに稲城市の南山という地区がある。今では住宅地として整備が進んだが、まだ造成地だった当時はここでも撮影が行われたという。山が削られてできた崖は壮観で、電車からもよく見えたことを覚えている。通称「稲城グランドキャニオン」と呼ばれていたそうだ。
 

その南山の一番東のはずれ、京王よみうりランド駅のすぐ近くには、「ありがた山」(⑨)という、まるであの世とこの世の狭間のような場所がある。急な斜面に整然と並んだ古い墓石は、聞くところによると4000体以上。みな無縁仏だ。20年ほど前だったか、僕は近くを散策していて偶然そこに行き着いた。予想もしていなかった異様な光景に驚くと同時に、霧の中のような、非常にうっすらとした記憶が蘇ってきた。確か子どもの頃に来たことがある。誰と、何のためか、全く覚えてはいない。だけど確かに、その光景には見覚えがあったのだ。
 

ありがた山がロケ地になったのは、『仮面ライダーV3』(1973~74年)第33話だ。主人公の風見志郎が、悪の組織の戦闘員たちや怪人とアクションを繰り広げる。4000体もの無縁仏が並ぶ特異な場所だけに、特撮とは関係なく残す価値がありそうだが、ここにも開発の波が押し寄せてきた。土地区画整理事業によって南側の土地が削られ、真新しい道路が開通。現在ループ状になっているその道路の真ん中には、読売巨人軍の施設ができるそうだ。いまのところ、ありがた山は手つかずだが、果たして今のままの形で残されるのか。ありがた山のように異界といった言葉が似合う場所は、東京近辺に多く残されてはいない。再開発が、自然以外にそんなものまで削ってしまうとしたら・・・。造成された景色の中、ポツンと佇むありがた山の眺めに、やるせない気持ちが湧いてきた。
 

追記:今回の記事を書くにあたって、yart先生(https://www.blogger.com/profile/09352180926770118250)のブログ『仮面ライダーロケ地大画報』の情報を大いに活用にさせていただきました。ここにお礼申し上げます。
 

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】「ロマンチスト」と言われたことが何回かある。歴史好きだったり、花や紅葉の写真をよく撮っているので、そう思う人がいるらしい。でも考えてみれば、特撮ファンは誰でもロマンチストだ。虚構を現実のものと想像して楽しんでいるのだから。
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明けの明星が輝く空に 第154回:ハロウィーンには『仮面ライダー』?

今年のハロウィーンは終わったが、来年は『仮面ライダー』(1971年~73年)を観て楽しむなんていうのはどうだろう。“痛快SF怪奇アクションドラマ”と銘打たれたそれには、ハロウィーン気分を高めてくれるクモやコウモリが、悪の組織ショッカーの怪人となって登場するのだから。
 

“怪奇”? 『仮面ライダー』が? 若い世代のファンには意外なことかもしれないが、初期の『仮面ライダー』はとにかく怖さが売りだった。それは各放送回のサブタイトルからも一目瞭然で、第1話が「怪奇蜘蛛男」、第2話が「恐怖蝙蝠男」である。クモとコウモリをあえて漢字で表記しているところにも、強いこだわりが感じられる。
 

一説によると、番組スタート時にクモとコウモリが敵役に選ばれた背景には、アメリカンヒーローへの対抗意識があったためという。そのヒーローとは、もちろんスパイダーマンとバットマン。つまり、両者よりも仮面ライダーの方が強いという隠喩なのである。クモ怪人とコウモリ怪人は、その後の仮面ライダーシリーズにも度々登場し、特に原点回帰を謳った『仮面ライダーアマゾン』(1974~75年)や『仮面ライダーBLACK』(1987~88年)では、やはり初回や2回目の放送で登場している。そして、来年公開予定の映画『シン・仮面ライダー』にも、両者は登場するようだ。
 

それにしても、「怪奇蜘蛛男」も「恐怖蝙蝠男」も怖い。観たあとに1人でトイレに行けなくなったという子も少なくなかっただろう。怪奇性の演出として効果的だったのが照明の使い方で、見せたいものを照らすというより、むしろ影を作るためのライティングのような印象だ。予算の関係上、照明の数を増やせなかったという事情があったそうだが、それを逆手に取った演出とも言える。薄暗い室内、顔に陰影のある人物といった映像は、それだけで不気味さが漂う。特に第2話の冒頭、蝙蝠男が登場する場面は、サスペンスの要素も加わって秀逸だ。簡単に振り返ってみよう。
 

ある晩、自宅のマンションへと向かう1人の女性。その背後で、薄気味悪い笑い声が響く。驚き振り向くが、暗い夜道には誰もいない。歩き出すと、再び聞こえてくる笑い声。その声が告げる。「お前は選ばれたのだ。ショッカーの名誉ある一員に、だ。」たまらず女性は走り出し、マンションへ逃げ込む。部屋にたどり着き薄暗いベッドルームに入ると、閉めたはずの窓のカーテンが揺れていた。窓を閉め振り向くと、不気味な人影が一瞬壁に映る。そして、何かの気配を察したか彼女が視線を上げると、天井から逆さまにぶら下がる蝙蝠男がいた。
 

このあと女性は蝙蝠男に血を吸われ、吸血鬼にされてしまうのだが、彼女が主人公の本郷猛を襲う場面がまた怖い。「ヒヒヒヒヒ・・・」と笑い声を上げながら迫ってくるのだ。どういうわけか、こういった笑い声は女性の方が怖い。第1話の「怪奇蜘蛛男」でもそれが生かされていて、気味の悪さではこちらの方が上だ。髪で顔が隠れた女性戦闘員たちが、同じように笑いながらゆっくり近づいてくるのである。どちらもシチュエーションは昼だったからまだしも、もし夜だったら・・・。子どもたちのトラウマになっていただろう。
 

番組初期の怪人たちは、その最期も気味が悪い。イメージの中の怪人は、ライダーキックを受けて爆死するのが常だ。戦闘シーンの終り方としてメリハリが利いているし、映像的なカタルシスも感じられる。番組が成功した1つの要因でもあるだろう。しかし、最初は違っていた。たとえば蜘蛛男の場合、うめき声とともに絶命したかと思うと、ブクブクと泡になって消えていくのだ!この場面はイメージ映像的な演出とでも言うのだろうか。白昼の屋外だったにもかかわらず、泡のカットだけ薄暗い中で赤紫色の照明が当てられ、しかも何のものだかわからない影がユラユラと揺れている。ライダーとしても、まったく後味の悪い勝利に違いない。
 

こういった怪奇テイストの『仮面ライダー』を観ていると、僕は『キイハンター』(1968年~1973年)を思い出す。千葉真一さんが、アクションスターとしてお茶の間の人気者になったドラマだ。番組のコンセプトは怪奇ものではないが、お盆の時期などの怖い話は、雰囲気が「恐怖蝙蝠男」などに近かった。ともに東映制作のドラマだったので、BGM、効果音、演出などが似通っていたのだろう。ちなみに『キイハンター』の主題歌は、僕が好きな昭和ドラマ音楽の1つで、作曲は『仮面ライダー』の音楽も担当していた菊池俊輔さん。暴れん坊将軍シリーズなどのほか、アニメ作品も数多く手がけている。特に1970年代前半に放映された『新造人間キャシャーン』や『ゲッターロボ』は、主題歌のイントロやアウトロが身震いするほどカッコイイ。
 

今回はもう1つ、個人的な思い入れのあるトリビアネタで終わろう。それは、ライダーが蜘蛛男と戦うのが、多摩川にある二ヶ領上河原堰という馴染みのある場所だということだ。そこは調布市と川崎市の間に掛かる施設で、子どもの頃はその辺りに川遊びに行ったし、サイクリングロードの起点にもなっているので、中学以降はランニングやサイクリングで慣れ親しんだ。半世紀前、運が良ければライダーに会えた可能性もあったと思うと、少し残念なのである。
 

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】窓の外から、季節外れのシジュウカラのさえずりが聞こえてきた。試しにネットで見つけたシジュウカラの音声を流してみたら、すぐ近くまで近寄ってきた。もっと頻繁に来てくれるといいなあ。
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明けの明星が輝く空に 第153回:ウルトラ名作探訪14「バラージの青い石」

『ウルトラマン』第7話「バラージの青い石」で特筆すべきは、なんと言っても“ノアの神”という概念を持ち込んだことだろう。それは、ウルトラマンが5000年前にも地球に来ていたことを意味するものだった。
 

今作の舞台は中近東の砂漠地帯。地図上にはない忘れ去られた町、バラージ近郊に隕石が落下したことから物語は始まる。調査隊が次々に行方不明となり、科学特捜隊のパリ本部から日本支部に出動要請が出された。科特隊専用機、ビートルで現場付近にさしかかると、突如前方に巨大な光の壁が現れ、引き寄せられていく。どうやら磁力光線らしい。なんとか危機を逃れ不時着したものの、今度は怪獣(アントラー)が出現。大きな角の間から虹色の光を発した。先ほどと同じ磁力光線だ。科特隊が携帯していた武器も吸い寄せられ、彼らは退却を余儀なくされる。
 

砂漠をさすらう科特隊。やがて町が見えてきた。バラージだ。そこで、高貴な身なりの女性、チャータムと出会う。彼女によれば、町はノアの神がもたらした青い石の力でアントラーから守られているという。チャータムの招きで神殿らしき建物内に入った科特隊一行は、安置されていたノアの神の石像に衝撃を受ける。その姿は、なんとウルトラマンそっくりだった。チャータムが言う。ノアの神は5000年前にその地に現れ、アントラーから町を守ってくれたのだ、と。
 

この場面を観れば誰でも、「ウルトラマンって宇宙人じゃなくて神なの?」と少なからず困惑するだろう。そんな視聴者の混乱する思考を助けるかのように、科特隊のアラシ隊員が石像を見上げて言う。「5000年の昔、ウルトラマンの先祖は地球に現れ、その時もやはり人類の平和のために戦っていたのか。」この台詞から読み取れるのは、ウルトラマン=神ではない、ということだ。昔の人々が異能の力を持つ銀色の巨人を神格化したもので、言ってみれば、東照宮に祀られる徳川家康や乃木神社に祀られる乃木希典と、大きな差はない。
 

少し本題を外れるが、このシーンでの主人公ハヤタ(ウルトラマン)の表情が印象的だ。尺にしてわずか2秒ほどのカットだが、普段ウルトラマンであることをほとんど感じさせない彼が、このときは様子が違っていた。他の隊員たちが5000年前にウルトラマンが地球に来ていたことを知って驚く中、ひとり緊張感のある真剣な眼差しで石像を注視している。他の隊員たちとのリアクションの違いは、ノアの神に対する受け止め方の違いを示唆している。それは、彼の表情だけ別のカットで見せていることからも明らかだ。そしてなぜ違うのかと言えば、それは彼がウルトラマンだから、と考えるのが自然だろう。
 

問題はその心情がどんなものかということだが、読み取るのは難しい。もしハヤタに、同族の地球来訪に関する予備知識があれば、「ああ、あの話か」といった余裕が態度に現れてもおかしくない。またこのとき、アラシの言葉を聞きながら軽くうなずくが、それなら石像から視線を外しアラシの方を見てうなずくのではないだろうか。しかし、ハヤタはふいに見せられた同族の石像に魅入られたかのように、石像を見つめたままだった。あるいは、事態を飲み込もうと努めていたのか。どちらにしても、彼はノアの神として祀られた同族の存在を、この時初めて知ったのではないだろうか。そんな印象を受ける表情だった。
 

本題に戻ろう。“ノアの神”は、南川竜(龍)名義で本作品の脚本を書いた野長瀬三摩地監督のアイデアだったそうだ。これに対し、『ウルトラマン』のメインライターを務め、「バラージの青い石」の共同執筆者として名を連ねる金城哲夫氏は、ウルトラマンを神様と見立てる案に難色を示したという。とすれば、上記のアラシ隊員の台詞は、金城氏の意向が反映されたものと考えられるだろう。それはともかくとして、“5000年前に異国の地に現れたノアの神”を軸にしたことで、『ウルトラマン』という作品に時間的な広がりと神話のロマンが加わった。そういった点において、野長瀬監督のアイデアは秀逸だったように思う。
 

また、『「ウルトラマン」の飛翔』(双葉社)など、ウルトラシリーズの研究書を数多く執筆している白石雅彦氏は、“ノアの神”により漠然としていたヒーローの設定に一本の筋が通り、『ウルトラマン』の世界観が著しい進化を遂げたと評している。つまり、ウルトラマンが「宇宙の平和を守る組織の一員」であると考えれば、なぜ地球に来て人間を助けてくれるのか、という問いに対する答が見えてくるというのだ。
 

しかし残念なことに、ウルトラマンの仲間が以前から地球にやって来ていた(らしい)という設定は、ほかの作品に生かされることはなかった。当然ながら、ノアの神も登場しない。まるで“なかったこと”のようになってしまっているのだ。チャータムはバラージについて、旅人が通りかかっても蜃気楼だと思うだろうと語っていたが、ノアの神というアイデア自体が、『ウルトラマン』という作品における蜃気楼だったという言い方もできそうだ。
 

「バラージの青い石」(『ウルトラマン』第7話)
監督:野長瀬三摩地、脚本:南川竜(龍)、金城哲夫、特殊技術:高野宏一
 

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JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】燃える闘魂と謳われたアントニオ猪木さんが亡くなった。ボクサーや空手家と戦った異種格闘技戦の盛り上がりは凄かった。引退試合後の、去り際の笑顔も忘れられない。ご冥福をお祈りします。
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明けの明星が輝く空に 第152回 シン・ウルトラマン③:“神”から“友”へ

『シン・ウルトラマン』の「シン」とは何か?この問いに対して、制作者からの公式な回答はない。2016年に公開された『シン・ゴジラ』の場合、一説には、庵野秀明総監督が「神」、「真」、「新」という意味を込めたとされている。『シン・ウルトラマン』においては、「神」と「新」の2つは確実だろう。なにしろ、主人公の名前が「神永新二」なのだから。
 

今作のウルトラマンは、地球の監視者であり裁定者という設定で、あたかも人間の上位概念として存在している。それがある日忽然と姿を現し、人智を超えた能力をもって禍威獣(怪獣)や外星人の脅威を取り除く。劇中の台詞を借りれば、「もっとも神様に近い存在」だと言えるだろう。
 

ウルトラマンの神性については、すでにオリジナルのテレビ版『ウルトラマン』(1966年)でも指摘されていた。メインライターの金城哲夫氏が沖縄出身だったため、ウルトラマンというキャラクターの造形には、豊穣をもたらす神がやって来るニライカナイ信仰の影響があると言われる。また、金城氏による脚本ではないが、第7話『バラージの青い石』では、砂漠の町バラージの神殿に、ウルトラマンによく似た石像が安置されている。町の人の話では、かつて人々を怪獣から救ってくれた「ノアの神」だという。(劇中、ノアの神=ウルトラマンの先祖だと示唆する台詞があるが、本当のところは明らかにされていない。)
 

いつもどこからか現れ、人々を救ってくれるウルトラマン。実にありがたい存在だが、裏を返せば、ウルトラマンが助けてくれるのだから人間は何も努力する必要はない、という他力本願な姿勢をもたらす危険性がある。これに関連して、ひとつ興味深い話があるので紹介しよう。ある日、金城氏が怪獣ごっこをする子どもたち見ていると、逃げもせず怪獣に捕まってしまう子がいた。そんなことではダメだと諭したところ、その子からは、ウルトラマンが助けてくれるからいいんだという答えが返ってきたそうだ。これではいけないと思った金城氏が書いたのが、第37話『小さな英雄』だ。科学特捜隊のメンバー、イデ隊員は、どうせいつもウルトラマンが助けてくれるのだからと、目の前にいる怪獣と戦う意欲を失う。その傍らで、人間に友好的な小さな怪獣ピグモンが勇敢に立ち向かい、あえなく殺されてしまった。そのとき、イデは主人公ハヤタに強く叱責され、ようやく自分の過ちに気づき、気持ちを奮い立たせる。
 

『シン・ウルトラマン』には「困ったときの神頼み」という台詞が登場するが、これは物語終盤に人類滅亡の危機が高まる中、ウルトラマンに期待が寄せられる状況を半ば揶揄してのものだ。これなど完全な他力本願で、努力を放棄していることと同義だ。その後、頼みの綱であるウルトラマンが敗れ去ったと知った政府は、なんと、滅亡を運命として受け入れ、無抵抗のままその時を待つことを閣議決定する。神永が所属する禍威獣特設対策室(禍特対)も為す術がなく、メンバーの滝明久も絶望感に打ちのめされ、無気力に陥ってしまった。
 

それとは対照的に、神に頼ることなく自ら行動を起こしたのが、『シン・ウルトラマン』同様、庵野秀明氏が手がけた『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(2021年)の登場人物たちだ。「知恵と意思を持つ人類」が「神の手助けなしに、ここまで来てる」という台詞に象徴されるように、彼らは自ら考え、動き、運命を切り開いた。
 

もちろん、『シン・ウルトラマン』もそのまま人類滅亡という結末には向かわない。状況の打開に大きな貢献をしたのが、無気力に陥っていた滝だ。科学者でもある彼は、神永から人類の運命を託される。ウルトラマンへの変身を可能にする「ベーターシステム」の基本原理を提供され、それを世界の科学者と共有。人類の叡智を結集して答えを導き出す。そして、それを伝えられた神永がウルトラマンに変身し、最後の勝負に打って出た。
 

結局ウルトラマンの力は必要だったのだが、ウルトラマンも人類の助けなしには何もできなかった。そこには、神とそれに助けられる人類という構図はない。両者は、互いに助け合う対等な関係だ。しかしこれ以前に、今作でのウルトラマンは、すでに神というイメージを脱ぎ捨てていた。物語中盤、神永の正体がウルトラマンであるということが発覚する。それ以降、神永はウルトラマンとして、禍特対メンバーと行動をともにするのだが、決して自分は“人類の上位概念”であるといった態度はとらない。対する禍特対メンバーも、目の前にいるのがウルトラマンだとわかっても、それが神永という人間の姿だからか、特に畏怖するようなところはなかった。そうして、両者は対等な立場で協力し、仲間、さらには友とも言うべき関係を築いていく。実は、神永はまだ正体が明らかになる前の物語序盤で、禍特対の一人と「バディ」を組んで仕事をすることになるのだが、それがやがて築かれるウルトラマンと人類との関係の伏線になっていたわけだ。
 

1960年代に登場したオリジナルのウルトラマンは、正体を隠したまま地球人の姿で人々と行動をともにした。当然、人々はウルトラマンの人間体を、自分たちと同じ地球人だと信じて接し、そのようにして語りかけた。だから、彼らにとってのウルトラマンとは、神のごとく仰ぎ見る銀色の巨人、それ以外の何物でもなかったのだ。そういった意味で、『シン・ウルトラマン』におけるウルトラマン像は、新しい。結果的に「神」の要素が消え去り、単なる「新」作という意味を超えた「新」が提示されたのである。
 

※参照:『シン・ウルトラマン』の予告映像

 

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【最近の私】おそろしいことに(?)最近読んだ本に感化され、マルクスの『資本論』でも読んでみようかという気持ちになり、とりあえず『100分de名著』のテキストでお茶を濁すことに。引用されている訳本の文章を読む限り、ハードルはかなり高そうだ・・・。
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明けの明星が輝く空に 第151回:シン・ウルトラマン②:融合する現実と虚構  

最初に断っておくと、ここで言う「現実と虚構」とは、例えば『マトリックス』(1999年)など、多くの映画がモチーフとした現実世界と仮想現実空間のことではない。物語の舞台である現代の日本と、そこに現れた怪獣(劇中での表記は「禍威獣」)やウルトラマン、そしてそれらが登場する場面のことである。
 

『シン・ウルトラマン』では、ウルトラマンが自分のせいで命を落とした人間、神永新二と融合する。それ以降登場する神永は、ウルトラマンとして考え行動するので、姿は人間でも中身はウルトラマンだ。虚構が現実を取り込んだとも言える。
 

その神永が所属する「禍威獣対策特別対策室(禍特対)専従班」は架空の組織ではあるが、近未来的な武器を携帯した特殊部隊ではない。メンバーは普通のスーツ姿で、禍威獣の分析、被害の予測、対策の立案といった現実的な活動に従事。十分リアリティを感じさせる設定だ。だが、そのうちの一人が外星人の企みによって、禍威獣のように巨大化してしまう。この瞬間、現実と虚構の境界はあいまいになる。
 

正直に言えば、『シン・ウルトラマン』のCG映像の多くは、“いかにもCG”という印象が拭えない。禍威獣の表皮の質感、宇宙での戦闘シーンなど、僕には気になる点がいくつもあったが、それも製作費を考えれば仕方ないだろう。『ゴジラvs.コング』(2021年)と比べると、『シン・ウルトラマン』は20分の1以下なのだ。
 

ただ個人的には、本作で企画・脚本・総監修を務めた庵野秀明氏は、それらが虚構であると明示する意図があったのではないか、という気もしている。というのも、庵野氏は特撮の魅力について、現実と空想の融合した世界を描けるところだと公言しているからだ。2016年の『シン・ゴジラ』は、ゴジラ出現の事態に対し、日本政府や官僚らが対処する様を軸に物語が展開する。その構図は、『シン・ウルトラマン』も同じだ。
 

同じく庵野作品である『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997年)はアニメ作品にもかかわらず、物語とは関係のない実写映像(街の風景や映画館内の様子)が物語終盤に挿入される。それは、救いのないラストの台詞とあいまって、夢という虚構に浸っていた観客を突き放す効果があった。その瞬間、虚構は否定されたのだ。
 

ところが『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(2021年)の場合、印象はずいぶんと異なる。実写の街の中にアニメのキャラクターたちが飛び出していくラストシーンは、物語がハッピーエンドを迎えたこともあり、虚構を否定する意味合いは見受けられない。むしろ、現実に溶け込んでいく虚構を祝福しているかのようだった。
 

『シン・ウルトラマン』の場合、“虚構の祝祭”とでも言ったらいいのだろうか。大サービスとばかりに、全編に渡ってCGによるアクションシーンが映し出される。それは現実感には乏しいが、だからこそ僕には、半ば夢の世界で起きている出来事のようにも感じられた。
 

もちろん、映画に没入できなければ、夢見心地などということにはならない。その点、『シン・ウルトラマン』は巧みだった。映画冒頭、タイトルバックの直後、物語の前日譚として禍威獣たちがダイジェスト形式で登場。その存在を既成事実として示すことで、観客を早々と、そして無理なく、虚構に満ちた異世界に引き込んでしまう。
 

そういった観点からすると、このオープニングで使用されるBGMは示唆的だ。ウルトラシリーズの開祖、『ウルトラQ』(1966年)のテーマ曲が使用されているのだが、この選曲は単なるオマージュ以上の意味を持つと見ていいだろう。なぜなら、その曲に乗って流れる『ウルトラQ』冒頭のナレーションが、「これから30分、あなたの目はあなたの体を離れ、この不思議な時間の中に入っていくのです」というものだったからだ。
 

また、禍威獣という存在自体、現実と虚構の境界をあいまいにする力を持つ。今年放送されたNHKのドキュメンタリードラマ『ふたりのウルトラマン』に、「怪獣は山でも海でも宇宙でも、登場した瞬間、怪獣世界に変えてしまう。フィクションを不自然に感じさせない不思議な魔法の力がある」という台詞があった。僕などはこの言葉に思わず膝を打ったのだが、『シン・ウルトラマン』のオープニングはその意味で実に象徴的だ。
 

本作は、タイトルロゴで、「空想特撮映画」を謳っている。上記の庵野氏の言葉もそうだが、「空想」とは「虚構」をロマンチックに言い換えた言葉だ。それは、現実と組み合わさったとき、最もスリリングに感じられる。その典型が、特撮映画や特撮テレビ番組だろう。『シン・ウルトラマン』は、そんなことに改めて気づかせてくれる作品だった。
 

※参照:『シン・ウルトラマン』の予告映像

 

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