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明けの明星が輝く空に 第171回:特撮俳優列伝29 志穂美悦子

髪の長い女性が、大空をバックに見事な跳び蹴りを決めている1枚の写真がある。まっすぐ伸びた右足の美しさはもちろん、折りたたんだ左足、こぶしを前に突き出した右腕、わきを閉め、肘を曲げた左腕。そのすべてが一つになって、完璧な“造形美”を生み出している。その女性とは、1970年代の空手映画ブームの中でスクリーンデビューした志穂美悦子。特撮テレビ番組『キカイダー01』にも出演し、「悦ちゃん」と親しみを持って呼ばれた人気者だった。

志穂美さんは、デビュー前からJAC(ジャパンアクションクラブ)でトレーニングを積んだ、生粋の“アクション女優”だった。(JACとは、世界に通用するアクションスターの育成を目標に掲げ、千葉真一氏によって設立された組織で、真田広之さんも輩出している。)1974年公開の『女必殺拳』では映画初主演を務めたが、それに先だって重要な役を得たのが、1973年に始まった『キカイダー01』だった。まだ高校生だった彼女がキャスティングされた役は、先月の記事(https://www.jvta.net/co/akenomyojo170/)で紹介した、マリという名の女性型ロボットである。

マリは普段、人間とは見分けのつかない姿をしている。戦闘時には特殊能力を発揮できる姿に変身するのだが、人間の姿のままで闘う場面も少なくなかった。つまり、志穂美さん自身が空手技を披露する場面が、ふんだんにあったのだ。こういうとき、アクションの素養がない役者が立ち回りを演じると、共演者たちがうまいこと倒れたり投げ飛ばされたりするのが見えてしまって興ざめだが、志穂美さんの場合そんなことは全くなく、マリのアクションは実にサマになっていた。「女が男を倒す際に、もっとも華麗で、しかも納得いくのが空手技」とは、師匠である千葉さんの考えだ。マリ=志穂美さんはその言葉を証明するかのように、美しく敵をなぎ倒していった。

志穂美さんが俳優を目指すきっかけとなったのは、バレーボールを題材にしたドラマ、『サインはV』(1969年~70年)を観たことだったそうだ。そして、千葉真一さん出演のアクションドラマ、『キイハンター』(1968年~1973年)で、演技者への思いは決定的になったという。もともと陸上部で活躍するなど運動神経が良く、体を使って何かを表現したいと考えていた彼女は、女がアクションをしたらさぞカッコイイだろう思い、日本で女性初のアクション俳優になろうと決意を固めたのだ。ただし、やりたかったのは、ロープウェーからぶら下がったり、爆発の合間を走り抜けたりといったような、まさに『キイハンター』的なアクションだったのだが、世の中はブルース・リーの影響で空手ブーム。必然的に、そんな格闘アクションが求められた時代だった。

ところで、ブルース・リーと言えば、技を繰り出す際の怪鳥のような声とともに、敵を倒した後の悲しげな表情も印象的だった。志穂美さんも、「女が闘わなくてはいけないのは悲しいことだ」という思いから、そういった表情を常に意識するようにしていたという。そもそも、マリというキャラクターが哀しみを抱えたヒロインであったから、そういった意味でもアクションシーンは演じやすかったのではないだろか。キリッとした眉や切れ長な目をした志穂美さんは、悲しげな表情がよく似合った。アクションがうまいだけでなく、思い悩み苦しむ心の内も表現できていたからこそ、マリを軸としたドラマ性豊かなエピソードの数々も可能になったに違いない。

そう考えると、『キカイダー01』の放映終了後、今で言うスピンオフのような形で、マリを主人公に据えた新番組―もちろん、志穂美さんの続投は絶対条件だ―が作られていても良かったのではないかという気がする。しかし、残念ながら、そうはならなかった。実現していれば、女性主人公が圧倒的に少ない特撮映像作品の世界が、今とは違ったものになっていたかもしれない。志穂美さん自身はその後、『女必殺拳』シリーズのほか、『若い貴族たち 13階段のマキ』(1975年)など、多くの作品で空手アクションを披露。『柳生一族の陰謀』(映画版は1978年公開、テレビ版は1978年~79年放映)などの時代劇では、刀を使った殺陣も披露している。

映画評論家の山田宏一氏や山根貞男氏によると、それまで女性が主役の剣劇には“エログロ”の要素があり、「邪険」や「妖婦」といったイメージがつきまとっていたが、志穂美さんは全く異なっていたそうだ。いわく、「女の情念とは無関係な存在感」があり、「お嬢さん的魅力」のある「青春スター」で、それでいて「活劇」をやるところが新しかったと評している。(もちろん俳優である限りは、どんなイメージの役でもこなせるのが理想だろう。それでも、演技者の肉体からにじみ出てくるものはそれぞれ違っており、それが個性=魅力になるのだろう。)現代の感覚からすると、いかにも“昭和の男性目線”的な評論と言えなくもないが、それはさておき、志穂美さんが当時、女性としてはいかに新しいタイプの演技者だったか、ということが伝わってくる。

アクションもの以外でも、『熱中時代』(1978年~79年)といった学園ドラマなどに活躍の場を広げていった志穂美さんは、1986年に結婚したのを機に俳優業から引退。最近では、フラワーアーティストと活動している。それでも体を動かすのが好きなところは変わっていないようで、昨年出演したイベントで、足が頭の上にまで上がるような見事なハイキックを披露している。もう引退して40年近くにもなるというのに。悦ちゃん、おそるべし!

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】アニメの絵コンテ講座の続報です。課題の講評をいただきまして、自信を持って盛り込んだアイデアにダメ出しをもらいました(トホホ)。それがない方が、スッキリしてわかりやすいと。変に凝ったことをやろうとし過ぎたようです。

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明けの明星が輝く空に 第170回:夢幻のヒロインたち3:マリ(ビジンダー)

登場作品:特撮TV番組『キカイダー01』(1973年~74年)
キャラクター設定:悪の組織を裏切り、主人公と共闘する女性型ロボット

スーパー戦隊シリーズを中心に、戦う特撮ヒロインは数多くいるが、『キカイダー01』のマリほど、動きにキレのあるヒロインはいないだろう。それも当然と言えば当然のことで、演じたのは、本格アクション女優の草分け的存在、志穂美悦子さんだった。昭和のアクションスター、千葉真一氏が立ち上げたジャパンアクションクラブ(JAC)でスタントを学んだ志穂美さんだけに、空手技を駆使した戦いぶりは実に見事。マリの強さにも説得力が出た。

マリについて特筆すべきは、アクションだけではない。彼女は、物語の中で独自の立ち位置を占めており、個としてのキャラクターを確立していた。ありていに言ってしまえば、男性キャラの“添え物”ではないのだ。その意味で、特撮作品における希有なヒロインだった。

彼女は当初、イチロー(キカイダー01)の敵として登場する。悪の組織、シャドウの作ったロボット(ビジンダー)だったのだ。イチローは、女性や子どもに対して警戒心が下がる。そこに目をつけたシャドウによって、普段は若い女性の姿をしたロボットとして送り込まれた。しかし、イチローにはビジンダーであることを見抜かれ、君を助けたいとの申し出を受ける。というのも、マリはイチローを欺くため優しい心をプログラミングされており、ビジンダーへの変身前は、悪事を働くこともなかったからだ。

イチローの言葉に揺れ動くマリだったが、使命を果たそうとビジンダーに変身して戦いを挑む。しかし、キカイダー01に変身したイチローに敗れてしまう。イチローはその後、マリに“良心回路”を取り付けることに成功。それは不完全なものだったが、シャドウからは裏切り者とみなされ、結果としてイチローと力を合わせて戦うことになる。

マリはイチローの味方になったといっても、基本的には別行動をとっていた。また、戦闘能力が高いため、イチローの足手まといになったり、救ってもらったりすることもない。そのあたりが、主人公のアシスタント的役割にとどまるヒロインとは、一線を画す。さらに、初登場回である第30話以降は、彼女を中心としたエピソードが多く、作劇上も重要な立ち位置にあった。実際、元東映プロデューサーの吉川進氏は、実質的にビジンダーが主人公だったと証言している。

マリのドラマの根幹にあるのは、自分は完全ではないという思いから来る苦悩だ。シャドウの大幹部に「できそこない」と罵られ、激しく反発することもあった。またある時は、シャドウの指令に抗いきれずにイチローを攻撃してしまい、「やっぱり私は中途半端」だと悩む。そして、いつかイチローのように、強く正しい存在になりたいと願うのだ。

思い悩むマリの姿は、普通の人間と何ひとつ変わらない。観ているうちに、彼女がロボットであることを忘れてしまいそうだ。機械が、あるはずのない感情を示したとき、それはより明確な輪郭をもって立ち現れるように思う。「人間と感情」という組み合わせであれば、それは自然なものだから、僕らは特別な意識を持たずに受け入れるだろう。一方、「機械と感情」という組み合わせは不自然だ。しかし、だからこそ、その心の有り様がより浮かび上がって見えるし、僕らは一層そこに目を凝らそうとするのではないだろうか。少々理屈っぽくなってしまったが、簡潔に言えば、マリがロボットだからこそ感情移入しやすい、ということもあるのではないかと思う。

そして、これは希望的観測であるが、「中途半端な自分」に悩むマリは、番組の作り手たちから子どもたちに向けたエールだったと解釈したい。自分に100%の自信を持てるような子どもは、決して多くないだろう。誰しもコンプレックスや悩みを抱えているものだ。そんな子たちがマリの姿を見て、悩んでいるのは自分ひとりではないと知り、勇気を奮い立たせてもらえれば。そんな思いが制作現場にあったとすれば、ステキなことではないか。

マリには、恋愛エピソードも用意された。ある理由からロボットを憎む英介という青年に、好意を寄せられるのだ。実は彼は、マリがロボットだということは知らなかった。そんな彼にマリは真実を打ち明けられず、いったんは姿を消す。しかし、あきらめきれない英介は、なんとかマリを見つけて、自分の気持ちを告白する。そのとき、マリは「これでも私が好きですか」と言って、英介の目の前でビジンダーに変身する。愕然とする英介に、マリは別れを告げ、去っていった。

このエピソードは、青年のひたむきな愛に振り向くことを許されないのがマリの宿命だ、というナレーションで締めくくられる。なんという哀しい存在なのだろう。思えば、原作者である石ノ森章太郎氏が生んだヒーローたちは、みな哀しみを抱えていた。仮面ライダーしかり、サイボーグ009しかり。『キカイダー01』のイチローの設定は、前作である『人造人間キカイダー』の主人公ジロー(キカイダー)が悩めるロボットだった点が不評だったため、反対方向へ舵が切られていた。そんな中、番組の後半に入ってから登場したマリは、実は石ノ森ワールドの王道的存在だったのである。

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】映像分析の参考にと、アニメの絵コンテ講座(全2回)を受講中です。1回目はワークショップ形式。今、2回目に向け、課題に取り組んでいます。難しいけれど面白い!どんなフィードバックがもらえるか、今から楽しみです。

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明けの明星が輝く空に 第169回:『ゴジラ』×『ゴジラ-1.0』  

アカデミー賞の視覚効果賞にノミネートされた『ゴジラ-1.0』は、ゴジラ以外の怪獣が登場しないという点で、原点に立ち返った形だ。そこで今回は、東宝ゴジラシリーズ第1作の『ゴジラ』と比較し、それぞれの作品の特徴を浮き彫りにしてみたい。

『ゴジラ』は、終戦から10年もたっていない1954年に公開された。それだけに戦禍の影を色濃く残す作品だが、物語は後半、若い男女3人の関係を軸に進む。主人公の尾形秀人とその恋人である山根恵美子、そして、かつて恵美子の婚約者的な立場にあった芹沢博士だ。この、“蛇足”にも見えてしまうメロドラマ的要素は、若手俳優を売り出すためでもあったのだろう。尾形を演じたのは、のちにスターダムに駆け上がった宝田明さんだった。しかしそれと同時に、芹沢博士の人物像を明確にするために必要だったとも考えられる。

尾形は太陽の下が似合う好青年だが、芹沢博士は対照的に陰のある孤独なキャラクターだ。彼の研究室が地下にあるという設定も、その印象を強めるためだろう。そこに恋物語からはじき出された姿が描かれ、さらに孤独な印象が強まる。『ゴジラ』を撮った本多猪四郎監督の作品とは、“はぐれ者”の物語だという指摘があるが、芹沢博士は、まさにその“はぐれ者”である。そして、ゴジラも(文明社会に)居場所はないという意味で、芹沢博士とキャラクター造形が重なる。芹沢博士の悲哀とは、ゴジラの悲哀でもあった。ここに、ゴジラの本質がある。

一方、昨年11月に公開された『ゴジラ-1.0』(以下、『-1.0』)は、『ゴジラ』以上に人間ドラマが濃密だ。主人公は元特攻隊員の敷島浩一。彼は、“はぐれ者”というわけではないが、強い自責の念を抱えて生きている。実は戦時中、搭乗機の故障を装い、特攻から逃げてしまった。さらに、逃げた先の守備隊基地で、仲間を見殺しにもしている。というのも、ゴジラの襲撃を受けた際、駐機中の戦闘機から機銃掃射をするチャンスがありながら、恐怖で何もできなかったのだ。終戦後は東京で平和に暮らしていたが、特攻とゴジラから逃げたという思いが拭えない。連日、ゴジラ襲撃の記憶が悪夢となって蘇り、自分が生きていることすら信じられなくなる。それでも、一緒に暮らす典子の支えもあり、生きていくことに希望を見出す。

『-1.0』のキャッチコピーは、「生きて、抗え」である。この映画は、たとえどんなに辛くても生きろ、と訴えている。だから、ゴジラの東京襲撃で典子を失ったと思い込んだ敷島が、“死ぬこと=特攻”を決意して戦闘機に乗り込んだ物語終盤、実は脱出して無事だったという、ご都合主義的に見えてしまう展開になるのも当然のことだった。出撃直前、自分の手の震えに気づき、隣にいた男に向かい、「笑えますよね」と恥じたように言う場面があるが、たとえ格好悪かったとしても、生きたいと願う人間の思いを、山崎貴監督は尊重しているのだ。

敷島が脱出した戦闘機はゴジラの口に突っ込み、爆発で頭部を吹き飛ばされたゴジラは死んだ。しかし、敷島が典子と再会を果たした次のカットで、ゴジラの肉体が再生を始めていることが示される。それが暗示するのは、ゴジラの復活であって、新たなゴジラの誕生ではない。前者はゴジラの脅威が増幅するだけだが、後者は人間の愚行(核実験)が繰り返されることを意味している。そして、1954年の『ゴジラ』で示された懸念が、まさに後者だった。ゴジラが沈んだ海を見ながら、山根博士(恵美子の父)は、「あれが、最後の1匹だとは思えない」とつぶやく。彼が恐れるのは、再び水爆実験が行われ、次のゴジラが出現することだ。(ゴジラは、水爆実験によって凶暴化した古生物だった。)博士の言葉は、人間が愚行を繰り返すことに対する警鐘だ。約70年前の映画が、今も輝き続けている理由が、ここにある。

水爆実験で被爆し、口から放射能を帯びた熱線を吐くゴジラは、核兵器のメタファーだと言われる。しかし、長いシリーズの中で、これまで一度も、ゴジラ自身が核兵器並みの破壊力を持つ姿は描かれなかった。『ゴジラ』で東京は火の海になったが、その光景が想起させるのは東京大空襲だ。ヒロシマやナガサキではない。しかし、『-1.0』でゴジラが吐いた熱線は(明確な形のキノコ雲こそ描かれなかったが)、原爆級の大爆発を引き起こし、銀座を含む広範囲を廃墟に変えた。とうとうゴジラは、核兵器そのものになってしまったのだ。

ゴジラの恐ろしさを再定義した演出とも言えるのだが、個人的には釈然としない。水爆実験で怪物化したゴジラは、本来は犠牲者。ゴジラの着ぐるみの皮膚が、ひび割れたように荒れた造形なのは、焼けただれたイメージをまとわせるためのものだ。そのゴジラ自身が、己を傷つけた忌むべき核兵器そのものになる・・・。あまりにも残酷な話だ。もしそうするのなら、その呪われた悲劇性を映画の中心に据え、ゴジラの死には“鎮魂”の意味を込めるべきではないだろうか。

鎮魂。それはまさに、『ゴジラ』の主題のひとつでもあった。ゴジラが倒された場面では、レクイエムとしか言いようのない、美しく悲しげな曲が流れる。芹沢博士もゴジラと“心中”する形で命を落とすため、彼の死を悼む意味合いは当然あるだろう。しかし、前述の通り、両者は“はぐれ者”というキーワードでつながっている。哀悼は、ゴジラにも捧げられたと見るべきだ。ゴジラ映画が話題になっている今だからこそ、そんなことも多くの人に知っておいてほしいと願う。

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
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明けの明星が輝く空に 第168回:干支と特撮:タツ

『ヨハネの黙示録』には、7本の頭を持つ赤いドラゴンが登場する。たとえば、14世紀にフランスで制作されたタペストリー(アンジェ城所蔵「黙示録のタピスリー」)にその姿が描かれているが、頭の数を除けば、「キングギドラ」そのものと言っていいほど、両者は似ている。

キングギドラとは、東宝特撮映画に登場する宇宙怪獣だ。『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)以降、数作品に渡ってゴジラと死闘を繰り広げた好敵手で、特撮ファンの間で人気も高い。2019年公開の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(以下、『KOM』)にも、「ギドラ」という名で登場しているので、3本の首を持ち、全身金色という姿を目にした方も少なくないだろう。

ハリウッド映画の『KOM』では、黙示録的な世界観を印象づけるためか、ギドラと十字架が同時に映し出されるカットがある。画面手前に、シルエットで浮かぶ十字架。その奥、画面中央に映し出された火山の頂上で、力を誇示するかのように翼を広げるギドラ。火山からは溶岩が流れ出し、黒雲に覆われた空には稲妻が走る。いかにも世界の終末を感じさせる画作りだ。

黙示録のドラゴンは堕天使サタンの化身だというが、ギドラは登場のし方からして、それを想起させる。封印されていた底なしの深淵から復活するサタンのように、ギドラは南極の氷の下に眠っていた(封印されていた?)ところ、人間の手によって復活させられるのだ。(黙示録のドラゴンは、大天使ミカエルに退治された。ということは、『KOM』でギドラを倒したゴジラは、ミカエル=守護聖人という図式になる。ただし、ゴジラが守る対象は人類ではなく、自然環境だ。)

一方、東宝のキングギドラには、聖書との関連性は見られない。黙示録のドラゴンに姿が似ているのは単なる偶然だろう。というのも、元ネタの有力候補が、1959年日本公開のロシア映画、『豪勇イリヤ 巨竜と魔王征服』に登場するからだ。それは、ロシアや東欧に伝承される「ズメイ」というドラゴンで、キングギドラ同様3つの首を持っている。異なるのは、キングギドラは全身金色であることのほか、頭部に日本の龍の特徴が多く見られることだ。宇宙から飛来するという設定には、天翔る龍とイメージを重ね合わせる意図があったのかもしれない。

聖書の世界とは無縁な東宝版キングギドラだが、ある宗教的シンボルと絡む場面がある。それは、神社の鳥居を破壊するシーンだ。この鳥居はスタジオに作られたミニチュアなのだが、キングギドラはその間から見えている。つまり、鳥居の方が画面上は大きく映っている。そのためにはキングギドラの位置を、カメラ、そして鳥居からかなり離す必要があるが、そうすることで映像に奥行きが生まれ、空間的広がりを感じさせることに成功している。背景には雄大な富士山の裾野も広がり、観る者にスペクタクルを感じさせる名場面である。

ところで、キングギドラはなぜ、鳥居を破壊したのだろうか。破壊のカタルシスを感じさせるなら、もっとボリュームのある建造物の方がふさわしい。そういった観点からすると、鳥居は“貧相”だ。ただし、それは単なる門ではない。神域への入り口であり、外界との境界になっている。「神域=地球」、「鳥居の外=宇宙」と読み替えてみると、どうだろう?地球の外から来た脅威を表現する、象徴的な場面になっている、と言えるのではないだろうか。

ところで、宇宙怪獣であれば、地球在来の怪獣たちとの差別化が必要になるだろう。それを端的に表しているのが、鳴き声だ。わかりやすく言えば、「ガオォォー!」ではなく「カララララ」。例えるなら、電子音で再現されたカナリアのさえずり。清澄な高音を軽やかに響かせる。少しエコーがかかっていることもあり、あたかも天から降ってくるかのようだ。飛翔する龍のイメージと相まって、少々言い過かもしれないが、キングギドラが天空の神獣のように思えてくる。

そんなキングギドラであるが、『KOM』の後輩はゴジラに完敗。“やられ役”、“引き立て役”に終わった。この扱いには大いに不満が残る。そもそも、鳴き声が良くない。それはまるで、さびた鉄の門扉、わざと不快な音を出すバイオリン、目の前を通過するF1マシンのヒステリックなエンジン音。いずれにせよ、ストレスを感じさせるものだったのだ。キングギドラは絶対、澄んだ声で「カララララ」と鳴かなくては!「カララララ」と!

ただし、尺にしてほんの数秒だが、「おお!」と唸らされたカットが、『KOM』にはあった。ギドラが空に向かい放電する場面だ。暗雲に覆われた市街地で、広げた翼の数カ所から発せられる幾筋もの稲光。辺りは金色の光に包まれる。その姿はあたかもサンダーストームの化身、もしくは雷神。サタンのメタファーでありながら、ある種の神々しさすら感じてしまう映像だった。

最後にひとつ、私事を。何を隠そう、僕は辰年生まれである。(何回目の年男か、ご想像にお任せしよう!)干支とは関係なく、もともとキングギドラには特別な思い入れがあったが、改めて考えてみると、何か特別な繋がりがあるような気がしてくる。この際だ。僕の守護聖人ならぬ、守護聖獣、ということにしてしまおう。調べてみると、鳴き声の着メロがある。それも「カラララ」だ!かくして、僕のスマホの着信音は、キングギドラになったのである。

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【最近の私】ものすごく久しぶりに、銭湯に行きました。電気風呂は相変わらず痛いなあ、水風呂は心臓に悪いんじゃ?、などと考えながら、たっぷり長風呂。そして上がった後は、もちろんコーヒー牛乳!

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明けの明星が輝く空に 第167回:『ゴジラ-1.0』

※今回の記事は、映画の設定に関するネタバレを含みます。ストーリーについては最小限に抑えてありますが、映画鑑賞を検討中の方はご注意ください。

ゴジラシリーズの最新作『ゴジラ-1.0』は、多くの人々の心を捉えたようだ。12月3日までの31日間で、興業収入は38億円を突破した。ちなみに1日には北米でも公開され、出足は好調のようだ。

興行成績が好調なのは、ゴジラ映画が受け入れられる確かな下地が出来上がっていたからだろう。12年ぶりの新作となった『シン・ゴジラ』(2016年)に加え、“ハリウッド版ゴジラシリーズ”である『GODZILLA ゴジラ』(2014年)、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019年)、『ゴジラvsコング』(2021年)の3作が、結果的に“露払い”のような役目を果たしたと考えられる。

もちろん、作品自体の魅力も無視できない。まず挙げたいのが、主演俳優の存在感だ。主人公の敷島浩一を演じたのは神木隆之介くん(僕はなぜか彼を“くん”付けで呼びたくなる)だ。テレビCMでのコミカルな印象が強いが、映画の中の彼は凜々しかった。シリアスな演技も自然で、物語を牽引する力強さもあった。また演技力以前に、お客さんを呼ぶ上で彼の好青年としてのイメージも大きい。彼が演じるのだから嫌な人間ではないだろう、という安心感がある。

実を言えば、主人公の敷島は精神が鬱屈していてもおかしくないような経験をした男だった。特攻隊員として戦闘機で飛び立ったものの、命惜しさに機体の故障を装い、ある孤島の守備隊基地に逃げ込む。さらに、その島がゴジラに襲われた際には、恐怖のあまり機銃を撃てず整備兵たちを死なせてしまい、その経験がトラウマとなった。実際、ヒロインである大石典子の目の前で、錯乱状態になって取り乱す場面もある。それでも神木くんが演じる敷島に、観ていて気が滅入ってしまうような暗さはない。その点、苦悩の描き方が浅くドラマとしての強度に欠けるという言い方もできるが、おそらく山崎貴監督はあえてそういった演出を避けたのだ。ストレス無く気軽に楽しめる、エンターテインメント性の高い作品にするためだろう。

典子を演じた浜辺美波さんは、春に公開された『シン・仮面ライダー』にもヒロイン役で出演。2大特撮映画に出演という“偉業”を成し遂げたわけだが、それはさておき、偶然にも今年度上半期放送の朝ドラ『らんまん』では、神木くんと夫婦役で出演していた。このことも、従来観る人間を選んできた“怪獣映画”のハードルを下げることに貢献したと言って、まず間違いない。

この朝ドラコンビは、終戦直後の薄汚れた身なりでも泥臭さとは無縁で、清涼感を失わない。アニメのキャラクターのように透明感があり、『未来のミライ』や『竜とそばかすの姫』といった細田守作品の絵柄によくマッチしそうだ。そして、彼ら以外にも、『ゴジラ-1.0』にはアニメが似合いそうな登場人物がいる。機雷掃海艇「新生丸」の艇長、秋津淸治と、元技術士官で「学者」というあだ名の野田健治だ。秋津の大仰で類型的な台詞回しと、野田のボサボサな頭髪に丸眼鏡という外見。どちらもキャラが立っていてわかりやすい。好みによって評価は分かれると思うが、こういった意図的に戯画化された人物造形も、映画を観やすいものにしていると言えるだろう。

もちろん、怪獣映画として肝心なゴジラの魅力も、人気を後押しているに違いない。山崎監督はゴジラの“怖さ”をポイントに挙げていたが、ネット上でも怖かったという感想が多い。たとえば、新生丸がゴジラに追いかけられる場面。背びれと顔を海上に出して泳ぐゴジラが、すぐ後ろまで迫ってくる。秋津と敷島たちは回収した機雷を使って逃げ切ろうとするが、うまく起爆させられない。まさに絶体絶命のピンチだ。こういった映像表現は、山崎監督が得意とするところだろう。というのも、監督は西武園ゆうえんちのアトラクション、「ゴジラ・ザ・ライド」の映像も手掛けているからだ。

ただ、そのせいかどうかは別として、僕には新生丸を追うゴジラが、“テーマパークの池から顔を出すワニ”のように見えてしまった。口が開きっぱなしだからか、目がどこを見ているかわかりにくいからか、とにかく顔に生気が感じられないのだ。また、その泳ぐスピードも、襲うにしては遅いと感じられた。実際、新生丸の窮地を救った巡洋艦を襲う際にはもっと速かった(ように見えた)から、まだ本気で怒っていなかったと解釈すればいいのかもしれない。しかし、いずれにせよ劇場での鑑賞中、僕はそんなことが気になり、怖さを感じることができなかった。せめて徐々に距離が縮まるような演出があればなあ、というのが個人的な感想だ。

逆に拍手を送りたいと思った点を、最後に挙げておこう。それは、ゴジラと敷島のドラマがうまく絡み合っていたことだ。よくありがちな、事件とは無関係な人間ドラマ(夫婦間の問題とか、親子の不和など)は描かれない。物語冒頭でゴジラに襲われた敷島は、復員後、支払いの良い仕事=機雷掃海のため乗り込んだ新生丸でゴジラと再び遭遇。その時は難を逃れたが、翌日、ゴジラの東京襲撃によって典子を失ってしまう。戦時中の自身の行いに負い目を感じ、自分の戦争は終わっていないと感じていた彼にとって、ゴジラは“戦争の亡霊”のようなものだ。すべてを清算するためゴジラに立ち向かったのは、いたって自然な流れだったのである。

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明けの明星が輝く空に 第166回:ウルトラ名作探訪17 「無限へのパスポート」

遊び心に満ちた『ウルトラマン』の第17話「無限へのパスポート」。この作品に登場する四次元怪獣ブルトンは、シュルレアリスムの詩人、アンドレ・ブルトンにちなんで命名されたとされる。日本語の「シュール」は、本来シュルレアリスムが目指していたものとは別個の概念というが、それはともかくとして、この怪獣は名前の由来を裏付けるかのようにシュールだ。
 
青と赤、2つの小さな隕石が合体して怪獣化したブルトンには、目も口も手足もなく、上下の区別があるのかさえ不明だ。その形状は、例えて言うならテトラポッドか心臓。そんなふうに思っていたら、実際脚本を書いた藤川桂介氏はテトラポッドを見て着想したというし、デザインを担当した成田亨氏も、心臓をイメージして赤と青で着色したらしい。
 
ブルトンの体はゴムのように柔らかく、振動でブルンブルンと揺れるところはまるで軟体動物だが、人工物のようにシャープな輪郭線を持ち、幾何学的な模様も入っている。また、テトラポッドでいうところの“脚”にあたる煙突状の突起からは、金属製にしか見えないアンテナが伸びてきたりもする。こうなるともう、一種の前衛芸術といった印象だ。
 
ブルトンはまた、シュールな状況を引き起こす能力がある。アンテナから発する怪光線で空間を歪めたり、あらゆるものを異空間へ送ったりするのだ。印象的だったのは、攻撃に向かった戦車部隊と戦闘機部隊が入れ替わってしまった場面だ。突然地面が陥没してできた穴に落ちた戦車が、いつの間にかジェットエンジン音を響かせ空を飛ぶ。逆に空中で消滅した戦闘機が、戦車のようなキャタピラ音を立てて地上をのろのろと進む。
 
ブルトンが出現した場所は科学特捜隊の基地のすぐ近くだったから、そこにいた隊員たちも翻弄された。番組のコメディリリーフであるイデ隊員が、事件に巻き込まれた男女2人を連れてある部屋に入ると、天井と床がひっくり返っている。実は、それは画面上の見た目だけで、実際は彼らが天井に足をつけて逆さまになっていた。このシークエンスのカット割りや演出に着目すると、自らを娯楽作家と位置づける飯島敏宏監督の、視聴者を驚かせようという意図がよくわかる。まず、部屋に入ってきた3人をカメラが映し出すと、ヘルメットをかぶっているイデを除き、2人の髪が乱れている。特に女性の髪は真上に向けて逆立ち、着ているブラウスのリボンも立っている。イデがのんきに、「どうしました?」と言った後、状況に気づいた2人が悲鳴を上げる。ここまでカメラは3人をバストアップで捉え、部屋の様子はあまり見せていない。つまり、まだ視聴者に“タネ明かし”はされていないのだが、悲鳴の直後からカメラがズームアウト。部屋全体を映し出すと同時に、画角が180度回転して画面の上下が逆さまになる。すると、3人が天井からぶら下がりながら立っていることが明らかになるのだ。
 
このあと、イデの本作におけるコメディリリーフとしての見せ場がやってくる。どうにか部屋から出た3人が階段を上っていくと、周囲がいつの間にか屋外に変わり、階段の先は空へ空へと続いている。そうとは気づかず、一心不乱に駆け上がっていくイデ。楽しげなBGMとともに、早回しの映像でコミカルな雰囲気が演出される。後ろの2人に呼び止められて、イデは初めて異様な状況に気づき、オタオタしながら「ひゃー!」と叫ぶ。さらにその後、異空間から脱出しようと言って崖から飛び降りると、着地したのは基地の作戦司令室。しかもゴミ箱に頭から突っ込んでしまった。そしてゴミ箱をかぶったまま立ち上がると、「今度は暗闇の世界か!」と言いながらウロウロ。その様子をムラマツ隊長以下数人に冷めた目で見られており、ゴミ箱を取ってもらったイデはバツが悪そうに指をくわえる。非常にテンポが良く、楽しめるシークエンスだ。
 
こんな能力を持つブルトンが相手だと、ウルトラマンも戦いづらそうだった。跳び蹴りにいったところストップモーションのように動きを止められ、さらにそのまま空中でグルグルと回転させられたりして、いつもと勝手が違っていた。しかし、もちろん最後は“伝家の宝刀”スペシウム光線で決着。あとには隕石だけが残った。ウルトラマンはそれを拾い上げると、片手でグシャリと握りつぶす。BGMがフェードアウトした中、まるでスナック菓子が潰れるような乾いた音が響く。どことなく“虚しさ”のようなものすら感じさせる瞬間だ。いったい、どんな演出意図があってこのシーンが撮られたのか。ついつい深読みしたくなってしまう。
 
少々無理があるかもしれないが、解釈してみよう。非現実的な状況を生み出すブルトンを人に例えれば、社会の常識に囚われない変わり者といったところだろうか。そんな人間からは革新的なアイディアが生まれたりするが、この国には枠をはみ出した者やそのアイディアは握りつぶされる傾向がある。そういった社会に対する皮肉が、「無限へのパスポート」には込められている…。9月の記事(https://www.jvta.net/co/akenomyojo164/)で触れた実相寺昭雄監督であれば、そういったことは十分考えられる。ただし、飯島監督の場合はどうだろうか。さすがに深読みし過ぎかもしれない。とはいえ、こうやって自由に解釈して、自分なりの答を見つけ出す作業は楽しいものだ。そしてそれは、ファンに許された楽しみ方の1つではないだろうか。
 
「無限へのパスポート」(『ウルトラマン』第17話)
監督:飯島敏宏、脚本:藤川桂介、特殊技術:高野宏一
 

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】さっそく『ゴジラ-1.0』を観てきました。次回の記事でいろいろ語りたいと思いますので、ここでは一言。主演の神木くん、良かったー。

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明けの明星が輝く空に 第165回:怖い!ウルトラ名作探訪ハロウィン特別編

思わず映画館の椅子から飛び上がったり、悲鳴をあげたりするシーン。映画の怖い場面にも、いろいろある。僕が好きなのは、例えば『エイリアン』(1979年)のクライマックスで、物陰に潜んでいたエイリアンが、ゆっくり出てくるところ。この後どうなるのか、というジワジワくる恐怖がたまらない。そして、その“ジワジワ感”は、ウルトラシリーズの怖かった場面にも共通している。
 

まず『ウルトラマン』から、ビル内に潜むバルタン星人と遭遇する場面。科学特捜隊のアラシ隊員が用心しながら階段を上っていくと、彼の背後、いま通り過ぎたばかりの場所に、バルタン星人が忽然と姿を現す。振り返って銃を向けると姿が消え、今度は反対側、階段の上の踊り場に現れる。いつ、どこに現れるか分からないというのは不安をかき立てるものだ。それが人間ではない何かであれば、不安は恐怖へと変わる。
 

違った形で恐怖を感じさせてくれたのは、『ウルトラQ』の海底原人ラゴンだ。主人公である淳と由利子が、林の中でラゴンと遭遇。茂みに隠れてやり過ごそうとする。2人の前を通り過ぎるラゴン。見つかるか、見つからないか。スリリングで緊張感溢れるシーンだ。
 

ラゴンの歩き方がゆっくりなのも、ジワジワ感があっていい。異形のモノは暴れたりせず、ただ立っているだけ、歩いているだけの方が怖い、というのが僕の持論だ。だから『エイリアン3』(1992年)の、軽快に動き回るエイリアンには失望させられた。同様に、『スピーシーズ 種の起源』(1995年)のシル(デザイナーはエイリアンと同じH.R.ギーガー!)にもガッカリした。声を大にして言いたい。あの姿で、ただ無言で立っていたら、もっと怖かったはずだ!
 

僕は、ジュラシックパーク・シリーズにありがちな肉食恐竜が人に向かって吠える演出も、虚勢を張る小物感が出て好きではない。『GODZILLA ゴジラ』(2014年)から始まった、モンスターバース版の“しかめっ面”ゴジラも同様だ。動きすぎという点では、ビルの間を忍者のようにすり抜けた、1998年のエメリッヒ版ゴジラなど論外。みな『シン・ゴジラ』を見習ってもらいたい。無表情で立っているだけの“シンゴジ”には、底知れぬ不気味さがあった。
 

ラゴンの話に戻そう。林の中での遭遇シーン以外では、夜、民家に侵入してくるところも怖い。屋内という半ば閉じられた空間は、不審者がいればそれだけで脅威だ。バルタン星人然り、“歩く吸血植物”ケロニア(『ウルトラマン』)やバド星人、ワイアール星人(いずれも『ウルトラセブン』)然り、である。ケロニアらは、それぞれ基地内の宿泊施設の一室、洋風の邸宅、走行中の小田急ロマンスカー車内と、いずれも閉ざされた空間に出没した。同一空間に潜んでいたり、入ってきたりする怪異。そこに僕は恐怖を感じる。
 

特に怖いのは、自宅のように本来なら安心できる場所に入ってこられたキュラソ星人のケースだ。その顔は、正面から見たマンボウを縦に引き延ばしたようで、怖くもなんともないのだが、一家団らんのリビングルームに入ってくる場面にはドキッとする。さらに、このシークエンスで秀逸なのは、2階にいた男の子が窓からロープを垂らして逃げる場面だ。物音に気づいたキュラソ星人が、カーテンを開けて外をうかがう。運良く、その子はまだリビングルームの窓より高い位置にいたため、見つからずに済んだ。ただ、上から見下ろすカメラアングルで、その子の足とキュラソ星人を同時に捉えたカットは、今にも彼が見つかってしまいそうで、観ているこっちの足までムズムズしてくる。
 

バルタン星人以下の数例は、不安や抑制の利いた動きが生む恐怖、という共通項でくくれるが、実はもう一つ共通した要素があることにお気づきだろうか。それは、いずれも相手が人間サイズだということだ。怪獣とは違い、目の前に迫って来られたり腕を捕まれたりしそうで、頭ではなく肌で感じる怖さがある。一方、巨大怪獣には、1人のちっぽけな人間なんて目に入ることはないだろう。だから“自分が襲われる”という恐怖心が湧かない。と言うより、そもそも怪獣はそんな視野の狭い、矮小な存在であってはいけないのだ。(だから『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019年)において、三つ首竜のギドラが人間を襲うシーンに、僕は興ざめしてしまった。)
 

例外的に、(巨大怪獣ほど大きくはないが)大魔神は怖かった。それは、シリーズ1作目の『大魔神』(1966年)で、人がいる櫓に向かってゆっくり歩いてくる場面だ。櫓と大魔神の顔はほぼ同じ高さ。つまり、これから襲われようとしている人間たちは、大魔神と目が合う位置にいるのだ。自分が狙われているという感覚。これは怖い!同じ理由で、『ウルトラQ』 のゴローも怖い。ロープウェーのゴンドラが進む先にぶら下がる、巨大な猿。その顔は、ゴンドラに乗る人々から見れば同じ高さにある。このまま進んだら・・・、と思うと背筋が寒くなる。
 
ただし、『ゴーストバスターズ』(1984年)に登場した、愛嬌たっぷりの巨大マシュマロマンに感じた怖さは、未だに説明がつかない。大魔神やゴローの時とは違い、人々は地上にいた。誰か特定の人間が狙われたわけでもない。でも、僕は(ちょっぴり)怖かった。謎である。
 

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】馬の走る姿が好きで、競馬中継をよく見ています。”ドンデンガエシ”や”イロゴトシ”、”オヌシナニモノ”など、ユニークな名前を見つけるのも楽しい。先日は、”エガオニナッテ”と”イツモニコニコ”が同じレースで走るという奇跡が!ちなみにイツモニコニコが勝ちました。

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明けの明星が輝く空に 第164回:ウルトラ名作探訪16 「恐怖の宇宙線」

怪獣は物語の都合上ワルモノにされるが、本能に従って行動する彼らの本質は決して「悪」ではない。反対に、人間の側に正義があるのか問われる場合もある。「恐怖の宇宙線」の主役である子どもたちにとっては、なんとウルトラマンこそワルモノであった。

 

ある日、ムシバと呼ばれる少年が、土管に怪獣の落書きを描く。彼がガヴァドンと名付けたその怪獣は翌日、現実のものとなって町に出没した。地球に異様な宇宙線が降り注いだことが原因らしい。ただその怪獣は、攻撃を受けても特に反撃はせず、やがて居眠りを始める。手をこまねいて見ているしかない科学特捜隊の面々。やがて日が暮れると、怪獣ガヴァドンは夕闇に溶けるように消えていった。

 

その夜、ムシバと友人たちが土管置き場に集まり、ガヴァドンを強そうな怪獣に描き直す。しかし、翌朝、再び出没したガヴァドンは相変わらず寝てばかり。それでも、ただいるだけで日本の経済活動はストップしてしまう。巨体から発するイビキが強風や騒音を生んでしまうからだ。3度目の出現の際、ついに戦車部隊による攻撃が始まった。ウルトラマンも登場するが、ガヴァドンへの攻撃に抗議していたムシバたちからは「帰って」という声が上がる。ウルトラマンがガヴァドンと戦う間、子どもたちはずっと口々に「殺さないでよー」、「やめてくれよー」といった声を上げ続けていた。

 

ガヴァドンは結局、ウルトラマンに抱え上げられ、空の彼方へと姿を消す。その夜、ムシバたちが空を見上げていると、ウルトラマンの声が聞こえてきた。毎年七夕の星空の中で、ガヴァドンに会えるようにしよう、というのだ。その言葉を聞いて喜ぶかと思いきや、「雨が降ったらどうなるんだよぉ」と不満げなムシバ。夜空にぼんやり浮かんだガヴァドンの目から、星が流れ落ちた。

おそらく、子どもたちに帰れと言われた特撮ヒーローは、この時のウルトラマンだけだろう。ウルトラマンのヒーロー性を否定したとも言える本作は、番組のコンセプトを覆す危険性をはらんだ作品だった。監督は、ウルトラファンなら知らぬ人はいないという鬼才、実相寺昭雄監督。脚本を書いた佐々木守氏とのコンビで撮った6本の作品は名作揃いだが、このようにヒーロー番組の王道から外れたものが多い。

 

そもそもガヴァドン自体、従来の怪獣のパロディと取ることができる。なにせ凶暴性はゼロ。攻撃されても反撃せず、寝てしまうのだから。そしてパロディ化は、科学特捜隊にも及んでいる。作戦会議でイデ隊員が、夜の間にガヴァドンの落書きを消してしまえばいいと妙案を出した場面だ。同僚のアラシ隊員は「科学特捜隊が落書きを消しに行けるか」と突っぱね、ムラマツ隊長も我々は正々堂々と戦うと大真面目に宣言するのだ。明らかにイデの意見の方が正論なのだが、ムラマツらは科特隊のあるべき姿に固執してしまっている。これは、マンネリ化した「怪獣出現→科特隊出動→攻撃」といった番組のフォーマット(常識)に対する皮肉なのだろう。

 

一般論として、常識や王道が大人のものとすれば、そこから外れるのが子どもである。作戦会議でのやりとりの後、場面が変わって夜の土管置き場。ムシバたちが集まってきていた。彼らは厳しい親の目を盗み、夜だというのに外出してきたのだ。常識的な親は子どもの安全を考えて夜の外出を禁ずるが、子どもからすればそれは束縛だ。そんな彼らにとって、絵という二次元の束縛から解き放たれたガヴァドンは、自由の象徴だったに違いない。いや、さらに言えば、ガヴァドンは子どもたち自身なのかもしれない。考えてみて欲しい。なぜガヴァドンは、日が落ちると姿を消す怪獣なのか。その設定のウラには、どんな意図があるのか。それはおそらく、夕方家に帰る子どもたちのメタファー、あるいはカリカチュアだからなのだ。

 

物語は最後に、大人と子どもの対比を描いて幕を閉じる。科特隊の面々が訪れた公園で、大勢の子どもたちがコンクリートの地面に絵を描いていた。中には怪獣の絵を描いている子もいる。再び特殊な宇宙線が降り注ぎ、第2、第3のガヴァドンが出現しないとも限らない。「自分の好きなものを描く自由は子どもたちにある」というナレーションが流れる中、困惑するハヤタ隊員(ウルトラマン)やムラマツ隊長らの姿があった。

 

「恐怖の宇宙線」におけるウルトラマンは、ムシバたちから見ればヒーローでも超人でもなく、大人たちの1人に過ぎなかった。普通なら感動的な場面になったであろう、七夕にガヴァドンと会えるようにしようと語りかけたところでも、「雨が降ったら」という“ツッコミ”を入れられてしまい、まったく立つ瀬がない。こんなふうにウルトラマンを揶揄してしまった実相寺監督は、自らの作品を「直球」ではなく「変化球」だと表現している。訳あってTBS局内で“干されていた”のだが、『ウルトラマン』で登板。番組を撮りたくてウズウズしていたのか、「恐怖の宇宙線」からは人と違ったことをしてやろうといった意気込み、自己主張のようなものが感じ取れる。そして、そんな監督の企みからは、たとえウルトラマンといえども逃れられなかったのである。

 

「恐怖の宇宙線」(『ウルトラマン』第15話)
監督:実相寺昭雄、脚本:佐々木守、特殊技術:高野宏一

 

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【最近の私】大学の後輩に誘われ、数年ぶりに劇場で芝居を観ました。舞台の演技は映画・テレビと全然違うもんだなあと、今さら気がつきました。でも一番驚いたのはチケット代。観劇って贅沢な趣味なのだなあ。

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明けの明星が輝く空に 第163回:夢幻のヒロインたち2:ヒロミ(ハチオーグ)

登場作品:『シン・仮面ライダー』(2023年)
キャラクター設定:SCHOKER上級幹部構成員、洗脳した人々を町ごと支配する

 
ヒロミは、いわゆる“悪のヒロイン”だ。本作のヒロインである緑川ルリ子が、まだSHOCKERに所属していた頃から2人は知り合いで、敵対する今も「ルリルリ」と親しみを込めて呼ぶ。しかしその一方で、過去を捨てたかのように、自分はもうヒロミではなくハチオーグだと名乗る。
 
黄色の着物に黒の打ち掛け姿。日本刀の収集が趣味だという彼女は、若いヤクザ風の男を1人、さらにSHOKCERの構成員たちを数多く従えている。といっても、“女親分”のイメージではない。どこか少女の面影を残す若い女性で、おっとりとして上品な物腰は、良家のお嬢様のようだ。最初の登場場面では、モーツァルト『ディヴェルティメント第17番ニ長調K.334第3楽章』が流れるのだが、「上品」「優雅」といった雰囲気の曲が選ばれたのは、もちろん彼女のイメージ構築という演出意図のためだろう。
 
その人物造形をより明確にするためか、映画には対照的なもう1人の悪のヒロイン、サソリオーグが登場する。こちらは、女性アクションキャラクターの古典的類型、“見世物としてのエログロ”そのものだ。赤と黒のロングドレスのスリットから、黒ストッキングに包まれた脚を見せてエロスを強調し、白いマスクには立体的なサソリの意匠が施され、興奮するとその尻尾がグルグル回ってグロテスクを演出する。さらに彼女は人を殺しながら「エクスタシー」と叫びながら狂気と恍惚の表情を浮かべるなど、異常性が際立つキャラクターだ。
 
ただし、ヒロミにしても上品さの裏に禍々しさを秘めていた。それが明らかになるのは、彼女が幸福について語る場面だ。彼女は穏やかに、そしてどこか嬉しそうに、人々を支配することが自分にとっての「ささやかな幸せ」であり、服従こそ奴隷にとっての幸せと言い切るのだ。
 
モーツァルトに日本刀という不釣り合いな組み合わせも、不穏さを匂わせる仕掛けではあるが、むろん刀はヒロミにとって単なる部屋の飾り物ではなく武器だ。そして、刀を使った彼女のアクションシーンは外連味に溢れ、観る者を魅了する。戦いの直前、着物の裾を払って脚をのぞかせ、任侠映画ばりに片肌を脱ぐ。ただし、素肌は曝さない。着物の下は黒のボディスーツ。それに黒い手袋とブーツを合わせた姿が演出するのは、エロスではなくスタイリッシュさだ。
 
ボディスーツは蜂の巣をモチーフにした六角形の模様に覆われ、忍者の鎖帷子を連想させる。そして手下の男と2人で本郷猛(仮面ライダー)と戦う際、まさに忍者のように刀を構え、腰を低く下ろしてタメを作る。カメラは両者を後方からのローアングルで捉え、緊迫感と勢いのあるBGMが流れる。俳優の肉体、画角、音楽が生む躍動感への期待。実に見事だ。
 
ヒロミは、ハチオーグ変身後の言動も魅力的だ。仮面ライダーに変身した本郷にも刀を持たせ、「これで得物も同じ」とフェアな戦いを望む姿勢を見せ、気負わず静かに「では、参る」のひと言。まるで時代小説に出てくる剣豪のようではないか。
 
実はこの戦闘の前後で、ヒロミの生々しい感情が露わになる。ルリ子のためにも投降してくれと本郷が言ったとき、彼女は「むしろ、それ逆効果。私はルリ子を泣かせたいの」と、冷たい笑みを含んだ顔をルリ子に向けた。そして仮面ライダーとの激しい戦闘中も、彼女の意識はルリ子に向けられたままだ。攻撃を繰り出しながら、「あなたのオモチャを目の前で壊してあげる。だから泣いて!」、「私のせいで悲しんで!傷ついて!切なくなって!お願い!ルリ子っ!」と叫び、それまで抑えられていた負の感情が一気に吹き出した。
 
ヒロミはルリ子に対し、歪んだ愛情を抱えていた。それが公式の人物設定だが、その理由について映画内では語られない。ルリ子がSHOCKERを裏切ったことを知り、自分も裏切られたと感じたのだろうか。あるいは、それ以前から憎しみのような感情を抱いていた可能性もある。“生体電算機”として人工子宮から生まれたルリ子は、おそらく組織内で優秀な存在だったろう。同じく人工子宮から生まれたヒロミだが、ルリ子に対する劣等感のようなものがあったのか。支配欲の強いヒロミはそれを受け入れられず、自分の思い通りにならないルリ子を憎んだ。だから泣かせたい。そうすればルリ子を支配したことになる。そんな心理が働いたのかもしれない。
 
結局、ヒロミは本郷に敗れるが、ルリ子の思いを汲んだ本郷は彼女を殺さない。自分に死んで欲しくないというルリ子の思いを知ったヒロミは、思い詰めたような目でルリ子を見つめる。2人はきっと和解できる。そう思えた瞬間、銃声が轟いた。第三者(政府の人間)が介入したのだ。倒れたまま、何かを訴えるようにルリ子を見つめるヒロミ。ルリ子が慌てて駆け寄ると、「残念。ルリルリに殺して欲しかったのに」という言葉を残し、彼女は息絶えた・・・。
 
2人の関係は、『週刊ヤングジャンプ』で現在連載中の漫画、『真の安らぎはこの世になく -シン・仮面ライダー SHOCKERSIDE-』で明かされる可能性が高い。映画の前日譚を描くこの作品には、まだ少女のルリ子も登場する。やがてヒロミについても描かれるだろう。ただ個人的には、2人の過去を知りたくないという気持ちも強い。謎は謎のまま。その方が楽しいこともある。
 

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【最近の私】文芸翻訳者の越前敏弥さんが、通訳者の橋本美穂さんをゲストに迎えて開いた講座に(朝日カルチャーセンター)出席しました。「通訳は瞬発力」という橋本さん。そのために必要なことは結局翻訳にも言えることで、刺激を受けました。それにしてもエネルギッシュな人です。だからこそ、ピコ太郎のライブの同時通訳も務まったのだと納得。

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明けの明星が輝く空に 第162回:夢幻のヒロインたち1:緑川ルリ子

登場作品:『シン・仮面ライダー』(2023年)
人物設定:かつて所属したSHOCKERを壊滅するため、仮面ライダーの力を借りる

 

『シン・仮面ライダー』の3枚組のポスターは、緑川ルリ子を軸に物語が進むことを示唆している。登場人物の中でただ1人、3枚全てに登場する上、1枚目は彼女単体のデザインだ。作品内でいかに重要な位置を占めているか、それだけでもわかるだろう。
 

まず、ルリ子の視点から物語を振り返っておこう。非合法組織SHOCKERの構成員だった彼女は、父である緑川弘博士とともに本郷猛(仮面ライダー)を連れて組織を抜け出す。それは、SHOCKERの壊滅と、そこに残る兄、イチローの計画を止めるためだった。本郷の力を借り、SHOCKERのオーグメントたち(身体の強化=オーグメンテーションを施された人間)を排除していくルリ子。志半ばで倒れるも、そのプラーナ(生体エネルギー)は残存され、ある種の精神世界における対話によって、イチローの心を開かせることに成功する。

 

ルリ子は銃の扱いに慣れているという以外、特殊な戦闘能力を持たない。オーグメントと戦うのは本郷であり、ルリ子は守られる立場にある。そういった意味で、キャラクターとしては典型的な“お姫様”の類型だ。イチローの“妹”という設定も含め、いかにも男性目線で作られたヒロインという印象は否めない。しかし、ルリ子は決して“か弱い女性”ではない。まるで特務機関の諜報員のように冷徹で、父が死んだ時でさえ、(動揺が目の動きに表れてはいたが)悲しむ素振りなど全く見せなかった。
 

そんな彼女が、仮面ライダーのイメージを象徴するアイテムの1つ、赤いマフラーを本郷の首に巻いたのは、映画が始まって間もない頃だ。ドラマチックな演出もなく、なんということはない行為のように見せているが、その意義は大きい。オリジナルであるテレビ番組『仮面ライダー』から半世紀を経、初めて赤いマフラーを巻いている理由が提示されたからだ。(『シン・ゴジラ』(2016年)や『シン・ウルトラマン』(2022年)同様、庵野秀明監督はオリジナルを引用しながら、巧みに新しい意味づけをしていく。)
 

この場面は、ルリ子という人物を理解する上でも重要だろう。他人を信じないという彼女は、初対面の本郷にマフラーを巻く際、「同行を許すから、少しで私が我慢できる格好にして」と突き放すように言う。なぜ我慢できる格好が赤いマフラーなのか。実は、父、緑川博士も若い頃はバイク乗りで、赤いマフラーを愛用していた。映画には、緑川博士とまだ子どもだったイチローがバイクにまたがる写真が登場するのだが、ルリ子は本郷に遺言として残した映像の中で、自分もその写真の中にいたかった、父の後ろに乗れたらよかったと告白している。
 

写真には緑川博士の妻、そしてイチローの母の姿もあるが、彼女はルリ子が生まれる前に無差別殺人事件で帰らぬ人となっている。緑川博士が人々を絶望から救う理念を掲げるSHOCKERに身を投じたのは、おそらくそれが理由だろう。彼はその後、自身の遺伝子情報を元に、人工子宮を使ってルリ子を誕生させる。オーグメンテーションプロジェクトに必要な“生体電算機”として利用するためだった。自分は研究用の道具に過ぎないと考えていたルリ子は、父親に対して冷淡な態度を見せていたが、心の奥底ではそのぬくもりを求めていたのだ。
 

そんなルリ子にとって、本郷の存在は救いとなった。遺言では、オートバイの後部座席で本郷の背中が暖かいと感じたことを打ち明け、自分にも「幸せ」が何か理解できた気がすると言っている。(彼女の感じた幸せの形が、SHOCKERの構成員たちが求める歪んだ幸せの形と対照的であることは、本作を理解する上で重要な鍵となる。)
 

人との触れ合いは、この作品が重視するものの1つかもしれない。特に、手の平を通して特殊能力を発揮できるルリ子の場合、イチローと相対したときや、一文字隼人(もう1人の仮面ライダー)の洗脳を解くときなど、相手に直接触れる様子が描かれていた。ルリ子は一文字にも赤いマフラーを巻くのだが、本郷の時と同様、渡すのではなく巻くという行為自体、人に触れることのメタファーと解釈できそうだ。
 

戦いを通し、本郷を信頼するようになっていったルリ子は、遺言の中で初めて「猛さん」と名前で呼びかける。当初の冷徹さはそこにはなかった。「マフラー、似合ってて良かった」と少し満足げに言う彼女は、どこにでもいるごく普通の女性のようだ。そして遺言の映像が終わると、音声データで残されていた一言が流れた。
 

「追伸。マフラーの話は直接言いたいな。」
 

その思いは叶えられた。しかし、瀕死の重傷を負った中、必死に振り絞ったルリ子の声は、本郷の耳にしっかり届いただろうか。もちろん届いていた。彼女のためにも、そう信じたい。
 

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【最近の私】ある人がChatGPTに特撮TV番組『忍者キャプター』について質問したところ、何も知らなかったそうです。これを聞いて「ChatGPT、恐るるに足らず!」と思った特撮ファンは、僕だけではないはず。

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