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明けの明星が輝く空に 第177回 :英訳から見えるゴジラの立ち位置

先日、Xのタイムラインに表示されたJVTAのポストを見て、自分が“トワイライトゾーン”にさまよい込んだかと思った。なぜなら、自分がまだ書いていないブログ記事が、すでに掲載された、という告知だったからだ。まさか未来に書いたものが、タイムスリップして…?

これ、種明かしをすれば、なんということはない。記事のテーマが、かぶってしまったのだ。そのテーマとは、「ゴジラはheとすべきか、itとすべきか」という翻訳の問題。8月に開かれた翻訳家トニー・キム氏によるJVTAオンラインセミナー(“『ゴジラ-1.0』英語字幕に見る 日米における「ゴジラ観」”)を拝聴し、イチバン興味を引かれたのが、ゴジラの代名詞をheからitへ変更するよう、制作サイドからリクエストされたというエピソードだった。

その理由について、僕をトワイライトゾーンに引き込んだJVTAの記事“『ゴジラ‐1.0』 英語字幕に見る日米における「ゴジラ観」” では、ゴジラは生物としての意識を持たない自然災害などの災厄のようなものだから、という解釈が示されていた。結論から言うと、僕の見解はそれとは視点が異なる。(でなければ、同じテーマの記事を書く意味がない。)むろん、災厄という点について異論はない。ゴジラに限ったことではないが、日本の怪獣の多くは、自然災害のメタファーだ。わかりやすい例では、『帰ってきたウルトラマン』(1971~72年)に登場したシーモンスとシーゴラスという、竜巻や津波を引き起こす怪獣がいる。

ゴジラがitでなければならなかった理由。それは、人間から見た心理的な距離と関係があるのではないかと思う。『ゴジラ‐1.0』のゴジラは未知の生物であり、情け容赦なく多くの人命を奪う冷酷な怪物だった。そんなものに対し、heはどうだろうか。たとえば、『Alien』(1979年)に登場するエイリアンの場合、ざっと確認してみたところ、一貫してitが使われているようだ。

自説をさらに検証するため、『GODZILLA ゴジラ』(2014年)における英語のセリフと日本語訳も調べてみた。この作品には、ゴジラ以外にムートーという人類の敵となる怪獣が登場する。ゴジラはムートーの天敵だから、「敵の敵=味方」という構図で、相対的に人類側に近くなる。

物語前半で渡辺謙演ずる芹沢博士たちが、両怪獣について説明する場面は、格好の検証材料を提供してくれている。これも結論から先に言えば、ゴジラの場合はhe(あるいはhim)だったのに対し、ムートーはitだった。ゴジラにitが使われているセリフもあるが、やはり心理的距離で説明できるだろう。そのセリフは、ゴジラが未知の生物だったころを振り返った際のものだからだ。当時、ゴジラは芹沢博士たちにとっても、得体が知れない危険な存在だった。

翻訳の観点から特筆すべきは、ムートーを指し示すitに対応する訳語がほぼ省略されていることだ。たとえば、“This parasite. It’s still out there. Where’s it headed?”というセリフは2回もitが使われているのに、「その生物はまだ生きてるんだろう?どこ行った?」(吹き替え版)というように、巧妙に「それ」を回避している。これはJVTAの記事でも指摘されていたことだが、日本語の代名詞は省略されることが多い。逆に言えば、言わなくても何について話しているかわかるのが日本語なのだ。実際、上記のセリフの直前、ほぼ連続して出てくる7つのitは、字幕版も吹き替え版もすべて無視されているのだが、すべてムートーのことだと無理なく理解できる。特に、字数制限と闘う映像翻訳者にとっては、便利な言葉だ。

省略は、ゴジラを指すhe/himの場合も同様だ。ただ、その一方で、英語のセリフにheがないにも関わらず、日本語訳に「彼」が使われているケースもあった。芹沢博士の助手、グレアム博士が、“The top of a primordial ecosystem”と言った場面だ。吹き替え版では、「は生態系の頂点よ」と、「彼」が付け加えられている。この場合の「彼」には、敬意のニュアンスが読み取れる。この敬意というものも、心理的距離に影響するだろう。英語であれば、itよりheの方がふさわしい。(実を言えば、上記のエイリアンもheと呼ばれるケースがあったが、その生命体としての完璧さを評価する者のセリフであり、そこにある種の敬意が含まれていたと言える。)

ゴジラに対する敬意といえば、芹沢博士の使った言葉が興味深い。「生態系の頂点」と同じような意味合いで、ゴジラのことをalpha predatorと評しているのだ。通常使われる表現はapex predatorなのだが、それではライオンなど現実に存在する大型肉食獣と、(少なくとも言葉の上では)同類になってしまう。別格だという思いが、博士にそういった表現をさせたのだろう。またメタのレベルで言えば、ゴジラは怪獣映画という、特殊な世界観に支配された空間にしか存在しない生き物だ。動物園に行けば見られるような動物のイメージは、できるだけ排除しよう。そんな思いが、脚本家にあったのかもしれない。ちなみに、alpha predatorの訳語は「破壊神」(字幕)/「怪獣の王」(吹き替え版)となっており、博士の抱く敬意がしっかり反映されている。

最後に、『ゴジラ‐1.0』のゴジラは、日本語のセリフの中ではなんと呼ばれているのか。これが面白いことに、「やつ」や「あいつ」といった、通常は人を指して使う言葉なのだ。それなのに英訳ではheをitに変えるよう要求があったというのだから、翻訳というものは面白い。

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。

【最近の私】『エイリアン:ロムルス』を観ました。いやあ、怖かった。音響もスゴイ。耳より肺で感じるBGMって初めて。でもちょっと、内容・演出的に盛り込み過ぎかな。特にあのエレベーターシャフトでのシーンは…。

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明けの明星が輝く空に 第176回:ウルトラ名作探訪20「謎の恐竜基地」

「マルバツ問題です。ウルトラマンは、ゴジラと戦ったことがある。」

こんなクイズが出題されたら、マニア度の高い特撮ファンほど迷うかもしれない。というのも、「〇」と「×」、どちらも正解だからだ。

「謎の恐竜基地」のクライマックス。ウルトラマンと対峙する怪獣を見れば、多くの人が「ゴジラだ!」と思うに違いない。実は、登場怪獣ジラースの着ぐるみは、ゴジラ映画で実際に使われたもの。いわば友情出演なのだが、ゴジラ映画と異なるウルトラマンの世界に、本人が登場するわけにはいかない。その問題をクリアするため、ゴジラは変装した。首にエリマキトカゲのような皮膚飾りを着け、頭や体の一部を黄色く塗って。

こんな経緯を知っていれば、ジラース対ウルトラマンは、公式には実現していないゴジラ対ウルトラマンという夢の対決として楽しむことができる。当然、軍配はウルトラマンに上がるので、「ふむ、ゴジラもウルトラマンには勝てないか」などと面白がるのもアリだ。

しかし、コアなファンがその程度では、「甘い!」と面罵されよう。なぜなら、ジラースの着ぐるみに入っていたのが、ミスター・ゴジラ、中島春雄さんだからだ。中島さんは、ゴジラ映画の1作目から、何度もゴジラを演じた俳優。『ウルトラマン』でも何体かの怪獣を演じているのだが、やはり自身が東宝映画で入った怪獣の着ぐるみを改造したものだった。しかし、“主演”としての苦労を分かち合ったゴジラの着ぐるみを流用したジラースは、中島さんにとって特別な怪獣だったろう。生き生きとした動きからは、中島さんが楽しんで演じているのが感じ取れる。

しかし、“ジラース=ゴジラ”という裏ネタを抜きにしても、「謎の恐竜基地」の対決場面は注目に値する。遊び心あふれる演出が、ブラウン管の前の子どもたちを大いに楽しませてくれたのだが、いま観ると、ジラースとウルトラマンにとって特別な時間だったように思えてくる。

対決場面を振り返ろう。家を壊そうと暴れるジラース。振り上げたその腕を、後ろからつかむ者がいた。ウルトラマンだ。パッと離れて距離をとる両者。お前の相手はこっちだ、というように手振りで示すウルトラマン。ふいに足元の岩を持ち上げたジラースが、それを投げ上げ、口からの白熱光線で粉々にして見せる。ウルトラマンも同じように岩を放り投げ、スペシウム光線で破壊。しかも、割れて飛んでいく破片も撃ち抜いた。素早い二段撃ちだ。それを見たジラースが、ならば力比べだといわんばかりに、力士のような仕草で両手を叩き突進。それを押し返したウルトラマンが、胸を叩いてもう一丁来いと示す。二度目も跳ね返されるジラース。その程度か、と笑うウルトラマン。白熱光線による攻撃をかわし、ジラースの“襟巻”をはぎ取った。やったな!とばかりに突進するジラース。ウルトラマンはまるで闘牛士のように、“襟巻”を使ってジラースを翻弄する…。

冒頭の早撃ち合戦から、両者の間にはコミュニケーションが成立している。これは実は稀有なことだ。基本的に怪獣は問答無用に排除されるべき対象で、その意味で生物ではなく“モノ”として扱われる。しかし、擬人化された動きから、思考や感情が読み取れ見せるジラースは、ある種の(人格ならぬ)獣格を持った存在に思える。そうなると、両者は戦うというより、お互いに勝負を楽しんでいるようにすら見えてくるではないか。

いつもなら空や陸上からウルトラマンを支援する科学特捜隊は、まったくこの戦いに介入しない。それどころか、約3分間の戦いの最中、隊員たちの表情やリアクションのカットもない。つまり画面の中では、ウルトラマンとジラース、“二人だけ”の楽しげな時間が流れているのだ。

しかし、ジラースが敗れると、雰囲気は一変。美しくも悲しいメロディの音楽がバックに流れる。カメラはゆっくり移動しながら、敗者の尻尾から頭部までを映し出す。そしてウルトラマンは、ジラースの首にそっと襟巻をかけてやるのだった。

倒した敵に、ヒーローが敬意を示す。実は、このシーンに感銘を受けたのではないかと言われているのが、カンフー映画の大スター、ブルース・リーだ。『ドラゴンへの道』(1972年)で、リー演じる主役が、倒した敵に空手の道着をかける場面がある。それが「謎の恐竜基地」のラストに似ているというのだ。さらに、出典は不明だが、リーが残した言葉の中に、「敗者に敬意を示す日本の特撮作品に衝撃を受けた」といった意味のものがあるという。これは、フリーライターの佐々木徹氏が、ウルトラマンのスーツアクターだった古谷敏氏らとの対談で明かしたものだ。彼は取材でリーの自宅を訪れた際、生前のままの部屋にウルトラマンの人形が飾られていたのを見たという。ファンとしては、ぜひ本当であってほしいと願わずにいられないエピソードだ。

怪獣とヒーローの対決場面だけで、これだけ語るべきものが多い作品も珍しいだろう。個人的には、ストーリー面に難ありと感じてしまう部分もあるが、それを差し引いても、「謎の恐竜基地」は名作と呼ばれるのにふさわしい。そう確信している。

「謎の恐竜基地」(『ウルトラマン』第10話)

監督:満田かずほ(名前の表記は禾へんに斉)、脚本:金城哲夫、特殊技術:高野宏一

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。

【最近の私】久しぶりに車を運転しました。ブランクの影響は感じなかったけれど、バックだけは別。何度も切り返さないと、駐車スペースにまっすぐ入らない。すいている駐車場で良かった。

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明けの明星が輝く空に 第175回:納涼!『妖怪百物語』

年々、暑くなる日本の夏。昭和世代としては、やはり“お化け映画”で涼みたい。お勧めは、妖怪たちが活躍する『妖怪百物語』(1968年)。この映画は、『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』との併映だっただけに、内容はファミリー向け。登場する妖怪たちは愛嬌のある連中ばかりなので、気楽に観て楽しむことができる。

物語は、豪商、但馬屋利右衛門と、寺社奉行、堀田豊前守の悪行を、浪人に姿を変えた大目付配下の大木安太郎が暴くという、典型的な勧善懲悪時代劇だ。はっきり言って、妖怪が登場しなくても成立する話なのだが、脚本は無理なく妖怪を絡める構成となっている。

そもそも「百物語」とは、人々が集まり怪談を語り合うというもので、江戸時代には多くの人々が楽しんだものらしい。100話すべて語り終えると、怪異なことが起こるとされている。『妖怪百物語』では、それを防ぐために“憑き物落とし”を必ずしなければならない設定なのだが、豊前守のための余興として百物語の会を催した但馬屋が、そんなものは迷信だと言って無視したため、妖怪たちを呼び寄せることになってしまう。

この場面は、拝金主義者としての但馬屋のキャラクターを提示する上で重要だ。彼は「私なりの憑き物落とし」と言って、豊前守を含む客人たちに、小判の包みを持たせる。妖怪以前に、金に憑りつかれた人間というわけだ。

時代劇でも現代劇でも、拝金主義者は悪人の基本類型の1つだが、この作品ではそういった物質主義的な思考と、妖怪という超自然的なものを畏れる心、その2つが対立する構図になっている。但馬屋は、小さな社や祠のある土地を指して「空地同然」という言い方をするが、彼の合理性だけを重視した考え方がよく表れている。

さて、納涼を謳うからには、肝心の妖怪たちのことを書かなくてはならない。先ほど触れたように、妖怪たち(の着ぐるみ)は愛嬌があるのだが、それもそのはず、実は漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の作者、水木しげる氏による妖怪画がデザインの元になっているそうだ。子どもが演じている妖怪も複数いて、体格面でも威圧感はない。中でも、“油すまし”は不気味ながら愛嬌がある。三頭身の体に、大福のように横に広がった頭。体は蓑傘をまとっている分、ボリュームがあるが、見えている脚は(子どもが演じているだけに)細っこく、なんとも奇妙な感じがする。顔には、開いているようにも、閉じているようにも見える目。そして、思案しているのか、憮然としているのか判然としない表情。つかみどころがない。でも、どこかかわいい。

もともと、日本の妖怪は怖いのかどうかわからないものが多い。“のっぺらぼう”にしろ、“ろくろ首”にしろ、人を驚かせはするが、具体的にどんな危害を与えるのか、と聞かれても答えられない人が多いだろう。“からかさ小僧”や“提灯お化け”に至っては、もはや“ゆるキャラ”だ。それでも、おどろおどろしい音楽と、陰影の濃い照明、「出るぞ、出るぞ」と思わせる展開など、お化け映画の“快感原則”を踏まえた演出にはゾクゾクさせられるが、そういった意味では『妖怪百物語』も王道を行っている。

また、ろくろ首登場シーンでは障子がうまく使われていた。まず、障子の反対側に座っている女のシルエット。その首が徐々に伸び始める。そして影の先端が障子の端に近づいて行ったかと思うと、顔がヌッと出てそれと目が合う。首はさらに伸びてきて体に巻き付き…。そんなの怖くもない?いやいや、ぜひ想像してみてほしい。実際に人間の首が長く伸び、そのまま自分の体に巻き付くところを。実感が湧かなければ、1982年のSFホラー映画、『遊星からの物体X』風の映像を想像してみよう。いかが?思わず叫びたくなったのでは?

この場面では、自分の女房と思っていた女の首が伸びる、という設定も心にくい。赤の他人より、身近な人間、つまりもっとも安心できる相手がバケモノだった、というシチュエーションほど恐ろしいものはないからだ。(実はその裏に、「自分の女房ほど怖いものはない」という意味が込められている、なんていうふうに解釈したら、深読みし過ぎだろうか。)

『妖怪百物語』の妖怪たちは、物理的な攻撃はせず、とことん相手を怖がらせる。ただ、その過程で人間を幻惑するらしく、刀で切りつけた相手は妖怪ではなく仲間だった、というオチがつく。そうやって但馬屋も豊前守も破滅へ追い込んだ妖怪たちは、楽しげに、ゆっくり踊りながら去っていく。闇の中、宙に浮いているようにも見える体は半分透明で、実体があるのかどうかもわからない。果たして、これは夢なのだろうか。やがて彼らは、闇に飲まれ、消えていった。

映画はこの後、場面が変わって、但馬屋らの遺体が発見される。そして、「この世には、人智で測れぬ不思議なこともある」という大木のセリフで幕を閉じる。しかし納涼という観点からは、妖怪たちが去っていくカットで「完」の文字が出た方が断然いい。みなさん、もし夏にこの映画を観るなら、最後の妖怪が消えたところで、停止ボタンを押しましょう。

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。

【最近の私】映画『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』を観ていたら、最後のテロップに驚きました。翻訳者の名前が、以前の仕事仲間だったからです。活躍は知っていましたが、結構メジャーな作品も手掛けるようになったんですねえ。素晴らしい。

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明けの明星が輝く空に 第174回:夢幻のヒロインたち4:如月瞳(キューティーハニー)

登場作品:映画『CUTIE HONEY -TEARS-』(2016年)

キャラクター設定:己の身を犠牲にし、人々を救った女性型アンドロイド

前回の記事では、特撮作品における女性主人公の不在について、個人的な思いを書いた。しかし、実を言えば、女性主人公が皆無というわけではない。特撮番組に分類される『コメットさん』(1967年~1968年、1978年~1979年)や、『好き!すき!!魔女先生』(1971年~1972年)の主人公は、どちらも(宇宙のどこかからやって来た)少女だ。

その『好き!すき!!魔女先生』放送終了の翌年、マンガとアニメによるメディアミックスという形で、女性ヒーローが活躍する『キューティーハニー』の連載/放映が始まった。その後、アニメのリメイク作品をいくつか経て、のちに『シン・ゴジラ』(2016年)を撮ることになる庵野秀明監督が、佐藤江梨子主演で映画化(2004年)。さらに原幹恵主演のテレビシリーズ(2007年~2008年)を挟み、2016年公開の劇場版『CUTIE HONEY -TEARS-』につながる。そして、その映画の主人公が、西内まりや演じる如月瞳である。

マンガ版の『キューティーハニー』は、今なら間違いなく問題視されるようなお色気場面が売りだった。なにせ作者が永井豪氏である。マンガ『ハレンチ学園』(1968年~1972年)で、教師やPTAから激しくバッシングを浴びせられたマンガ家だ。しかし、オリジナルと違ってシリアスな世界観を構築し、主人公の名前を「如月ハニー」から「如月瞳」に変更した『CUTIE~』は、お色気要素をほぼ排除している。ティーザービジュアルを見てもわかるように、キューティーハニー(瞳の戦闘形態)の衣装は地味で落ち着いたものになった。上下別れたボディスーツは、腰回りのラインを隠しており、少々野暮ったいぐらいだ。また、いったん全裸になるという“お馴染み”の変身場面は、マイルドな描写で回数も抑えられた。

しかし、「ほぼ排除」と書いたように、ゼロではない。その一つが、瞳がミニスカートのドレス姿で階段を上るカットだ。真後ろではないが、不必要にローアングルから捉えている。(『シン・ウルトラマン』(2022年)で、巨大化したスカート姿の女性登場人物をローアングルで捉えたカットに対し、セクハラだと批判の声が上がったことが思い出される。)それでも、『CUTIE~』を観た人のレビューの中にお色気不足を嘆く声が散見されるのだが、それは逆に、映画制作者が現代の基準に近づけようとして原作から距離をとった、ということの証左なのかもしれない。

しかし、映画が描く瞳には、もっと本質的な部分で残念な点があるように思う。それは、彼女の内面の描き込み方に、物足りなさを感じてしまうことだ。例えば、彼女はなぜ巨悪と戦うのか。人々を助けるために戦うレジスタンスのメンバーに請われて作戦行動に参加するのは、彼女を作った“父”、如月博士と再会できると思ったからだが、博士に対する彼女の強い想いがわかるシーンはほとんどない。そのため、少々とってつけたような動機づけのように感じてしまうのだ。それに、「人々を救う」という利他的な目的意識が強くなければ、ヒーロー性に乏しい気もする。

ただし、瞳はビジュアル面で非常に魅力的なキャラクターだった。単に美人だとか、そんなことではない。確かに、彼女は特撮史上もっとも美しいキャラクターだ(と個人的には思う)。特にキリっとした表情は魅力的で、思わず見とれてしまう。しかし、同様に彼女のアクションも美麗である。全身を躍動させたダイナミックな攻撃で、瞬時に敵を圧倒。戦闘中にほぼ無言な上、表情をゆがめたりしないのは、彼女がアンドロイドだからという演出意図からだろう。それが結果的には、“泥臭さ”や“汗臭さ”とは無縁の、スマートなアクションという印象につながっている。

瞳がまとう美のイメージは、アンドロイドとしての彼女の特性によっても強調される。彼女はボディにダメージを受けても、体内にある「空中元素固定装置」により、ナノミクロンのレベルで自己修復できるのだが、その際に“傷口”から無数のピンク色に光る粒子が立ち上る。劇中で説明はされないが、おそらく個々の光はボディを構成する元素だろう。なぜ光るのかという理屈はともかく、出血や流血の暗喩として、これほど美しい映像表現もない。もしかしたら、この光の粒子は『CUTIE~』一番の演出と言ってもいいかもしれない。(変身場面では、この光の粒子が全身を包み、瞳が全裸になったという印象は薄い。)極め付きは、彼女の最期だ。物語のクライマックス、身を挺して人々を救ったあと、力尽きてビルの高層階から落下していく間に、彼女は空中で“消滅”する。全身が光の粒子のかたまりとなり、一瞬強く光ったかと思うと、霧のように消えていくのだ。この時、光は瞳の命の輝きそのものの表現だったと言えるだろう。

個人的には、そのままエンドロールに入ってほしかったのだが、実際には“ありがちな”ラストカットが用意されていた。スクリーンに映し出されたのは、地面に転がる空中元素固定装置。それが起動し、ピンク色に輝き始める。瞳の復活を暗示しているのは明らかだろう。どうも“蛇の絵に描き加えられた足”という印象は否めない。尊く感じられた光の粒子も、結局は都合の良い仕掛けに過ぎなかったと思えてしまう。瞳というヒロインのためにも、このラストは避けてもらいたかった…。

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【最近の私】LAWSONの盛りすぎチャレンジで売られるロールケーキがすごいけど、すぐなくなる、と仕事仲間が教えてくれたので、時間を見計らって買いに行きました。大量のクリームがのどを通過するときの幸福感!結局、4日間に3回も買って食べてしまった。

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明けの明星が輝く空に 第173回:特撮作品が描く女性像

初めて昭和の特撮作品を観た人たちからは、こんな感想が漏れるかもしれない。「ミニスカート姿のヒロインが多いな。」 もちろん、昭和40年代にはミニスカートブームというのがあり、町なかにはそんなファッションの女性が闊歩していた。また、昭和45年に開催された大阪万博でも、コンパニオンさんの制服が軒並みミニスカートだったことを考えれば、驚くようなことではないかもしれない。しかし、その衣装で派手な立ち回りやアクションをさせるのは…。今なら間違いなくやり玉に挙げられるだろう。

実を言えば、3月の記事で取り上げたマリ(『キカイダー01』)の衣装も、ミニスカートだった。その姿で空手技を繰り出したり、地面に転がったりするものだから、違った意味でハラハラしてしまう。推測に過ぎないが、制作したのが東映だったことと関係があるかもしれない。例えば、『プレイガール』(1969年~1974年)という、“お色気”が売りのアクション番組を制作したのも東映だ。ブラウン管が映し出すのは、ミニスカートでのアクションのほかヌードシーンなど、お茶の間が気まずくなってしまうような場面が多かった。

ただし、さすがに『キカイダー01』は子供向けの番組なので、番組制作者もそこはわきまえていた。アクションの見せ方にいやらしさはなく、節度は保っていたと言えるだろう。(中には、見せることが前提となっているとしか思えない特撮番組があったのも、また事実なのだが。)

円谷プロのウルトラシリーズの場合、そういった路線とは距離を置いていた。怪獣と戦う特殊チームの女性隊員はパンツスタイルで、肌の露出もほとんどなかった。制服がタイトなデザインのため、多少体の線が出るということはあるが、それは男性隊員も同じであった。

しかし、チーム内における彼女たちの立ち位置は、ステレオタイプに基づいたものだ。戦いの最前線に立つこともあるのだが、基地に残って通信などを任されることも少なくなかった。また、現場で負傷者が出れば、その保護を担当し、逃げ遅れた人たちを誘導するため、後方に引くこともあった。

隊員の男女比にも偏りが見られる。当初は、男性4~5人に対して女性は1人。その後、女性は増えたものの、男性優位は変わらない。もちろん、力関係でもそれは変わらず、隊長は決まって男性。『ウルトラマンティガ』(1996年~1997年)で初の女性隊長が登場したが、その後は副隊長止まり。『ウルトラマンタイガ』(2019年)のように、主人公が所属する民間警備会社の社長が女性という例もあるが、これはいわば“背広組”であって“制服組”ではないから、前線で指揮を執る戦闘部隊の隊長とは同列に論じることはできない。

スーパー戦隊シリーズの場合、女性だからといって後方支援のような形はとらない。男女そろって最前線で戦うのが基本だ。しかし、だからこそ、人数の偏りがより明確になる。シリーズ第1弾の『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975年~1977年)における男女の比率は4:1。シリーズ5作目の『太陽戦隊サンバルカン』などは、メンバー3人すべて男性だった。その後、5人中2人が女性というパターンが増えたが、いまだに男女比は逆転していない。

スーパー戦隊シリーズに関して、もう1つ指摘したいのは、女性レッドの不在だ。ご存じのようにスーパー戦隊の各キャラクターは、ブルーやイエロー、ピンク、ブラックなど個別の色を持っており、センターを任されるのは常にレッド。必ずしもチームリーダーというわけではないのだが、物語の中心となるキャラクターだ。例外的に、『侍戦隊シンケンジャー』(2009年~2010年)に女性のレッドが登場したが、それは番組終盤の6話だけで、ほかに全49話を通して登場する男性主人公のレッドがいた。

仮面ライダーシリーズに目を転じれば、最近は女性ライダーも登場するのが番組の基本フォーマットとなっている。ただし、主人公は男性のまま。女性ライダーが主人公の作品は、いまだ実現していない。それでも、実力は男性ライダーと拮抗しており、戦闘において、“一歩下がって”といった立ち位置ではないところは、今後に期待を抱かせる点だろう。一方、数自体が少ない女性ウルトラマンのそれは、母親や幼馴染、元恋人、そして妹など。男性主人公の周縁的な位置にとどまり、女性ライダーに比べて壁は高いようだ。

女性が主人公では、男の子の視聴者を引き付けられない。そんな見方が番組制作サイドにあるのだろうか。しかし、僕自身の子供時代を振り返れば、『魔法使いサリー』や『リボンの騎士』など“女の子アニメ”を楽しく観ていた。『キャンディキャンディ』のエンディングソングは、今でもお気に入りの一曲だ。作品が面白ければ、主人公の性別は関係ない。まして、アクションも生き様もカッコいい女性のスーパーヒーローなら、男の子たちの目にも魅力的に映るだろう。近い将来、怪獣や怪人たちより手ごわそうな、特撮界に残るこの高い壁が崩れ去ることを期待しよう。

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【最近の私】数十年ぶりに縄跳びをやってみたら、こんなにできなくなるものか!というぐらいできませんでした。タイミングが合わない合わない。二重跳びなんて1回跳んだら足に引っかかって…。ブランクをなめてはいけない。

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明けの明星が輝く空に 第172回:ウルトラ名作探訪19「真珠貝防衛指令」

実相寺昭雄監督という人は、意地が悪い。というのも、「真珠貝防衛指令」に登場する怪獣ガマクジラは、女性を戯画化したものだからだ。もちろん、これは僕の個人的な見解なのだが、自らの作品を“変化球”と称していた実相寺監督のことだ。あながち的外れではない気もする。

『ウルトラマン』には、電気やウラン、石油など、普通では考えられないものを食料にする怪獣たちが登場するが、その中でもガマクジラは変わっている。なにせ、好物は真珠なのだ。「真珠貝防衛指令」の冒頭、科学特捜隊唯一の女性隊員、フジアキコ隊員が、休暇で銀座の宝石店を訪れる。彼女はそこで、養殖真珠が壊滅的打撃を受けたため値段が高騰していると聞かされ、急きょ科特対本部に帰って調べることに。その時、お供として連れていたイデ隊員に向かい、強い口調で「本部に帰ってただちに調査してやる」と言うのだが、普段の彼女ならそんな乱暴な言い方はしない。「やる」という口調に、穏やかならぬ彼女の心の内が透けて見える。

そして本部にガマクジラ出現の一報が入り、これから出動という場面。隣にいたアラシ隊員に目が血走っていると指摘されたフジ隊員は、まっすぐ前を向いたまま何かを見据えるような表情で、「女の執念よ」と返す。この時、カメラはやや斜めから見た彼女の横顔を、額と顎がフレームに収まらないほどのアップで捉える。わずかに見える背景は、明るい部屋なのになぜか暗い。否応にも、彼女の表情が浮き上がり、画面は異様な雰囲気を醸し出す。

その直後、カットが変わると、今度は画面右を向いたガマクジラがアップで映し出される。左向きだったフジ隊員のカットとは、相対する形だ。演出意図は明らかだろう。真珠を食べる怪獣と、真珠をこよなく愛する女性が、対立する構図で描かれているのだ。しかし、この後のシークエンスでは、対立ではなく類似の関係性が暗示される。

それは、科学特捜隊がガマクジラと一戦交えた後の場面だった。ガマクジラの攻撃で科特隊の搭乗機が故障。海岸に不時着し、そのまま夜を迎える。ガマクジラも夜はおとなしくしているため、休戦状態で焚火を囲んでいると、奇妙な音が聞こえてきた。いぶかる隊員たち。フジ隊員がハッとして、顔を上げる。どうやら、ガマクジラが胃の中で真珠を消化している音らしい。彼女は、「やめて!」と言いながら走り出す。そして、地面に両手をつき、「人間から真珠の光を取らないで!」と懇願するように叫ぶ。このときのフジ隊員の顔は右向き。腹が膨れ満足げなガマクジラと同じ方向だ。先ほど触れたカットつながりが両者の対立を表しているなら、これはその逆だろう。つまり、真珠に対する執着という点で、フジ隊員はガマクジラと同類なのだ。

この場面が注目に値するのは、それだけではない。怪獣に頭なんか下げるなと冷静だったイデ隊員に対し、フジ隊員は闇の中、焚火の炎越しに乱れた髪のまま振り向き、「男なんかには分からないわ、この気持ち!」と言い放つ。さらに彼女はガマクジラのいる方向を見据え、徐々に目に異様な光を宿す。このアップのカットだけで、実に10秒以上。それも無言のままだ。

番組のメインターゲットである子供たちはともかく、大人の男性がこの場面を観たら、十人中九人は「女ってコワイ!」という言葉が思わず口をついて出るだろう。(僕自身、そう思ってしまったことを白状しなければならない。)実相寺監督は、男から見た女の怖さを、怪獣と重ね合わせて描いているのだ。さらに、執着の対象が真珠である点にも、男目線の意地の悪さが垣間見える。男性的価値基準からすれば、“たかが真珠”である。フジ隊員の取り乱し方は理解しがたい。それと同時に、滑稽ですらある。彼女の姿に困惑しつつも、半ば呆れたような表情を見せる男性隊員たちのリアクションに、それが端的に表現されていた。

さらに、フジ隊員=怪獣という図式は、ラストシーンでこれ以上ないほど明確に示された。再び銀座の宝石店を訪れ、真珠の指輪やネックレス、さらにイヤリングもつけてウットリしているフジ隊員。そのカットにかぶせられるイデ隊員のセリフが、「そんなにたくさん真珠をつけちゃって、まるで自分の方がガマクジラみたい」なのである。実相寺監督は、ソフトフォーカスでフジ隊員を美しく撮ってはいるが、それは男目線の悪意をカモフラージュするためだったのだろうか。

しかし、実相寺監督に意地が悪いところがあるとすれば、それは女性に対してというより、世の中の全てのものに対してかもしれない。第15話でウルトラマンをヒーローの座から引きずり下ろしたことについては、すでに以前の記事(https://www.jvta.net/co/akenomyojo166/)で触れた。今回の「真珠貝防衛指令」では、最後に男も滑稽な存在として描かれている。銀座を闊歩するフジ隊員の後ろで、荷物持ちをさせられているイデ隊員だ。彼女を怪獣呼ばわりした罰なのか、多くの箱を抱えさせられている。一番上の箱が落ちそうになり、ひょっとこのような表情で四苦八苦する姿は滑稽以外のなにものでもない。フジ隊員は素知らぬ顔で、さっさと歩き続ける。しょせん男なんて女には勝てないのよ、とでも言うように。実相寺監督は贖罪の意味を込め、イデ隊員の姿に自分を重ね合わせて描いた…。そんな解釈は、さすがに都合良すぎるだろう。それはともかくとして、ひとつ言えることは、実相寺監督の前では、男も女も(そしてウルトラマンさえも)、カッコつけることは許されないのである。

「真珠貝防衛指令」(『ウルトラマン』第14話)

監督:実相寺昭雄、脚本:佐々木守、特殊技術:高野宏一

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。

【最近の私】スピルバーグ監督の『ジョーズ』を久々に観ました。演出のうまさはさすがの一言。僕が好きなのは、釣糸に反応があった場面。緊張感がたまりません。

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明けの明星が輝く空に 第171回:特撮俳優列伝29 志穂美悦子

髪の長い女性が、大空をバックに見事な跳び蹴りを決めている1枚の写真がある。まっすぐ伸びた右足の美しさはもちろん、折りたたんだ左足、こぶしを前に突き出した右腕、わきを閉め、肘を曲げた左腕。そのすべてが一つになって、完璧な“造形美”を生み出している。その女性とは、1970年代の空手映画ブームの中でスクリーンデビューした志穂美悦子。特撮テレビ番組『キカイダー01』にも出演し、「悦ちゃん」と親しみを持って呼ばれた人気者だった。

志穂美さんは、デビュー前からJAC(ジャパンアクションクラブ)でトレーニングを積んだ、生粋の“アクション女優”だった。(JACとは、世界に通用するアクションスターの育成を目標に掲げ、千葉真一氏によって設立された組織で、真田広之さんも輩出している。)1974年公開の『女必殺拳』では映画初主演を務めたが、それに先だって重要な役を得たのが、1973年に始まった『キカイダー01』だった。まだ高校生だった彼女がキャスティングされた役は、先月の記事(https://www.jvta.net/co/akenomyojo170/)で紹介した、マリという名の女性型ロボットである。

マリは普段、人間とは見分けのつかない姿をしている。戦闘時には特殊能力を発揮できる姿に変身するのだが、人間の姿のままで闘う場面も少なくなかった。つまり、志穂美さん自身が空手技を披露する場面が、ふんだんにあったのだ。こういうとき、アクションの素養がない役者が立ち回りを演じると、共演者たちがうまいこと倒れたり投げ飛ばされたりするのが見えてしまって興ざめだが、志穂美さんの場合そんなことは全くなく、マリのアクションは実にサマになっていた。「女が男を倒す際に、もっとも華麗で、しかも納得いくのが空手技」とは、師匠である千葉さんの考えだ。マリ=志穂美さんはその言葉を証明するかのように、美しく敵をなぎ倒していった。

志穂美さんが俳優を目指すきっかけとなったのは、バレーボールを題材にしたドラマ、『サインはV』(1969年~70年)を観たことだったそうだ。そして、千葉真一さん出演のアクションドラマ、『キイハンター』(1968年~1973年)で、演技者への思いは決定的になったという。もともと陸上部で活躍するなど運動神経が良く、体を使って何かを表現したいと考えていた彼女は、女がアクションをしたらさぞカッコイイだろう思い、日本で女性初のアクション俳優になろうと決意を固めたのだ。ただし、やりたかったのは、ロープウェーからぶら下がったり、爆発の合間を走り抜けたりといったような、まさに『キイハンター』的なアクションだったのだが、世の中はブルース・リーの影響で空手ブーム。必然的に、そんな格闘アクションが求められた時代だった。

ところで、ブルース・リーと言えば、技を繰り出す際の怪鳥のような声とともに、敵を倒した後の悲しげな表情も印象的だった。志穂美さんも、「女が闘わなくてはいけないのは悲しいことだ」という思いから、そういった表情を常に意識するようにしていたという。そもそも、マリというキャラクターが哀しみを抱えたヒロインであったから、そういった意味でもアクションシーンは演じやすかったのではないだろか。キリッとした眉や切れ長な目をした志穂美さんは、悲しげな表情がよく似合った。アクションがうまいだけでなく、思い悩み苦しむ心の内も表現できていたからこそ、マリを軸としたドラマ性豊かなエピソードの数々も可能になったに違いない。

そう考えると、『キカイダー01』の放映終了後、今で言うスピンオフのような形で、マリを主人公に据えた新番組―もちろん、志穂美さんの続投は絶対条件だ―が作られていても良かったのではないかという気がする。しかし、残念ながら、そうはならなかった。実現していれば、女性主人公が圧倒的に少ない特撮映像作品の世界が、今とは違ったものになっていたかもしれない。志穂美さん自身はその後、『女必殺拳』シリーズのほか、『若い貴族たち 13階段のマキ』(1975年)など、多くの作品で空手アクションを披露。『柳生一族の陰謀』(映画版は1978年公開、テレビ版は1978年~79年放映)などの時代劇では、刀を使った殺陣も披露している。

映画評論家の山田宏一氏や山根貞男氏によると、それまで女性が主役の剣劇には“エログロ”の要素があり、「邪険」や「妖婦」といったイメージがつきまとっていたが、志穂美さんは全く異なっていたそうだ。いわく、「女の情念とは無関係な存在感」があり、「お嬢さん的魅力」のある「青春スター」で、それでいて「活劇」をやるところが新しかったと評している。(もちろん俳優である限りは、どんなイメージの役でもこなせるのが理想だろう。それでも、演技者の肉体からにじみ出てくるものはそれぞれ違っており、それが個性=魅力になるのだろう。)現代の感覚からすると、いかにも“昭和の男性目線”的な評論と言えなくもないが、それはさておき、志穂美さんが当時、女性としてはいかに新しいタイプの演技者だったか、ということが伝わってくる。

アクションもの以外でも、『熱中時代』(1978年~79年)といった学園ドラマなどに活躍の場を広げていった志穂美さんは、1986年に結婚したのを機に俳優業から引退。最近では、フラワーアーティストと活動している。それでも体を動かすのが好きなところは変わっていないようで、昨年出演したイベントで、足が頭の上にまで上がるような見事なハイキックを披露している。もう引退して40年近くにもなるというのに。悦ちゃん、おそるべし!

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】アニメの絵コンテ講座の続報です。課題の講評をいただきまして、自信を持って盛り込んだアイデアにダメ出しをもらいました(トホホ)。それがない方が、スッキリしてわかりやすいと。変に凝ったことをやろうとし過ぎたようです。

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明けの明星が輝く空に 第170回:夢幻のヒロインたち3:マリ(ビジンダー)

登場作品:特撮TV番組『キカイダー01』(1973年~74年)
キャラクター設定:悪の組織を裏切り、主人公と共闘する女性型ロボット

スーパー戦隊シリーズを中心に、戦う特撮ヒロインは数多くいるが、『キカイダー01』のマリほど、動きにキレのあるヒロインはいないだろう。それも当然と言えば当然のことで、演じたのは、本格アクション女優の草分け的存在、志穂美悦子さんだった。昭和のアクションスター、千葉真一氏が立ち上げたジャパンアクションクラブ(JAC)でスタントを学んだ志穂美さんだけに、空手技を駆使した戦いぶりは実に見事。マリの強さにも説得力が出た。

マリについて特筆すべきは、アクションだけではない。彼女は、物語の中で独自の立ち位置を占めており、個としてのキャラクターを確立していた。ありていに言ってしまえば、男性キャラの“添え物”ではないのだ。その意味で、特撮作品における希有なヒロインだった。

彼女は当初、イチロー(キカイダー01)の敵として登場する。悪の組織、シャドウの作ったロボット(ビジンダー)だったのだ。イチローは、女性や子どもに対して警戒心が下がる。そこに目をつけたシャドウによって、普段は若い女性の姿をしたロボットとして送り込まれた。しかし、イチローにはビジンダーであることを見抜かれ、君を助けたいとの申し出を受ける。というのも、マリはイチローを欺くため優しい心をプログラミングされており、ビジンダーへの変身前は、悪事を働くこともなかったからだ。

イチローの言葉に揺れ動くマリだったが、使命を果たそうとビジンダーに変身して戦いを挑む。しかし、キカイダー01に変身したイチローに敗れてしまう。イチローはその後、マリに“良心回路”を取り付けることに成功。それは不完全なものだったが、シャドウからは裏切り者とみなされ、結果としてイチローと力を合わせて戦うことになる。

マリはイチローの味方になったといっても、基本的には別行動をとっていた。また、戦闘能力が高いため、イチローの足手まといになったり、救ってもらったりすることもない。そのあたりが、主人公のアシスタント的役割にとどまるヒロインとは、一線を画す。さらに、初登場回である第30話以降は、彼女を中心としたエピソードが多く、作劇上も重要な立ち位置にあった。実際、元東映プロデューサーの吉川進氏は、実質的にビジンダーが主人公だったと証言している。

マリのドラマの根幹にあるのは、自分は完全ではないという思いから来る苦悩だ。シャドウの大幹部に「できそこない」と罵られ、激しく反発することもあった。またある時は、シャドウの指令に抗いきれずにイチローを攻撃してしまい、「やっぱり私は中途半端」だと悩む。そして、いつかイチローのように、強く正しい存在になりたいと願うのだ。

思い悩むマリの姿は、普通の人間と何ひとつ変わらない。観ているうちに、彼女がロボットであることを忘れてしまいそうだ。機械が、あるはずのない感情を示したとき、それはより明確な輪郭をもって立ち現れるように思う。「人間と感情」という組み合わせであれば、それは自然なものだから、僕らは特別な意識を持たずに受け入れるだろう。一方、「機械と感情」という組み合わせは不自然だ。しかし、だからこそ、その心の有り様がより浮かび上がって見えるし、僕らは一層そこに目を凝らそうとするのではないだろうか。少々理屈っぽくなってしまったが、簡潔に言えば、マリがロボットだからこそ感情移入しやすい、ということもあるのではないかと思う。

そして、これは希望的観測であるが、「中途半端な自分」に悩むマリは、番組の作り手たちから子どもたちに向けたエールだったと解釈したい。自分に100%の自信を持てるような子どもは、決して多くないだろう。誰しもコンプレックスや悩みを抱えているものだ。そんな子たちがマリの姿を見て、悩んでいるのは自分ひとりではないと知り、勇気を奮い立たせてもらえれば。そんな思いが制作現場にあったとすれば、ステキなことではないか。

マリには、恋愛エピソードも用意された。ある理由からロボットを憎む英介という青年に、好意を寄せられるのだ。実は彼は、マリがロボットだということは知らなかった。そんな彼にマリは真実を打ち明けられず、いったんは姿を消す。しかし、あきらめきれない英介は、なんとかマリを見つけて、自分の気持ちを告白する。そのとき、マリは「これでも私が好きですか」と言って、英介の目の前でビジンダーに変身する。愕然とする英介に、マリは別れを告げ、去っていった。

このエピソードは、青年のひたむきな愛に振り向くことを許されないのがマリの宿命だ、というナレーションで締めくくられる。なんという哀しい存在なのだろう。思えば、原作者である石ノ森章太郎氏が生んだヒーローたちは、みな哀しみを抱えていた。仮面ライダーしかり、サイボーグ009しかり。『キカイダー01』のイチローの設定は、前作である『人造人間キカイダー』の主人公ジロー(キカイダー)が悩めるロボットだった点が不評だったため、反対方向へ舵が切られていた。そんな中、番組の後半に入ってから登場したマリは、実は石ノ森ワールドの王道的存在だったのである。

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】映像分析の参考にと、アニメの絵コンテ講座(全2回)を受講中です。1回目はワークショップ形式。今、2回目に向け、課題に取り組んでいます。難しいけれど面白い!どんなフィードバックがもらえるか、今から楽しみです。

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明けの明星が輝く空に 第169回:『ゴジラ』×『ゴジラ-1.0』  

アカデミー賞の視覚効果賞にノミネートされた『ゴジラ-1.0』は、ゴジラ以外の怪獣が登場しないという点で、原点に立ち返った形だ。そこで今回は、東宝ゴジラシリーズ第1作の『ゴジラ』と比較し、それぞれの作品の特徴を浮き彫りにしてみたい。

『ゴジラ』は、終戦から10年もたっていない1954年に公開された。それだけに戦禍の影を色濃く残す作品だが、物語は後半、若い男女3人の関係を軸に進む。主人公の尾形秀人とその恋人である山根恵美子、そして、かつて恵美子の婚約者的な立場にあった芹沢博士だ。この、“蛇足”にも見えてしまうメロドラマ的要素は、若手俳優を売り出すためでもあったのだろう。尾形を演じたのは、のちにスターダムに駆け上がった宝田明さんだった。しかしそれと同時に、芹沢博士の人物像を明確にするために必要だったとも考えられる。

尾形は太陽の下が似合う好青年だが、芹沢博士は対照的に陰のある孤独なキャラクターだ。彼の研究室が地下にあるという設定も、その印象を強めるためだろう。そこに恋物語からはじき出された姿が描かれ、さらに孤独な印象が強まる。『ゴジラ』を撮った本多猪四郎監督の作品とは、“はぐれ者”の物語だという指摘があるが、芹沢博士は、まさにその“はぐれ者”である。そして、ゴジラも(文明社会に)居場所はないという意味で、芹沢博士とキャラクター造形が重なる。芹沢博士の悲哀とは、ゴジラの悲哀でもあった。ここに、ゴジラの本質がある。

一方、昨年11月に公開された『ゴジラ-1.0』(以下、『-1.0』)は、『ゴジラ』以上に人間ドラマが濃密だ。主人公は元特攻隊員の敷島浩一。彼は、“はぐれ者”というわけではないが、強い自責の念を抱えて生きている。実は戦時中、搭乗機の故障を装い、特攻から逃げてしまった。さらに、逃げた先の守備隊基地で、仲間を見殺しにもしている。というのも、ゴジラの襲撃を受けた際、駐機中の戦闘機から機銃掃射をするチャンスがありながら、恐怖で何もできなかったのだ。終戦後は東京で平和に暮らしていたが、特攻とゴジラから逃げたという思いが拭えない。連日、ゴジラ襲撃の記憶が悪夢となって蘇り、自分が生きていることすら信じられなくなる。それでも、一緒に暮らす典子の支えもあり、生きていくことに希望を見出す。

『-1.0』のキャッチコピーは、「生きて、抗え」である。この映画は、たとえどんなに辛くても生きろ、と訴えている。だから、ゴジラの東京襲撃で典子を失ったと思い込んだ敷島が、“死ぬこと=特攻”を決意して戦闘機に乗り込んだ物語終盤、実は脱出して無事だったという、ご都合主義的に見えてしまう展開になるのも当然のことだった。出撃直前、自分の手の震えに気づき、隣にいた男に向かい、「笑えますよね」と恥じたように言う場面があるが、たとえ格好悪かったとしても、生きたいと願う人間の思いを、山崎貴監督は尊重しているのだ。

敷島が脱出した戦闘機はゴジラの口に突っ込み、爆発で頭部を吹き飛ばされたゴジラは死んだ。しかし、敷島が典子と再会を果たした次のカットで、ゴジラの肉体が再生を始めていることが示される。それが暗示するのは、ゴジラの復活であって、新たなゴジラの誕生ではない。前者はゴジラの脅威が増幅するだけだが、後者は人間の愚行(核実験)が繰り返されることを意味している。そして、1954年の『ゴジラ』で示された懸念が、まさに後者だった。ゴジラが沈んだ海を見ながら、山根博士(恵美子の父)は、「あれが、最後の1匹だとは思えない」とつぶやく。彼が恐れるのは、再び水爆実験が行われ、次のゴジラが出現することだ。(ゴジラは、水爆実験によって凶暴化した古生物だった。)博士の言葉は、人間が愚行を繰り返すことに対する警鐘だ。約70年前の映画が、今も輝き続けている理由が、ここにある。

水爆実験で被爆し、口から放射能を帯びた熱線を吐くゴジラは、核兵器のメタファーだと言われる。しかし、長いシリーズの中で、これまで一度も、ゴジラ自身が核兵器並みの破壊力を持つ姿は描かれなかった。『ゴジラ』で東京は火の海になったが、その光景が想起させるのは東京大空襲だ。ヒロシマやナガサキではない。しかし、『-1.0』でゴジラが吐いた熱線は(明確な形のキノコ雲こそ描かれなかったが)、原爆級の大爆発を引き起こし、銀座を含む広範囲を廃墟に変えた。とうとうゴジラは、核兵器そのものになってしまったのだ。

ゴジラの恐ろしさを再定義した演出とも言えるのだが、個人的には釈然としない。水爆実験で怪物化したゴジラは、本来は犠牲者。ゴジラの着ぐるみの皮膚が、ひび割れたように荒れた造形なのは、焼けただれたイメージをまとわせるためのものだ。そのゴジラ自身が、己を傷つけた忌むべき核兵器そのものになる・・・。あまりにも残酷な話だ。もしそうするのなら、その呪われた悲劇性を映画の中心に据え、ゴジラの死には“鎮魂”の意味を込めるべきではないだろうか。

鎮魂。それはまさに、『ゴジラ』の主題のひとつでもあった。ゴジラが倒された場面では、レクイエムとしか言いようのない、美しく悲しげな曲が流れる。芹沢博士もゴジラと“心中”する形で命を落とすため、彼の死を悼む意味合いは当然あるだろう。しかし、前述の通り、両者は“はぐれ者”というキーワードでつながっている。哀悼は、ゴジラにも捧げられたと見るべきだ。ゴジラ映画が話題になっている今だからこそ、そんなことも多くの人に知っておいてほしいと願う。

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Written by 田近裕志(たぢか・ひろし)
JVTA修了生。子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】暖房に頼らず厚着で過ごしていると、体が寒さに慣れてきました。夏もしばらくすると、それほど暑いと思わなくなります。でも、年を取ると暑さ・寒さを感じなくなると言うから、そのせい?

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明けの明星が輝く空に 第168回:干支と特撮:タツ

『ヨハネの黙示録』には、7本の頭を持つ赤いドラゴンが登場する。たとえば、14世紀にフランスで制作されたタペストリー(アンジェ城所蔵「黙示録のタピスリー」)にその姿が描かれているが、頭の数を除けば、「キングギドラ」そのものと言っていいほど、両者は似ている。

キングギドラとは、東宝特撮映画に登場する宇宙怪獣だ。『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)以降、数作品に渡ってゴジラと死闘を繰り広げた好敵手で、特撮ファンの間で人気も高い。2019年公開の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(以下、『KOM』)にも、「ギドラ」という名で登場しているので、3本の首を持ち、全身金色という姿を目にした方も少なくないだろう。

ハリウッド映画の『KOM』では、黙示録的な世界観を印象づけるためか、ギドラと十字架が同時に映し出されるカットがある。画面手前に、シルエットで浮かぶ十字架。その奥、画面中央に映し出された火山の頂上で、力を誇示するかのように翼を広げるギドラ。火山からは溶岩が流れ出し、黒雲に覆われた空には稲妻が走る。いかにも世界の終末を感じさせる画作りだ。

黙示録のドラゴンは堕天使サタンの化身だというが、ギドラは登場のし方からして、それを想起させる。封印されていた底なしの深淵から復活するサタンのように、ギドラは南極の氷の下に眠っていた(封印されていた?)ところ、人間の手によって復活させられるのだ。(黙示録のドラゴンは、大天使ミカエルに退治された。ということは、『KOM』でギドラを倒したゴジラは、ミカエル=守護聖人という図式になる。ただし、ゴジラが守る対象は人類ではなく、自然環境だ。)

一方、東宝のキングギドラには、聖書との関連性は見られない。黙示録のドラゴンに姿が似ているのは単なる偶然だろう。というのも、元ネタの有力候補が、1959年日本公開のロシア映画、『豪勇イリヤ 巨竜と魔王征服』に登場するからだ。それは、ロシアや東欧に伝承される「ズメイ」というドラゴンで、キングギドラ同様3つの首を持っている。異なるのは、キングギドラは全身金色であることのほか、頭部に日本の龍の特徴が多く見られることだ。宇宙から飛来するという設定には、天翔る龍とイメージを重ね合わせる意図があったのかもしれない。

聖書の世界とは無縁な東宝版キングギドラだが、ある宗教的シンボルと絡む場面がある。それは、神社の鳥居を破壊するシーンだ。この鳥居はスタジオに作られたミニチュアなのだが、キングギドラはその間から見えている。つまり、鳥居の方が画面上は大きく映っている。そのためにはキングギドラの位置を、カメラ、そして鳥居からかなり離す必要があるが、そうすることで映像に奥行きが生まれ、空間的広がりを感じさせることに成功している。背景には雄大な富士山の裾野も広がり、観る者にスペクタクルを感じさせる名場面である。

ところで、キングギドラはなぜ、鳥居を破壊したのだろうか。破壊のカタルシスを感じさせるなら、もっとボリュームのある建造物の方がふさわしい。そういった観点からすると、鳥居は“貧相”だ。ただし、それは単なる門ではない。神域への入り口であり、外界との境界になっている。「神域=地球」、「鳥居の外=宇宙」と読み替えてみると、どうだろう?地球の外から来た脅威を表現する、象徴的な場面になっている、と言えるのではないだろうか。

ところで、宇宙怪獣であれば、地球在来の怪獣たちとの差別化が必要になるだろう。それを端的に表しているのが、鳴き声だ。わかりやすく言えば、「ガオォォー!」ではなく「カララララ」。例えるなら、電子音で再現されたカナリアのさえずり。清澄な高音を軽やかに響かせる。少しエコーがかかっていることもあり、あたかも天から降ってくるかのようだ。飛翔する龍のイメージと相まって、少々言い過かもしれないが、キングギドラが天空の神獣のように思えてくる。

そんなキングギドラであるが、『KOM』の後輩はゴジラに完敗。“やられ役”、“引き立て役”に終わった。この扱いには大いに不満が残る。そもそも、鳴き声が良くない。それはまるで、さびた鉄の門扉、わざと不快な音を出すバイオリン、目の前を通過するF1マシンのヒステリックなエンジン音。いずれにせよ、ストレスを感じさせるものだったのだ。キングギドラは絶対、澄んだ声で「カララララ」と鳴かなくては!「カララララ」と!

ただし、尺にしてほんの数秒だが、「おお!」と唸らされたカットが、『KOM』にはあった。ギドラが空に向かい放電する場面だ。暗雲に覆われた市街地で、広げた翼の数カ所から発せられる幾筋もの稲光。辺りは金色の光に包まれる。その姿はあたかもサンダーストームの化身、もしくは雷神。サタンのメタファーでありながら、ある種の神々しさすら感じてしまう映像だった。

最後にひとつ、私事を。何を隠そう、僕は辰年生まれである。(何回目の年男か、ご想像にお任せしよう!)干支とは関係なく、もともとキングギドラには特別な思い入れがあったが、改めて考えてみると、何か特別な繋がりがあるような気がしてくる。この際だ。僕の守護聖人ならぬ、守護聖獣、ということにしてしまおう。調べてみると、鳴き声の着メロがある。それも「カラララ」だ!かくして、僕のスマホの着信音は、キングギドラになったのである。

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【最近の私】ものすごく久しぶりに、銭湯に行きました。電気風呂は相変わらず痛いなあ、水風呂は心臓に悪いんじゃ?、などと考えながら、たっぷり長風呂。そして上がった後は、もちろんコーヒー牛乳!

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