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やさしいHawaii 第72回 ハワイ語 口承からテキストへ

やさしいHawaii 第72回 ハワイ語 口承からテキストへ
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【最近の私】コロナ、オミクロン・・・この2年半余りは人間が振り回された感がありますが、徐々に以前の生活を取り戻せそうな、今日この頃。私も気を付けながら、交友を復活です。
 

先日私は、2年ぶりにJVTAに伺いました。
久しぶりにスタッフの方々とお会いし、とても楽しいひと時を過ごしました。私は相変わらずハワイの話題で盛り上がったのですが、その時ある方から「文字を持たなかったハワイの文化が、どのようにして現在に伝えられたのだろうか」と、訊かれました。私は漠然としたことは分かったつもりだったのですが、明確な説明ができませんでした。このひと言がきっかけで、改めてハワイの文字文化の変遷について調べてみることにしました。
 

古代ハワイの人たちは、文字を持ちませんでした。ですから、当時の歴史、伝統などに関しては、明確にテキストとして表記されたものが残っていないため、これが絶対に正しいと断定することは難しく、推測の域を出ないものもあります。また、多くの島からなるハワイでは、おそらく地域によって話されていたハワイ語や発音も多少違いがあったと想像されます。何代も語り継がれてくると、その内容も少しずつ変わってきたかもしれない、という可能性も否定はできません。そんな事実を前提に、文字を持っていなかったハワイが、どのようにして現在に至ったのかを、多くの資料から紐解いていきたいと思います。
 

文字が存在しなかったハワイの世界は、古老たちがハワイ王家の血統、歴史、神話、伝統などを次世代に語って聞かせる、口承の文化でした。それに加え大変重要な存在だったのが、フラです。神への祈りであるメレ(詠唱)が歌われ、神にささげるフラを踊ることによって、ハワイの豊かな文化が伝えられていきました。ただフラに関しては、あまりに膨大な内容なので、ここでは文字文化に限ります。
 
フラ
〔キラウエアカルチュアルフェスティバルで見た神に奉げるフラカヒコ(古典フラ)〕
 

ハワイの歴史をさかのぼったとき、不思議だと思ったことがあります。
カメハメハ大王は若干20歳前後のころ、イギリスからやって来たバンクーバー船長と親交を深くしていました。しかしカメハメハは、言葉の通じないバンクーバーと一体どのようにして国の治め方や諸外国との接し方を学んだのでしょうか。さらに、ハワイの首長たちとは違い、なかなか思うように収められない妻のカアフマヌとのいさかいの、仲介までやってもらったのです。バンクーバーがハワイを訪れていたのは1791年~1795年。宣教師がやってきた1820年よりずっと以前のことです。おそらく何度か太平洋の島々を訪れた船員の中には、タヒチ語と似ていたハワイ語をある程度理解する人間もいたのでしょう。彼らが簡単な通訳のような役目を行っていたのかもしれません。妻カアフマヌとの夫婦喧嘩は万国共通で、おそらくバンクーバーの仲介に、言葉は必要なかったのでしょう。
 

その後1820年にはキリスト教の宣教師がハワイにやって来て、西欧文化の大きな波が押し寄せます。宣教師たちはすでにタヒチなどで布教活動を始めており、タヒチ語にはある程度精通していたと言われています。ハワイでの布教を効果的に行うには、聖書をハワイ人に理解してもらうことが大切でした。そこでタヒチ語と類似していたハワイ語を、まずアルファベット表記し、ハワイ語による聖書ができました。このようにして、ハワイ語をテキストとして表記するようになったことが、これまでのハワイの口承文化に大きな変革をもたらしたのです。
 

当時ハワイでは西欧人との接触により様々な伝染病が蔓延し、免疫を持たなかったハワイ人の人口は急激に減少しました。(クック船長が来島した1778年にはハワイ人の人口は推定30万人、それが1892年には4万人に減少)。そこで文字を持たなかった古代ハワイ人の中で、口承だけではこれまでの伝統文化を伝えていけなくなるという危機感が、特に知識人の中に広まったと推測できます。ハワイ人は、猛烈な勢いで識字率を上げていきました。宣教師がやって来た1820年当時、識字率はほぼ0%だったのが、1860年には95%にまで上り、世界の中でもトップクラスの識字率だったといいます。(ユネスコでは識字率を「日常生活で用いられる簡単で短い文章を理解して読み書きできる15歳以上の成人」としています)
 

ハワイの識字率を上げたもう一つの大きな理由に、ハワイ語の新聞が多く発行されていたことがあります。当時、歴史家、知識人として活躍したデビッド・マロ、ジョン・パパ・イイ、サミュエル・カマカウなどは、こぞって新聞に投稿し、これまで口承で伝えられてきたものをハワイ語で書き残しました。(当時は新聞が、彼らの著作の発表の場であったのでしょう)。その内容は、王家の伝統文化、歴史を始め、世界のニュース、社説、宗教、物語、読者投稿など広範囲にわたり、多くの人が読んだようです。1834年から1948年までの114年間に100紙以上の週刊、日刊紙が発行されたといいます。新聞が当時のハワイの社会で、いかに大きな存在だったかが分かります。これらの投稿記事から、歴史、神話、物語などを抽出し、のちに英語に翻訳したものを、現在私たちは読んでいるのです。
 

最後に少し横道に外れます。
「ハワイ語とタヒチ語が似ている」ことに関して思っていることがあります。この二つの言語は、広い意味ではオーストロネシア語族に属します。西はマダガスカル島に始まりインドネシア、マレーシア、フィリピン、北は台湾、南はニュージーランド、そして太平洋のタヒチ、ハワイなど、東はイースター島、という広大な地域で使われていた言語です。私は以前、ハワイで3年間暮らし、その数年後シンガポール(公用語は英語、中国語、マレー語、タミール語)ジャカルタ(公用語はインドネシア語。インドネシア語はマレー語とほぼ同じ)に合計6年暮らしました。
 

ジャカルタで「火」のことを「api」と言います。あれ、どこかで聞いたことがある。そう、ハワイでは確か「火」のことを「ahi」と言っていた。「先生」はジャカルタでは「guru」、そういえばハワイでは「kumu」と言っていた。これらの言葉の類似性は私にとっては大きな驚きで、心の中に長く長くモヤモヤとくすぶっていました。その時はまだオーストロネシア語族などということは全く知りませんでした。
 

後日『カラカウア王のニッポン仰天旅行記(荒俣宏翻訳)』を読んで、はたと納得がいったのです。かつてハワイ王国7代目カラカウア王が世界一周の旅に出たときのことです。王はシンガポールの近くのジョホールという小さな国のパーティーに招待されました。彼らの言葉の中でハワイの言語によく似た単語が多くあることに王は驚き、「これは長いこと離れ離れになっていた兄弟の再会である」と言い合ったとあります。ジョホールで使われていたマレー語は、遠く離れたハワイの言語とよく似ていたのです。
 
カラカウア王

カラカウア王が感じた驚きと同じものを私も感じたと思うと、カラカウア王がぐっと身近に感じられました。
 

それからハワイ語とマレー語を調べてみると、数多く類似した言葉がありました。
 

無題
 
オーストロネシア語族が、それを使っていた人々と共にはるばる海を越えてハワイやタヒチにたどり着いた、と考えると、なんと雄大で夢のある話でしょうか。このことを知り、長年私のモヤモヤしていた気持ちは、ようやく吹っ切れました。(この人々の動きは、言語に限らず多くの文化を運んできました。それについてはまたいつの日か)。
 

次回は、当時歴史家、知識人として活躍したデビッド・マロ、ジョン・パパ・イイ、サミュエル・カマカウの3人が、西洋文明の大きな波が押し寄せてきた中で、どのような人生を送ったかについて、触れたいと思います。
 

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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。
 
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