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やさしいHawai‘i 第81回 フメフメの28年の人生

【最近の私】数年ぶりにハワイへ行くことになりました。今回は長男一家と一緒なので、これまでとは違った楽しみが期待できそう。ハワイ生まれの長男にとっては、生まれ故郷を訪れることになり、お世話になったハワイのおじいちゃん、おばあちゃんのお墓参りが第一の目的です。

登場する人物名

カウムアリイ     カウアイ島最後の王

フメフメ       平民の女性との間に生まれた、カウムアリイの長男の幼名

ジョージ       アメリカへ発つときに、父カウムアリイがフメフメに付けた名前

カアフマヌ      カメハメハ大王のお気に入りの妻 

カメハメハの死後、カウアイ島の王カウムアリイを誘拐して強制的に夫にした。

デボラ・カプール    カウムアリイの妻で、カウアイ島最後の王妃と言われている。           カウムアリイののち、合計5人の夫を持つ。

ローワン       フメフメをアメリカへ連れて行った船長

コッティング     ローワンが2年後にジョージを預けた人物***********************************************************************

当時のハワイに関しては事実確認が困難な点が多く、長男のフメフメに関しても明確な情報をつかむのが難しいところです。それを踏まえたうえで、資料を集めてフメフメの姿をとらえていきたいと思います。

前回(第80回)、カウアイ島の王カウムアリイには多くの妻がいた、と書きました。調べによると、少なくとも5人いて、彼が20歳の時(1798年)平民の女性との間に生まれたのが、長男のフメフメです。

1804年、このフメフメが6歳(4歳、7歳、12歳など様々な情報があります)の時、父カウムアリイは彼を、以前からカウアイ島に出入りしていたアメリカの貿易船船長ローワン(Rowan)に託しました。理由の第一はフメフメにアメリカで英語を学ばせるためですが、当時カウムアリイの妻であったカウアイ最後の王妃と言われるデボラ・カプールは、後の王位継承の不安材料になると、フメフメをカウアイ島から出すようカウムアリイに働きかけたようです。カプールは美しく頭が良いと評判の女性でした。夫カウムアリイをカアフマヌに奪われたのち、カウムアリイの他の女性との間に生まれた息子と結婚。するとその夫もカアフマヌに連れ去られたため、最後はカウムアリイのハーフブラザーと結婚しました。そんな人生を知ると、王位継承にはフメフメが邪魔だと思ったのもうなづける気がします。

カウムアリイは、島に出入りしていたロシアやイギリス、アメリカの船長たちと、持ち前の性格で気軽に交流しており、ローワンをすっかり信用してしまいました。そしてローワン船長に、息子の扶養や教育費として、当時の金額にして7~8千ドルを渡したといわれています。

ここから、わずか6歳のフメフメの長い未知の旅が始まります。親から離れ、どこへ向かうかも分からず、異国の言葉を話す白人たちの中で全くの異邦人であったフメフメにとって、この旅はどれほど不安で心細いものだったことでしょう。

カウムアリイは、アメリカへ発つ息子のフメフメにジョージという呼び名を付けました。これは憧れの英国王室の名前がジョージであったこと、そして親しくしていたイギリス海軍士官の名前がジョージ・バンクーバーであったのが理由のようです。

さて、ジョージと名を変えたフメフメは、最初の2年間ローワン船長に連れられてアメリカのマサチューセッツで暮らします。ローワンはカウムアリイから多大な金額を受け取ったにも関わらずそれをすべて使い尽くし、手に余ったジョージを学校の教務の仕事をしていた(school keeperとあります。教務のような仕事だと思いますが、教師とある資料もあります)コッティング(Cotting)に預けます。間もなく彼は教務の仕事を辞めて他の町に移り、彼に付いていったジョージは大工見習や農家の手伝いなどの力仕事をさせられました。カウアイ島の王の息子として6歳まで過ごしたジョージにとって、これらの力仕事は大変つらい生活だったに違いありません。

コッティングと共に6年近くを過ごしたジョージは、何とか故郷のハワイへ帰る道を探ろうと、ついに彼の元を離れます。その後1815年、アメリカ海軍に籍を置き、地中海などへも航海し、戦争にも加わって大けがをする経験もしました。ジョージはこの間、自分を『Prince George』と名乗っており、自分がカウアイ島の王の息子であることを、一瞬たりとも忘れたことはなかったようです。いつか故郷に戻れば、父の跡を継ぎ、いずれ自分は王となることに、何の疑問も感じていませんでした。

そして1816年春にアメリカに戻り、American Board of Commissioners for Foreign Missions (ABCFMアメリカ海外伝道評議会)の庇護を受けるようになります。ジョージは18歳になっていました。当時アメリカではニューイングランドを中心に、ハワイやタヒチなどから若者を集め、アメリカ本土でキリスト教を学ばせたのち、再び故郷の国に送り返して布教活動をさせるという、海外伝道への機運が高まっていました。

ここでジョージは、ハワイからやって来た数人のハワイ青年たちに巡り合います。長い間ハワイを離れていたジョージは、カウアイ島の王である父親の名以外のハワイ語をほとんど忘れていたのですが、この青年たちからハワイ語を学び、再び故郷へ戻って王位を継ぐという夢を膨らませていきました。

その夢がついに叶う日がやって来ます。ハワイへ向けた初のキリスト教宣教師団は1819年ボストンを出発し、南アフリカのケープホーン岬をめぐり、半年をかけた大変な旅の末、ようやく翌年ハワイに到着しました。そしてその宣教師と共に送られてきた4人のハワイの青年たちの中に、ジョージがいたのです。3人の青年はハワイでのキリスト教布教のために、すでに洗礼を受けていましたが、ジョージはキリスト教徒になることに依然躊躇していました。

Brook Kapūkuniahi Parker’s 2017 painting of the “Father and Son Reunion” 

「父と息子の再会」 2017年Brook Kapukuniahi Parker の作品

〔ジョージが父親カウムアリイと再会した時の様子を表わした絵。中央で手を取り合っている右側が父カウムアリイ、左がジョージ〕

父のカウムアリイは、息子ジョージがアメリカで死亡したという情報を受けていました。彼の生存を諦めていたカウムアリイは、16年ぶりに思いがけず息子に巡り合うことができ、心から喜んだのは、言うまでもありません。

ジョージはハワイへ戻ると、自分の名前を再びフメフメに変えました。彼は6歳まで過ごしたかつてのカウアイ王国に憧れ、幼少時のハワイでの生活の復活を夢見て、当時の幼名を使うことにしたのです。16年もの間の大変辛いアメリカでの生活ののち、夢に描いたカウアイ島の王である父親カウムアリイとの再会を果たしたジョージでしたが、喜びもつかの間、彼の本当の悲劇はここから始まるのです。

ハワイ王国は、1819年カメハメハ大王が亡くなります。その後彼のお気に入りの妻カアフマヌが、事実上カメハメハ大王没後の実権を握ります。彼女はこれまでの社会や宗教の基盤となっていたカプ制度を廃止し、ヘイアウ(神殿)を取り壊したため、人々は頼るものを失っていました。

1820年宣教師団がハワイへやって来たのは、ちょうど人々の心が真空状態になっていた時でした。キリスト教の影響を受けたカアフマヌ(第76回)やケオプオラニ(第77回)など多くのハワイの王族は、古代ハワイの伝統的宗教に代わる、新しい神に出会います。ジョージの父カウムアリイもその一人でした。こうしてハワイの社会は、たちまちキリスト教によって大きく変革してしまったのです。

ジョージ改めフメフメは、そんなハワイ社会が変わっていくのを目前にして、大きな戸惑いを感じます。帰国後間もなく、洗礼を受けクリスチャンになりはしたものの、フメフメは、急激に広まった厳しいキリスト教の規律に我慢ができず、堕落した白人たちと一緒に酒を飲み、ギャンブルにふけりました。

1821年には頼りにしていた父カウムアリイがカアフマヌに誘拐されてオアフ島に移り住み、フメフメはカウアイの王となる夢を完全に失います。しかし父カウムアリイもまた、期待をかけていた長男フメフメの生活が堕落していくのを知り、絶望を感じたのです。そして1924年死を迎える時には母国カウアイ島への執着を失い、カウアイ島の所有権をすべてカメハメハ2世に譲り、フメフメには何も残しませんでした。カウムアリイが自分の墓を、カウアイ島ではなく、マウイ島のケオプオラニのそばに置いてほしい、と遺言を残した(第80回)理由の一つが、ここにあったのだと、私は思います。

フメフメは、父親のカウムアリイがカウアイ島の権利をすべてカメハメハ2世に譲ったことに対し、当然不満を持ちました。そして同じように不満を感じた首長たちと共に、カメハメハ王家に対し謀反を起したのです。しかしフメフメ達に勝ち目はなく簡単に敗北し、反乱軍の一部は殺され、一部は山間部へ逃げ込みました。2週間ほど後、追手によって山の中で発見されたフメフメは、ほとんど何も身に着けていず、手にはラム酒が入った竹筒を持ち、心身ともに疲弊していたそうです。ホノルルに連行されたフメフメはおよそ2年後インフルエンザに罹り、最期は悪魔に襲われる恐ろしい悪夢の中で苦しんで亡くなったということです。

フメフメの人生はわずか28年で終わりを迎えました。6歳までは王位を継ぐという、輝かしい未来が待っていました。その後未知の世界アメリカに送られ、16年の厳しい生活の末、やっと母国に帰って来た時には、憧れていた幼少時のハワイはすでに消失していました。彼はキリスト教によって大きく変わってしまった社会に適応できず、自ら死に向かっていったように思います。悲しい人生、と言ってしまえばそれまでですが、歴史の大きなうねりの陰には、こうして消えていった人生が数多く存在するのだろうと思います。

参考資料

●『A narrative of five youth from the Sandwich islands, viz. Obookiah, Hopoo, Tennooe, Hahooree, and Prince Tamoree, Now Receiving an Education in This Country』

https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=njp.32101078190426&seq=7&format=plaintext

●『Shoal of Time』 by Gavan Daws  University of Hawaii Press

●『ハワイ人とキリスト教』 井上昭洋著 春風社

●『George Prince Tamoree: Heir Apparent of Kauai and Niihau』 by Anne Harding Spoehr   Publisher:Hawaiian Historical Society

● 『George Prince Kaumuali’I, the Forgotten Prince』 by Douglas Warne

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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。
 
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やさしいHawaii 第80回 カウアイ島最後の王の墓の謎

【最近の私】昨年の10月から、週1で水泳教室に通い始めました。初級クラスです。バタ足から始めて、もうクロ―ルはOK。今バタフライに挑戦中ですが大苦戦中。でも、何かを学ぶことの楽しさを満喫しています。

登場する人物名

カアフマヌ  カメハメハ大王のお気に入りの妻

ケエアウモク カアフマヌの弟

ケオプオラニ カメハメハ大王の聖なる妻 

カウムアリイ カウアイ島の最後の王

フメフメ   カウムアリイの長男 後にジョージ・カウムアリイ名付けられる

リホリホ   カメハメハ2世

デボラ・カプール カウムアリイの妻の一人

ジョージ・バンクーバー イギリスの海軍士官

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今回も、歴史上の確実な情報を集めつつ、想像をたくましくして、自由に人物像を描いていきたいと思います。

前回(第79回参照)、マウイ島ラハイナにあるカメハメハの聖なる妻ケオプオラニの墓と、カウアイ島の最後の王カウムアリイの墓について述べました。カメハメハと何度か敵対したカウアイ島の王の墓が、なぜ自国の島カウアイ島ではなくマウイ島にあるのか、またカメハメハの聖なる妻の墓の隣にあるのか、その謎を解き明かすことが、今回のテーマです。

それにはまず、カウアイ島の最後の王カウムアリイがどのような人物であったかを知る必要があります。

彼は高位の首長の両親のもと、1778年または1780年(諸説あり)カウアイ島のワイアルアに生まれました。

カウアイ島はハワイ諸島の最北に位置し、当時はロシアを始め多くの外国船が立ち寄りました。イギリスの海軍士官で、北米、ハワイなどへ遠征に来ていたジョージ・バンクーバーは、カウムアリイが12歳前後の時に会っていますが、その時の印象を、『愛そうが良く陽気で、素早い理解力を持っている。素朴で人懐っこいが生来の礼儀正しさを持ち、洗練された雰囲気がある』。そして『顔立ちが西欧人と似ていて、他のハワイ人と比べると肌の色も明るく、整った顔立ち』と述べています。

The Kauai Museum worked with graphic artist, Joe Aragon, and painter,
Evelyn Ritter, to produce a portrait of King Kaumualii.
Photo: Mallory Roe

(カウアイミュージアム所蔵のカウムアリイの肖像画、グラフィックアーティストのJoe Aragonと画家Everyn Ritterの作。Mallory Roe 撮影)

カウムアリイはバンクーバーから英語を話すことを学びました。とても好奇心が旺盛で、学んだ英語で他のイギリス人やアメリカ人の船員たちと交流し、未知の世界への興味をふくらませたのです。

これは全くの私の身勝手な解釈ですが(どの資料にも全く書かれていないことです)地理的に、白人との交わりが多くあったカウアイ島です。当時の社会状況下で、カウムアリイの家系のどこかで、白人の血が混じった可能性があるのではないかと思うのです。(当時のハワイの環境から言えば、ありうる考え方だと思います。島にやって来た船員たちは、土地の女性と交流したいと思う者が大勢いましたし、白人とのかかわりを願った土地の女性も多くいたと思われます)。彼が他のハワイ人と顕著に違う外見であったということは大きな意味を持ち、後の彼の人生を変えた理由の一つになったのではないでしょうか。

カメハメハは他のハワイ諸島を支配下に置きながら、カウアイ島には手こずっていました。1796年、島への侵略を試みますが、大嵐に遭い船が転覆し、失敗に終わります。その数年後1804年(1803年という説もあります)再びカウアイ島への攻撃を仕掛けますが、今度は流行していた病(おそらくコレラか腸チフスであろうと言われています)に多くの兵士たちが倒れ、またもや不成功に終わり、なかなかカメハメハの完全な支配下となりませんでした。

しかしカメハメハが1819年に亡くなり、その後を継いだカメハメハ2世リホリホは、カアフマヌの指示でカウムアリイを誘拐しホノルルへ連れてきます。権力に貪欲であったカアフマヌは、カウムアリイを自分の夫にして、カウアイ島への支配を確実なものにしようとしたのです。

現代では考えられないことですが、権力保持のためには古い日本の社会でも同じようなことが行われたと思います。ただ、女性自身が自ら行動をしたというところが、カアフマヌ恐るべき、と言うところでしょうか。

ここでカウムアリイの家系について少し説明が必要だと思います。

彼には多くの妻がいましたが、最初の妻との間に男子をもうけ、フメフメと名付けました。ところが次の妻デボラ・カプールは、この男子の存在はのちのカウアイ島王位継承に邪魔になると考え、フメフメが6歳になった時、夫カウムアリイに息子を島から出すように要求したのです。カウムアリイ自身も少々英語を話し、アメリカでの英語教育の必要性は感じていたに違いありません。妻にせかされたこともあって、当時カウアイ島に出入りしていた貿易船の船長に息子を預け、かなりの高額になる白檀を渡してアメリカでの教育費用に充てるように託しました。しかし何と言ってもまだ6歳の息子を、見も知らぬ、言葉も分からぬ外国へ、他人の手にゆだねて送り出す…私には想像もできません。

その後のフメフメは、思いもよらない人生を送ることになるのですが、それについては次回に書きたいと思います。

このカプールという女性は資料によると、両親が高位の首長で身長180センチ余り、体重120キロと大変大柄な体格で、美人で頭の良い女性だったようです。カプールは、夫カウムアリイをカアフマヌに奪われたあと、夫の他の妻との間に生まれた息子と結婚します。これを知って私は、彼女の権力欲、カウアイ島の王妃の座は他の誰にも渡さない、という強い意思表示を感じました。何となくカアフマヌを思い起こさせます。

ところがカアフマヌはさらにカウアイ島への支配を確実にするため、カプールの2番目の夫である、このカウムアリイの息子も、自分の夫とすべく奪っていくのです。

そして1822年、カアフマヌはカウムアリイを新しい夫にしたことを示すため、全島に視察旅行をします。ハンサムな夫を多くの首長たちにshow off(見せびらかす)したと記されていました。もちろんカプールのいるカウアイ島も訪れました。そこでカアフマヌはカプールに対し、カウムアリイを夫にしたことを自慢したかったのだ、という新聞記事を見つけました。

それだけではなく、弟のケエアウモクにカウアイ島に留まるように命じ、その後のカプールの動向を監視するよう指示したのです。 

こうして、カウムアリイの人生は、周囲の女性たちによって大きく翻弄されます。その理由は、彼自身の性格が優しくはあったが確固たる強い信念がなかったこと、それに加え先述したように、彼が際立って白人に近い外見を持ち、ハンサムであったからなのではないかと、私は思うのです。強く賢く美しい、権力欲のある女性たちにとって、カウムアリイは手に入れたい魅力を持った男性だったのでしょう。

カアフマヌに略奪されたカウムアリイですが、カアフマヌの愛を受け入れることはなかったそうです。しかし近くには、カアフマヌの全ての点で対照的な、カメハメハの聖なる妻ケオプオラニの存在がありました。物静かで心優しいケオプオラニと、生来の礼儀正しさと優しさを持ち、洗練された雰囲気のカウムアリイが心を通させたことを想像するのは、そんなに困難ではありません。ケオプオラニは1823年没、カウムアリイは翌年1824年に亡くなっています。お互いの運命の悲しさを語り合ったこともあったのではないでしょうか。(ケオプオラニの人生については第78回参照

『Honolulu Star-Bulletin 1950 年1月20日 金曜日の新聞記事 ハワイの歴史に関する小話をシリーズで載せている

カウムアリイは「自分の亡骸はカウアイ島に戻さず、マウイのケオプオラニの墓の隣に埋葬してほしい」と遺言を残したそうです。

私の今回のテーマ、「なぜカウムアリイの墓がケオプオラニの隣にあるのか」。この遺言で謎は解明されたかのように思われますが、カウアイ島の王という立場の人物が、最後は自分の島に戻ることなく、単に思いを寄せた女性のそばで休みたいと、果たして思ったのでしょうか。

右がケオプオラニと娘のナヒエナエナの墓。左がカウアイ島最後の王カウムアリイの墓〕(写真はハワイ州観光局アロハプログラムから)

私はここにはもう一つ、カウムアリイがカウアイ島への思いを断ち切る大きな理由があったと思うのです。それについては次回述べたいと思います。

参考資料

By Ralph S.Kuykendall and A.Grove Day

George Prince Tamoree: Heir Apparent of Kauai and Niihau

The Twenty-Fourth Annual Report of the Hawaiian Historical Society

『Kaumualii, The Last King of Kauai』 by John Lydgate

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やさしいHawai‘i  第79回 「ハワイの歴史に埋もれたナヒエナエナ」

出典Google Map

2023年5月28日、マウイ島で最古のワイオラ教会は、創立200年を祝い賑やかに祝賀行事が行われていました。ここには王族の霊廟が祀られています。祀られているのはカメハメハ大王の聖なる妻ケオプオラニ(第78回出)、娘のナヒエナエナや身近な親族など5人、強い影響力を持っていた宣教師のリチャーズなどです。(カメハメハ大王以下主要な王族の墓はオアフ島ヌウアヌの高台にあるロイヤル・モザリアムに祀られています)。

〔右がケオプオラニと娘のナヒエナエナの墓で、左がカウムアリイの墓〕
(写真はハワイ州観光局アロハプログラムから)

ここにはさらにもう一人、カウアイ島の最後の首長カウムアリイが祀られています。(カメハメハ大王と血縁関係のない人物が、なぜここに祀られているのでしょうか? 血縁関係がないどころか、一時期はカウアイ島をめぐりカメハメハ大王と敵対していた人物です。この不思議をどこまで解明できるか、次回はこのカウムアリイについて述べたいと思います)

〔マウイ島ラハイナにあるワイオラ教会〕
(出典:ハワイ州観光局アロハプログラムより)

そんな祝賀ムードからわずか2カ月余り、2023年8月8日、突然の悲劇が訪れました。山火事によって歴史ある教会が炎に包まれている様子。[写真 AP=聯合ニュース]この日、マウイ島ラハイナの山側からは、強い北東の風が吹いていました。火災の原因はまだ特定されていませんが、可能性としては、老朽化した送電線が、この強い北東の風により損傷し、極度に乾燥していた草木に発火したとみられています。炎は強風にあおられ、時速100キロ近い速度で海の方向に向かいました。ラハイナの町は、あっという間に猛火の中に包まれてしまったのです。この火災による死者数は、行方不明者も含むと100人を超えました。

火災で見る影もなく燃え尽くしたラハイナの町
出典:日本経済新聞
〔20年ほど前に宿泊したマウイ島ラハイナ・イン〕
(写真は扇原所有)

大好きだったラハイナの町。19世紀にはハワイ王国の首都となり、王族がこよなく愛した町ラハイナ。カメハメハ大王の聖なる妻ケオプオラニが最後の地として選んだラハイナ。そしてこの町を舞台に、今回取り上げるケオプオラニの第二子カウイケアウオリ(のちのカメハメハ3世)と、娘のナヒエナエナの物語が展開するのです。

前回(第78回)で述べたように、カメハメハ大王の聖なる妻ケオプオラニには、3人の子供がいました。第一子はリホリホ(のちのカメハメハ2世)、第二子がカウイケアウオリ(のちのカメハメハ3世)。そして最後の子供、一人娘のナヒエナエナ。かつてのハワイでは子供を養子に出すことは通例でした。そこには王族の子供を養子にすれば、いずれ王位に就く人物の後見人として、権力の一端を握れるという計算もあったことでしょう。しかしケオプオラニは、ナヒエナエナだけは手元に置き、深い愛情をもって育てました。それまで何人もの子供を亡くしていたことを思うと、他人に預けるとナヒエナエナが無事に育つかどうか分からないという不安がケオプオラニにはあったに違いないと思うのです。

その後、体調の悪化と共にケオプオラニは、二番目の夫ホアピリや信頼していた数人の宣教師を伴って、生活の基盤をマウイ島に移します。もちろん娘のナヒエナエナも一緒でした。そして死の間際にハリエットという洗礼名を受けクリスチャンとなったケオプオラニは、1823年9月亡くなります。

同年11月カメハメハ2世は、イギリスの後ろ盾を求めてロンドンへ向け出港します。ところが西欧の病に対し免疫がなかったカメハメハ2世は、はしかに罹病し、翌年命を落とします。

長兄カメハメハ2世の亡き後、カウイケアウオリはわずか10歳でカメハメハ3世となりました。カメハメハ3世と1歳違いの妹ナヒエナエナは、9歳にしてはずいぶんと大人びていて、首長たちは彼女と兄カメハメハ3世との結婚を強く望みました。

兄と妹の結婚は、古代ハワイでは高貴な血筋を純粋に保つために、伝統的に認められていたことでした。多くの首長たちは、ナヒエナエナとカメハメハ3世が結ばれることを二人が幼少のころから願っていました。1824年9月には高位の首長たちが集まり、いよいよこの結婚を勧めようとしましたが、宣教師たちは、たとえそれがハワイの伝統で認められていようと、決して許されることではないと強く反対します。

ナヒエナエナは、幼少のころからフラやメレなどのハワイの伝統に囲まれて生活していました。一方で母親のケオプオラニは、キリスト教を信仰することがどれほど奥深いものであるのか、古来のハワイ信仰の、一体なにが間違っていたのかを十分理解しないまま、ひたすらキリスト教に傾倒していったのです。そんな、キリスト教を強く信仰するようになった母と、常に身近にいたリチャーズなどの宣教師の厳しい指導の下で、ナヒエナエナの心は大きく揺れ動きます。

この時期のナヒエナエナの苦しみは、想像に難くありません。幼いころから慣れ親しんだハワイの文化。それは自由で楽しく陽気で、彼女にとって日々の喜びであったのです。加えて、周囲には兄との結婚を勧めようとする多くの首長たちの存在がありました。母親の死に続く長兄の死で、兄と妹の絆はますます強くなり、互いになくてはならない存在となっていきました。

兄は妹への思いと、幼くして背負ったカメハメハ3世という重さに耐えかね、酒浸りになり乱れた生活を始めました。ナヒエナエナは母の教えに従い、そんな兄を何とか立ち直らせようとしますが、一方では兄への強い思いを断ち切ることができません。同時にそれがキリスト教の教えに反することを本人が十分わかっているだけに、その苦しみは計り知れないものでした。

リチャーズなどの宣教師の必死の説得にもかかわらず、ナヒエナエナ自身が飲酒で酩酊状態になったり、教会の集まりで大声を上げたりすることがたびたび目撃され、ついに1835年5月、ナヒエナエナはキリスト教会から破門されます。それまで親代わりになっていた宣教師のリチャーズも彼女を避けはじめ、孤独の中で心の支えとなる人々を失い、彼女は精神的に混乱と破滅の道をたどるようになるのです。

そんなナヒエナエナをみて、義父のホアピリはリチャーズと話し合い、ハワイ国首相カラニモクの息子、レレイオホク(当時14歳で、ナヒエナエナより6歳年下)と結婚をさせます。

兄カメハメハ3世はこの結婚に強く反対しました。ナヒエナエナは1836年9月出産しましたが、その数時間後子供は死亡。これは夫であるレレイオホクではなく、兄カメハメハ3世との子供であると言われています。精神的に混乱をきたしていたナヒエナエナは、その3カ月後の12月、わずか21年の短い生涯を終えました。カメハメハ3世は彼女の死をひどく悼み、命日をハワイ王国の休日として、その後8年間を彼女の霊廟の近くで過ごしたそうです。

この兄妹の話は、ハワイの歴史にはあまり表には出てきません。マウイ島ワイオラ教会の人々の間では『聖なる娘ナヒエナエナ』として、語られることはあっても、歴史の中に埋もれた存在です。

ナヒエナエナに関するものは、私の知っている限りではただ1冊、Marjorie Sinclairが書いた『Nahienaena Sacred daughter of Hawaii』という本が存在します。その序文には下記のようなことが記されていました。

『A major problem in writing about the Princess Nanienaena has been that her history was largely recorded by those not of her race and culture. The data, consequently, present a limited and often biased view.』

『ナヒエナエナについて書く際の大きな問題は、彼女の歴史が、彼女の人種や文化に属さない人々によって記録されてきたことである。その結果、データは限定的で、しばしば偏った見解を示すことになる』(DeepL翻訳による)

これは、歴史や伝記を読むときの大前提として、大変重要なことだと思います。特に今回のナヒエナエナという人物は、古代ハワイの文化からみた姿と、キリスト教の価値観による西欧文化から見た姿は、大きく違うからです。何が正しいか、間違っているかではなく、歴史の内側と外側の両面から見る必要がある。その時代の文化の中で、その人物がどのように人生を生きぬいたのか、それを感じていただきたいと思います。

扇原所有の本

この兄と妹は、現代の倫理観念から言えば、もちろん肯定することはできないことです。ナヒエナエナが10代20代を過ごした1830年代は、依然として力を持っていた古代ハワイの文化を担う首長たちが存在し、それに相対するキリスト教を代表とする西欧文化とのせめぎあいの時代でした。それはナヒエナエナとカメハメハ3世だけの苦しみではなく、この時代に生きた王族たちは多かれ少なかれ、みな押し寄せる西欧文化の波の前に、なすすべがなかったのです。抗しがたい大きな新しい文明の波にのまれていった人々の悲劇が、そこにあったのだと思うのです。

【参照文献】

※『Nahienaena Sacred Daughter of Hawaii』  Marjorie Sinclair著

※ハワイ州観光局アロハプログラム  ※https://english.hawaii.edu/marjorie-putnam-sinclair-edel-reading-series/ ※https://www.britannica.com/biography/Nahienaena ※https://evols.library.manoa.hawaii.edu/bitstreams/424997b1-0d04-467d-b109-3c326bff06e5/download ※https://imagesofoldhawaii.com/nahienaena/ ※https://imagesofoldhawaii.com/nahienaena/

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やさしいHAWAI’I 第78回 聖なる妻ケオプオラニ(2)

【最近の私】久しぶりにコロナから少し解放された夏休み。次男一家の双子の孫が愛知からやって来て、長男一家と全員集合。近くの回転すしで大いに盛り上がりました。
 

前回はケオプオラニの、公になっている一般的な情報を紹介しました。しかし、私は何となく不満でした。どの資料を読んでも、ほぼ同じ表面的な内容だったのです。これではまるで、あの血の通っていない肖像画のようなものです。どこかにもう少し“人間ケオプオラニ”について書かれているものがないか、さらに調べを進めていったところ、ある文献に遭遇しました。
 

ハワイ州には、ハワイ、ポリネシア文化に関する州最大のビショップ博物館があります。そのアーカイブにデビッド・マロの自筆のエッセイが、長い間誰の目にもさらされず保管されており、それをハワイ大学の言語学、および人類学の研究者であるCharles Langlas と Jeffrey Lyon が、発見。マロの手書きのハワイ語を英語に翻訳し、さらに歴史学者のサミュエル・カマカウ、ジョン・パパ・イイ、エスター・モオキ二、文化人類学者のリネキン、そして宣教師の一人リチャーズなどの見解と比較検討し、『David Malo’s Unpublished Account of Keopuolani』というタイトルで、The Hawaiian Journal of History vol. 42 (2008)に掲載していたのです。
 

以前にも書きましたが、デビッド・マロは、サミュエル・カマカウやジョン・パパ・イイなどと共に、古代ハワイの歴史に関する著名な学者で、初代ハワイ歴史協会の会員でもありました。彼のエッセイが誰の目にもとまらずビショップ博物館のアーカイブに長い間保存されていたこと自体、大変不思議なのですが、私はその内容(英訳された文献)を読んで、衝撃を受けました。実はこれはビショップ博物館が、あえて公にはしたくなかったのではないかとさえ感じたくらいです。
 

古代ハワイの文化歴史は、現代の我々の感覚では遠く理解できない部分があり、価値観も全く違います。マロは、ケオプオラニの生活のすぐそばにいたし、彼女の教師でもありました。また娘のナヒエナエナに英語を教えていましたから、ケオプオラニの人生を熟知していたことは事実でしょう。そしてマロはそれをエッセイとして綴っていたのも事実でしょう。しかし1842年に彼が書いたこの文献がハワイ歴史学会で公になることを、マロ自身は望んでいなかったのではないかと思うのです。
この協会宛てに、彼は手書きでこう書いています。(原文はハワイ語)。
 

Attention you people of the association. I’m feeling too ill to attend the conference at which this account of Keopuolani would probably have been presented.
(協会のメンバーへ。私は大変気分がすぐれないので、ケオプオラニに関するこのエッセイが提出されたであろう会議には、出席いたしません 扇原訳)。
 
では一体どんなことが書かれていたのか。
 
エッセイには、ケオプオラニとカメハメハとの生活に関しての詳細な情報や、身近な人間でないと知り得ない、プライベートなことが書かれていました。中でも私が最も辛いと感じたのは、マロが、ケオプオラニは合計14人から17人の子供を産んだ可能性があると語っていたことです。これはいったいどういうことなのか。
 

カメハメハは知られているだけで20人前後の妻と呼べる女性がいました。これは特別なことではなく、歴史に登場する国のトップは一般的に、周囲に多くの女性を抱えていました。主な理由は確実に世継ぎを得るためです。ですから、カメハメハに多くの子供がいるであろうことは想像がつきます。ただカメハメハの場合は、たった一つ自分に欠けていた高貴なランクの血筋を強く求めており、ひたすらケオプオラニという、神に近いランクの女性に子供を産ませたかったわけです。
 

しかし当時は生まれてきた子供が無事大人に成長できる確率は大変低かったのです。新生児を健康に育てる衛生上の知識の欠如、西洋人が運び入れた様々な感染症、そして近親相関を続けてきたことによって、なかなか健全な子供が生まれてこなかった、などの理由が考えられます。世継ぎが生まれても、もしものためにさらにもう一人・・・そんな風に次々に身ごもっても、おそらくほとんどの子供が死産や未熟児となって成長半ばで命を落としたのでしょう。(カメハメハ三世も大変体が弱く、ようやく育ったと言われています)。それにしても人生でこんなに多くの子供を身ごもったということだけでも、彼女がハワイ王国でどのような存在であったかは、容易に推測できます。
 

今回このマロのエッセイを読んで、私はハワイ王国の華やかなカメハメハ大王の陰で、聖なる妻と呼ばれたケオプオラニの実際の人生を知りました。彼女は人間として、女性として、幸せを感じたことがあったのでしょうか。そんなことが、脳裏から離れませんでした。一般的な情報として、ケオプオラニは病弱であった、とあります。それは当然のことだったでしょう。
 

ただ一つ、彼女には真の夫と呼べる男性が存在したことは救いでした。彼の名はカラニモクといい、大変有能な人物で、カメハメハ一世、二世そして三世の前半の期間、ハワイ国の首相のような立場でした。言語も達者でビジネスにも長けており、ハワイにいた西洋人に高い評価を受けていた人物です。当時ハワイでは、高位の首長は世継ぎを産んだ妻に、自分に忠実な部下を第二の夫として与えることが一般的でした。そうすれば、反乱を起こされる可能性が低くなるからです。(ただ、なぜかカメハメハはカアフマヌが第二の夫を持つことは決して許さなかったそうです)。ケオプオラニにはカラニモクと同時に、ホアピリという夫もいましたが、宣教師から、夫は一人でなくてはならないと諭され、ホアピリを最後の夫と決めて、死ぬまでともに過ごしました。(なぜカラニモクではなくホアピリを選んだかの理由は、どこにも記されていませんでした。ただカラニモクは大変もてる男性で、妻も大勢いたという記述がありました)。
 

ケオプオラニは後に体調を崩し、何度か死線をさまよい、ついに45歳でこの世を去りますが、皮肉なことに死ぬ間際に、ようやく生きることへの光をキリストに見出すのです。そして神の御名の下ハリエットという洗礼名を授かり、自分の真実の愛をキリストに奉げると誓いました。さらに、娘のナヒエナエナに自分が今まで従ってきたハワイの宗教は間違っていた、これからはキリスト教の教えに従って生きるようにと、強く言い残しました。ただこのことが、ナヒエナエナに再び悲劇をもたらすのです。
次回はそのことについて語りたいと思います。
 

かぐわしい香りのホワイト・ジンジャーの花 私のケオプオラニのイメージの花です 
出典:近藤純夫『ハワイアン・ガーデン』楽園ハワイの植物図鑑 

 
【参考文献】

・アロハプログラム
https://www.aloha-program.com/

・https://www.ubcpress.ca/charles-langlas
・https://hawaiibookandmusicfestival.com/charles-langlas
・https://artmuseum.williams.edu/event/making-material-histories-a-close-look-at-19th-century-hawaiian-language-texts-in-the-williams-archives/
・file:///C:/Users/aogih/Downloads/Davida_Malos_Unpublished_Account_of_Keop.pdf
・https://artmuseum.williams.edu/event/making-material-histories-a-close-look-at-19th-century-hawaiian-language-texts-in-the-williams-archives/

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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
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やさしいHAWAI’I 第77回 聖なる妻ケオプオラニ(1)

【最近の私】9月には2週間ゆっくりとハワイを楽しむ旅をする予定でしたが、突然事情が許さなくなり涙を呑んで諦めることに。でも来年は必ず夢をかなえます。
 
今回はカメハメハにとって、どうしても必要な人物であった「聖なる妻」ケオプオラニについて語りたいと思います。
 

ケオプオラニの肖像画 出典:「アロハプログラム」

上記は、私の知っている限りで唯一の、聖なる妻と呼ばれたケオプオラニの肖像画です。あまりに型にはまった無表情な姿は、前回取り上げた表情豊かなカアフマヌのスケッチ(下2枚)と比較すると、ほとんど人間味が感じられません。
 

なぜでしょうか?

カアフマヌの肖像画 出典:アロハプログラム
カアフマヌの肖像画 出典:「アロハプログラム」

 
1778年、キャプテンクックが初めてハワイを訪れて以降、1820年代にかけて、多くの西洋人がハワイへやって来ました。目的は様々でしたが、その一つに当時ハワイに自生していた白檀(サンダルウッド)があります。西洋人は、中国では高額で売れることに目を付け白檀を乱伐する一方で、ハワイは西洋人との取引からわずかな収益しか得ていませんでした。王国は西欧諸国から、船、武器、酒などを買い付け負債が徐々に膨大となり、それを補うためにさらに白檀の伐採が加速し、ついには枯渇して白檀貿易は終焉を迎えます。
 
これらの貿易商人のほかに、ハワイには捕鯨船員や探検家など多くの西洋人が集まりました。その中には画家もやって来て、興味深いハワイ人の生活や文化を紹介するために、多くのスケッチを描きました。対象となったのは、カメハメハ大王、カアフマヌ、その他の王室のメンバーでしたが、画家たちはなぜかケオプオラニにはあまり関心を抱かなかったと言われます。(それゆえ、彼女の肖像画は私の知る限り、上記に示したわずか一枚です)。いえ、実は関心がなかったのではなく、ケオプオラニの姿を見る機会を与えられなかったのが、その理由だったのです。それはいったいどういうことだったのでしょうか。
 
前回、カメハメハ大王にとって重要な存在であったカアフマヌについて書きました。身の丈1.8メートルで極めて美しく、大きな野心をかかえ、新しいハワイへのゲートを開く役目を果たした、カメハメハが最も気に入っていたカアフマヌ。カメハメハの死後、摂政として力を持ち、古いカプ(タブー)や従来の信仰を捨て、亡くなる間際に自らキリスト教徒となったカアフマヌ。彼女は表舞台で大いにその存在感を示しました。西洋人もこぞって彼女と接触を持ち、この興味深い女性の肖像画も多く描かれました。
 
そんな彼女の陰のような存在でありながら、カメハメハ大王にとってはどうしても必要であった女性、それは「聖なる妻」と呼ばれていたケオプラニという人物です。私はカアフマヌに強い関心を持っていましたが、さらにこのケオプオラニという女性が、一体どのような人物であったのか、カメハメハの下でどんな人生を送ったのか、大変興味を持っていました。彼女に関する情報は、カアフマヌよりさらに限られますが、その中で再び、私なりの彼女の姿を映し出してみたいと思います。
 
まずは何をもって「聖なる妻」と呼ばれたのか。
 
ケオプオラニは、キャプテンクックがハワイを初めて訪れた1778年に生まれました。彼女の先祖をたどると、父はハワイ島の大酋長、母はマウイ島の大酋長の血筋で、ついには神に繋がるほどの高貴な家系でした。古代ハワイでは、高貴な生まれを継続させるために、親族内での結婚が勧められ、とくに兄妹の間の結婚は最もステータスが高い結婚とされていました。ケオプオラニの両親は、それぞれ高貴な血筋である上に、母親が同じ人物で父親が違うという関係(これをNiau-Pio ニアウ・ピオと言います)であったため、その高貴な生まれはさらに神々と同じくらい崇高であると見なされたのです。この最高ランクのステータスは、子孫にまで受け継がれていきます。
 
当時のハワイの社会で最高ランクの立場にいたケオプオラニは、あまりに高貴なためSacred と呼ばれ、多くのカプ(タブー)を持っていました(これが「聖なる妻」と呼ばれた所以です)。彼女の前では誰もが、たとえカメハメハでさえも上半身の衣類を脱ぎ、地面にひれ伏さなくてはならず、直接その姿を目にすることはできません。また、太陽が彼女を照らし、そこに現れた彼女の影を踏んだ者は死刑となり、焼き殺されました。(これをカプ・モエといいます)
 
そんなカプを持っているケオプオラニの人となりは、実は優しく穏やかで、自分ではカプを厳しく守っていましたが、人民がカプを破ることに対してはとても寛大でした。それゆえ自分の影を踏んだものが死刑になることを避けるために、日中人前に出ることはほとんどなく、西洋人は彼女の姿を目にする機会がなかったのだろうと推測できるのです。
 

戦略に長け、大きく勢力を伸ばしていたカメハメハにとって、ハワイ諸島の統一は目前でしたが、ただ一つ欠けていたことがあります。カメハメハの家系のランクはそれほど高くなく、今後ハワイ国王の地位を継続していくためには、より高貴な存在となる後継者をつくることが必要でした。それには高貴な家系の女性を妻とすることが必須であり、それも処女でなくてはなりません。生まれてくる子供は明確に国王の血を引いていることが証明されなくてはならなかったのです。
 

1790年、カメハメハは、ハワイにやって来た西洋人から船、銃、そしてそれを操ることのできる西洋人の船員を手中にし、勢力を増強してマウイ島を攻撃し始めます。マウイの首長カヘキリは破れ、その一族だったケオプオラニ、彼女の祖母、母親の3人はカメハメハにとらえられます。その時ケオプオラニはおよそ12歳でした。カメハメハがハワイ諸島を統一し国王になるために、最も必要としていた高貴な血筋。それはケオプオラニを妻にすることによって得ることができることを、カメハメハは十分知っていたのです。
 
記録を調べると、ケオプオラニには3人の子供がいたと記されています。(第一子は未熟児で生後まもなく死亡し、子供の数には入っていません。また第ニ子が未熟児で死亡したという説もあります)。1797年男児を出産。リホリホと名付けられ、後のカメハメハ二世となります。それから17年の間をおいて、1814年カウイケアウオリ(後のカメハメハ三世)、翌年には娘のナヒエナエナが生まれました。
 
1820年には宣教師が初めてハワイを訪れ、布教のためハワイに滞在する許可を求めてきました。大半の首長たちは反対しますが、ケオプオラニは快く許可し、その後宣教師、そしてキリスト教の影響を強く受けるようになります。
 
1823年に体調を崩したケオプオラニは宣教師を伴ってマウイ島に移り住み、娘のナヒエナエナと過ごします。自分の死を予感したケオプオラニは、カメハメハ二世となっていた息子のリホリホに、父親のカメハメハが大切にしていたハワイの国民と土地をしっかり守り、宣教師たちと友好な関係を続けること、もう一人の息子カウイケアウオリと娘のナヒエナエナにはキリスト教の教えに従い、キリストを神として愛することを強く指示しました。死の間際には自らもキリスト教に改宗し、ハリエット(宣教師の一人、スチュワートの夫人の名前)という洗礼名を授かり、自分が死んだのちは、古代ハワイの葬式ではなく、キリスト教のやり方にのっとって葬儀を行うように言い残します。そしてついに1823年9月45歳で亡くなりました。

 

ケオプオラニに関する資料は、どれを読んでもほとんど上記と同じようなことが記されており、表面的な情報のみで、何か物足りなさを感じました。きれいごとを並べただけで、ケオプオラニの人間として生きた証のようなものが感じられなかったのです。
 
そこで、さらに調べていたところ、驚くような文献が現れたのです。次回はそのことに関して書きたいと思います。
 

【参考文献】

・アロハプログラム
https://www.aloha-program.com/

・Hawaiian Dictionary by Pukui

・『Keopuolani, Sacred Wife, Queen Mother, 1778-1823』 by Esther T. Mookini
・『History of the Sandwich Islands』 by Anderson Rufus
・『The Sacred Wife of Kamehameha I Keopuolani 』
The Hawaiian Journal of History #5
・『The overthrow of the kapu system in Hawaii 』
The journal of the Polynesian Society
・『Memoir of KEOPUOLANI, Late queen of the sandwich islands』
by Richards William

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やさしいHAWAI’I 第76回 『カアフマヌの“たられば”』

【最近の私】ようやく爽やかな日が続くようになった中、10月23日、地元井草八幡宮の流鏑馬が久しぶりに執り行われた。4年に一度の神事だが、前回はコロナ禍で中止。地元の私たちにとっては、待ちに待った行事。目の前を馬が疾走し矢を射る迫力はなかなかのものだった。
 

ハワイ島の西部カイルア・コナからコナ空港の脇を通りカワイハエまでを南北に走るハイウェイは、クイーンカアフマヌ・ハイウェイと名付けられ、毎年アイアンマン世界選手権大会の自転車競技では、主にこの道路が使われます。コロナ禍の影響で、2020年、2021年と中止になっていたハワイで最も過酷なレース、アイアンマンは、3年ぶりに今年(2022年)10月6日~8日に再開されました。

クイーンカアフマヌ

かつてここに膨大な量の溶岩が流れたその中を、ひたすら北に向かって走る1本の道。
途中にワイコロア・ビレッジ、マウナラニ・リゾート、マウナケアビーチ・ホテルなどが点在し、ホテルに近づくと真っ黒に広がる溶岩の中から、突然オアシスのように緑の芝生が広がり、ブーゲンビリアやハイビスカスの鮮やかな花々が現れます。
 

そんなハイウェイに名付けられた、カアフマヌという女性。しかし、知られているのはカメハメハの妃になって以降のことで、彼女の幼少時代に関しては、ほとんど資料がありません。
 

ハイウェイ花
 

バイク
〔周囲が溶岩に囲まれているクイーンカアフマヌ・ハイウェイの中を走るバイク〕
出典:Red Bull アイアンマン世界選手権2019レポート&フォトギャラリーから
https://www.redbull.com/jp-ja/2019-ironman-world-championship-report
 

このコラムの第75回(https://www.jvta.net/co/yasasiihawaii-75/)で、カメハメハ大王がハワイ諸島を統一し、1819年に亡くなった後を引き継いだのが『最もお気に入りの妃、カアフマヌ』と述べました。あの大王と言われたカメハメハに最も愛されたのは、なぜか。18人とも21人とも言われている多くの妻の中で、なぜカメハメハはカアフマヌを特別に愛したのか。一体彼女はどんな人物だったのか。わずかな資料を基に私は独自にカアフマヌ像を作り上げていくことにしました。
 

カアフマヌ
〔カアフマヌの肖像画〕  出典:ハワイ観光局アロハプログラムから
https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/463
 

まずカアフマヌはどのような両親の下に生まれたのでしょうか。
 

父親はもとハワイ島コナの首長で、マウイ島の首長の血を引く母親と結婚します。しかしマウイ島には最強の首長がおり、マウイ島での力をさらに増大しようと、この結婚に強く反対しました。ハワイ島にいた両親は彼に追われ、モロカイ島へ、さらにはマウイ島のハナ湾に位置するカウイキに逃げました。カアフマヌが生まれた年に関しては、1768年、1777年など諸説ありますが、最強の首長の力が及ぶのを恐れ、母親は祖母の助けで、ひっそりとカウイキの洞窟の中でカアフマヌを出産しました。
明敏で誰からも信頼されていた祖母は、いみじくも「カアフマヌは将来ハワイの支配者となり、すべての親族が彼女の前にひれ伏すであろう」と予言し、後年その予言は現実のこととなったのです。
 

カアフマヌは3人姉妹で、他に兄弟が2人いました。父親は、好戦的で野心に富んだ人物でした。彼はハワイ諸島統一をもくろんでいたカメハメハの戦場に赴き、常に先頭に立って兵士を率い功績をあげ、カメハメハから大きな信頼を勝ち得ていました。そして将来ハワイ諸島のリーダーとなるのはカメハメハであると予測し、自分の娘3人をすべてカメハメハの妃にしたのです。
 

最初に送られたカアフマヌは、13歳(これも10歳だったという説もあります)の時からカメハメハの近くに置かれました。ハワイ諸島の統一に向け、日々激しい戦いが続く真っただ中に生き、カメハメハという偉大な征服者が権力を得ていく劇的な出来事を、カアフマヌは身近で目撃したのです。父親の好戦的で野心に富んだ血を受け継いだ彼女は、権力を持つことに強い魅力を感じたに違いありません。そして16歳の時にはカメハメハの妃となります。
 

カアフマヌ2
〔カアフマヌと言えば必ず使われる肖像画。短いカヒリ(棒の先に鳥の羽を飾ったもの。その人のマナが宿ると言われている)を持っていて、大柄で豊かな体つきをしている。〕
出典:ハワイ観光局アロハプログラムから
 

そんなカアフマヌはとび抜けて美しい女性でした。ハワイの歴史家カマカウはこう言っています。
『カアフマヌは身の丈は6フィート(1.8m)スタイルが良く、非の打ち所がない魅力的な女性だった。彼女の腕はバナナの茎の内側のようで、指先は細く、頬はバナナのつぼみのように細長くピンク色…』
彼女の美しさが、すべてバナナに例えられているのはなぜでしょうか。実は古代ハワイでは、バナナは女性が決して食べてはならない食べ物であるという厳しいカプ(禁止を意味する。英語のタブーの語源となったポリネシア語)がありました。古代ハワイには、生活の隅々にまで及ぶ多くのカプがあり、中でも食に関するカプは大変厳しく、男女は決して一緒に食事をしてはならない(アイカプと呼ばれていました)、女性はバナナや豚肉、ココナッツを食べてはならない、等々。掟を破ったものはほとんどの場合死刑となるほど厳しいものでした。カアフマヌは、そんなカプの食べ物であるバナナに例えられていた、ということは、よっぽど美しかったのだろうと私は想像します。
 

カアフマヌは大変自己主張の強い女性だったようです。ほしいものは必ず手に入れる。白人の船がやって来る度に、彼女は白人たちと共にカプの対象となっていた豚肉も、酒も、すでに食していたようです。しかし何を食べても天罰が下らなかったので、このころからカアフマヌの心の中には、カプを恐れない心が芽生えていたに違いありません。カメハメハとの生活でも、カアフマヌはなかなか彼の言う通りにはならなかった。そんなところがまた、カメハメハの心を惹きつけたのでしょう。
 

母親を見れば、このカアフマヌの行動は何も特別なことではなかった、ということがよく分かります。イギリスの探検家ジョージ・バンクーバーは3回ハワイを訪れ、カメハメハと懇意になり、カアフマヌとも会っています。バンクーバーはハワイに滞在中、船にカアフマヌの両親を招待しました。当時のハワイの女性たちは、男性と共に食事をすればカプを破り死刑になると恐れたのですが、母親はどうしても参加したいと、夫と共にバンクーバーの船ディスカバリー号にやって来て食事をともにしました。母親は彼女自身の意思で自由の扉を開けたのです。カアフマヌはそんな母親の血も引き継いでいたのでしょう。
 

1819年カメハメハの臨終の折、『カメハメハは私を“クヒナ・ヌイ”(日本で言えば摂政。王と同じ権力を持つ)に指名すると言い残した』とカアフマヌは人々に宣言しました。この遺言により、カアフマヌはカメハメハ2世、3世を通して、実際にはハワイ王国で最も力を持つ人物となったのです。しかし臨終の場にはほかに誰もいなかったのですから、その真偽のほどは分かりません。
 

カメハメハの死後、カアフマヌはそれまでのハワイ社会の基盤であったカプをすべて撤廃しました。なかでも男女が一緒に食事をすることは最大のカプでしたが、“アイカプ(ともに食事をしてはならない)”は廃止となり“アイノア(ともに食事をする)”となりました。また、これまで信仰の対象となっていたヘイアウ(神殿または、神へ奉げる儀式をする場)はことごとく破壊され、偶像も燃やされました。ただペレ信仰だけは、秘密裏に存続していきました。火山は実際噴火し、周囲に脅威をもたらしたからです。火の女神ペレは人々の心の中に生き続けました。
 

カプを廃止することで、カアフマヌは単に男女の差別をなくそうとしただけなのでしょうか。いいえ、そこにはもっと深い彼女の権力への渇望があったのだと、私は思います。彼女にとって、カプとなっていた食べ物はすでに容易に手に入りました。しかし女性には決して許されなかった権力、すなわち神との交信を行えるのは、カフナ(神官または特殊技能をマスターした専門家たち)だけでした。カアフマヌは完全な権力を得るために、ハワイの神をも否定し、カフナの力を奪い、ヘイアウを破壊したのです。
 

ハワイの神を撤廃した時を同じくして、1820年キリスト教がハワイにやって来たことは、前回すでに述べました。カアフマヌはこの新しい宗教に接し、大きな光明を見たのでしょうか。それとも、このキリスト教をさらに自分の権力を確実なものにするために使おうとしたのでしょうか。カアフマヌは自らクリスチャンになりたいと申し入れ、1825年、神にのみ愛をささげることを誓い、ようやくエリザベスという洗礼名を授かります。自由奔放で、欲しいものはなんでも手に入れる貪欲なカアフマヌでしたが、ここで、“New Kaahumanu”が誕生したのです。これ以降のカアフマヌは、ハワイの人民のために、多くの功績を残します。彼女は自ら英語の読み書きを学び、ハワイの人民にも教育を与えるために、学校を開設しました。マウイ島には彼女の名前の付いた教会があり、最近では多くの日本人がここで結婚式を挙げるそうです。
 

そんなカアフマヌに関して、私がずっと考えているハワイ王朝の最大の『たられば』で今回を締めくくりたいと思います。
『もしも、カメハメハとカアフマヌの間に子供が生まれていたら…。』
カメハメハとカアフマヌには子供がいませんでした。もし、ハワイ諸島を統一したあのカメハメハと、長年古代ハワイの社会基盤となっていたカプを全廃したカアフマヌ、という卓越した能力を持ったふたりに子供が生まれたとしたら、一体どんな人物になったでしょうか。カメハメハの“聖なる妻”と呼ばれていたケオプオラニは心穏やかな、控えめな人物だったそうです。そんな彼女から生まれたカメハメハ2世と3世。もしかしたら、カアフマヌの子は、この二人を凌ぐ大物になっていたのかも。そうなるとハワイ王朝は、まったく違う状態になっていたかも。
 

そう、「たられば」の世界です。
 

オヒアレフア
〔ハワイの最大の神話「ペレ」に必ず登場する、オヒアレフアのハナ〕
 

【参考文献】
・『KAAHUMANU MOLDER OF CHANGE』 JANE L. SILVERMAN
・多文化社会ハワイ州における教育の実態と展望 田中圭次郎(日本の教育学者、佛教大学嘱託教授)
・アロハプログラム ハワイ州観光局が運営する公式ラーニングサイト https://www.aloha-program.com/
 

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やさしいHAWAI’I  第75回「シンクレティズム」

【最近の私】フェデラーが引退!!! ああ、ついにこの日が来てしまった。分かってはいたが、現実になってほしくなかった。
出てくる言葉はこれだけ。「ありがとう、ありがとう、感動をありがとう!」
 

『シンクレティズム』とは?
 

今回ハワイの宗教に関して調べているうちに、初めてぶつかった単語です。
 

『異なる文化の相互接触により多様な要素が混淆・重層化した現象をさす。宗教について用いることが多い』(百科事典マイペディアより)
 

これはまさに今回私がハワイに関して書こうと思った内容でした。
前回、メアリー・カヴェナ・プクイの祖母ポアイはキリスト教徒で、亡くなった時は当時としては初めてキリスト教式の葬儀を行った一人だったと述べました。(第74回 メアリー・カヴェナ・プクイは “ハパ・ハオレ”)ポアイはモルモン教徒でした。
 

少し歴史を遡ってみます。カメハメハ大王はハワイ諸島を統一したのち、1819年没。その後を引き継いだのは、カメハメハの最もお気に入りの妃と言われたカアフマヌでした。(彼女のことはいずれ詳しく述べるつもりです)。カアフマヌはそれまでのハワイの社会の基盤だったカプシステム(禁止事項のこと。例えば『男女が一緒に食事をしてはいけない』をはじめとし、生活の細々としたことまで厳しく制限する掟があった)を崩壊させ、ハワイ古来の宗教や神々を否定するという、大きな変革を行ったのです。そのためハワイ人はすがるものを失い、精神的空白ができました。そして1820年、実にタイミングよく、プロテスタントの宣教師がハワイへやって来て、その空白をキリスト教で埋めたのです。
 

神殿1
※ハワイ島マウナケアにある、神への捧げもの

神殿3
※ヘイアウ(神殿)
 

1827年にはカトリックもやって来ますが、すでにカアフマヌがプロテスタントを強く支持していたために、当時はなかなか広まることができませんでした。そしてモルモン教は1850年に布教が始まりますが、意外にもハワイで信徒の数を増やしていきます(オアフ島北東部にあるポリネシア文化センターはモルモン教・・・正式には末日聖徒イエス・キリスト教会・・・が経営する施設です)ポアイは1830年生まれですから、彼女が20歳のころモルモン教に出会ったわけですが、不思議なのは、ポアイの祖先は高位のカフナ(神官、医者、職人、呪術者など様々な分野における専門家のこと)であり、さらに昔をたどれば、火の女神ペレを守る神官でした。彼女自身もハワイ古来の生活様式や文化を大切にし、薬草の知識が豊富で、フラの秀でた踊り手でもありました。そんなポアイが、なぜ異国の宗教であるモルモン教を受け入れることができたのでしょうか。どうしてもその疑問が頭から離れません。モルモン教とほかのキリスト教との違いは何だったのか?
 

当時、たとえキリスト教がやって来ても、ハワイ人の心の中には、崩壊したはずの伝統的なハワイの宗教が根強く残っており、特にカフナの存在は大きいものでした。ハワイ人が病気や死に際してカフナと接触し、古来の神々のマナ(霊的な力)に頼るということはこれまで代々伝承されてきたことで、彼らにとっては自然のことだったのだと思います。同じようにプクイ女史の祖母ポアイが、モルモン教徒になりながら、伝統的な文化をしっかり守っていたのは、当然のことだったのでしょう。
 

ペインテッドチャーチ1 ペインテッドチャーチ2
※ハワイ島カイムにあるペインテッドチャーチ
 

中でも、ペレ信仰は根強く残りました。ハワイ諸島は火山活動によってできた島々で、いまだにハワイ島では活発な火山の噴火、溶岩流が見られます。人間の力のとうてい及ばない自然の脅威は、そこに神がいると信じざるを得ないのです。そしてハワイ人は火の女神ペレに奉げるためにフラを踊りました。ただ、プロテスタントとカトリックは、フラは腰を振る卑しい踊りとし、踊ることを禁じていました。ではモルモン教は?
 

いろいろと調べてくると、ポアイがモルモン教を選択した理由が分かってきました。
ハワイとキリスト教を研究している天理大学国際学部教授、井上昭洋さんによると、『モルモン教宣教師は、フラなどの伝統芸能に比較的寛容であり、また、ポリネシア人は古代ヘブライ人の子孫であるというこの宗派独自の教義も手伝って、彼らはハワイ人の間に信徒を獲得していく』とあります。
 

これで合点がいきました。古来の宗教やフラ、そして先祖(ハワイ語でクプナ)を重視していたハワイ人のポアイにとって、新しく入ってきたキリスト教の中では、プロテスタントでもなく、カトリックでもなく、モルモン教が最も近づきやすかったわけです。こうして、ハワイの伝統信仰や文化とキリスト教文化が接触し、宗教面のみならず、ハワイ人の生活、文化すべてに関して、大きな変革が起きていきました。
 

その後、ハワイの砂糖産業の振興により、1852年の最初の中国人移民をはじめ、1868年には元年者と呼ばれた日本人最初の移民、他にポルトガル、韓国、フィリピンなど、様々な国から大勢の移民がやって来ます。彼らはそれぞれ異なった文化背景、宗教を抱えて移住しました。これによりハワイは人種のみならず、宗教、文化すべにおいて多様性を持つようになったのです。
 

話は少し外れます。私は1980年代に4年間シンガポールで生活をしましたが、この国は大変興味深い国でした。シンガポールの国歌は、マレー語です。民族は中国人76%、マレー人15%、インド人7.5%(2019年外務省資料による)、言語に関しては、国語とされているのはマレー語、公用語が英語、中国語、マレー語、タミール語。そして、年4回新年があり、Chinese New Year(中国), Hari Raya Puasa(マレー), Deepavali(インド), New Year’s Day(キリスト教)です。大統領も各民族集団から選ばれ、現在はマレー民族の初の女性が大統領となっています(大統領は行政権を持ちません。実際に政治の主導権を持つのは首相です)。国内の政治経済に関しては最多人口である中国系の人々が中心となっていますが、中国系の間でも、広東語、福建語など出身地によって全く言葉が通じず、英語が苦手の年配の中国人は共通語として北京語を使います。食べ物も、一般的にインド系の人は牛肉を食べず(牛は神)、マレー系は豚を食べず(イスラム教)、中国人はなんでもOK(チャイナタウンに行くと、サル、コウモリなども売っています)。このような大きな違いを抱えながら、互いの民族はそれぞれの存在を尊重し、民族間の諍いはなく、内政的に大変安定した状況です。多様性を認めたうえで、みな同じシンガポーリアンなのです。
 

ハワイでお世話になった日系二世のヨコヤマさん一家も、徐々に多様性を持つようになりました。当時(1970年代)ヨコヤマさんの長女に子供がいなかったため、養子をもらうことになったのですが、ヨコヤマさんは日本から紹介を受けると決めていました。そうすれば決して混血にはならないということが理由でした。おそらく二世ぐらいまでは、そういう考えの日系人が大多数でした。しかし、甥のジョージ一家の次女は、フィリピン人が4分の1入っている男性と結婚しました。それは当然の流れなのです。宗教的にも、ヨコヤマさんは仏教徒で自宅には立派な仏壇が飾ってありましたが、妹のシマダさんはクリスチャンでした。ヒロのホンガンジで盆踊りがあれば、日系人のみならず多くの白人がやって来て、浴衣を着、うちわを持って楽しそうに輪になって踊ります。
 

日系人の集団墓地の入り口に置いてある仏像
※日系人の集団墓地の入り口に置いてある仏像
 

お大師さん1 お大師さん2
※ハワイ島ホノムの町にあるお大師さん 真言宗Henjoji Mission お坊さんのお経は日本語だが、説教は英語で行われる
 

違う文化、宗教が接触すれば、それらが混合して新しい文化が生じ、また並立、共存して互いを尊重しあう、それが理想の文化交流なのではないでしょうか。世界が狭くなり、簡単に行き来ができる現代です。世界中でハワイやシンガポールと同じように『シンクレティズム』の現象が起き、『異なる文化の相互接触により多様な要素が混淆・重層化』すれば、現在あちこちで起きている国同士の諍いも、少しは減っていくのではないでしょうか。困難であることは分かっています。でも、ジョン・レノンが言っているではありませんか。
 

Imagine there’s no countries
It isn’t hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion, too
 
You may say I‘m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as one
 

『Imagine』より
作詞・作曲: ジョン・レノン/オノ・ヨーコ

 

世界の現状を見れば、確かにこれは夢のような話かもしれません。しかし、時間をかけてでも、いつかこのような世界が生まれることを、私は心から願います。地球上にまだ人間が存在できている間に、そんな理想の世界が現実となりますように。
“John, I will surely join you.”
 

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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。
 
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やさしいHawaii 第74回 メアリー・カヴェナ・プクイは “ハパ・ハオレ”

【最近の私】「コロナでハワイへ行けない!!!」 ハワイ好きは今、みんなそう思っている。でも皮肉なことに観光客が激減して、ハワイの海は本来の美しさを取り戻したようだ。
 

今回はメアリー・カヴェナ・プクイ女史をとりあげます。
 

プクイ女史
※プクイ女史
出典:『Mary kawena Pukui Cultural Preservation Society』 
 

プクイ女史は、前回取り上げたデビッド・マロ(第73回 ハワイの未来を予言した男https://www.jvta.net/co/yasasiihawaii-73/)からちょうど100年後の1895年に生まれました。彼女がなぜハワイの文化において、バイブルと言われるほど欠くことのできない重要な人物であるのか。それは彼女の残した功績から明らかです。プクイ女史は50冊以上の訳書や著書、150曲以上のハワイ語の歌詞を作りました。また、前回のデビッド・マロを始め、ジョン・パパ・イイや、サミュエル・カマカウなど19世紀の知識人がハワイ語で書き記した歴史や文化のほとんどを、プクイ女史が英訳しました。これは彼女が英語とハワイ語をともに母語としていたからこそ可能だったことです。中でも最も大きなものは、1957年に完成したエルバートとの共著『Hawaiian Dictionary』です。ほぼ3万語のハワイ語を抱えるこの辞書はハワイ語を学ぶ人々にとって、なくてはならないものとなっています。そして私にとって大変思い入れの強い一冊が『The Polynesian Family System in Ka’u ,Hawaii』です。2002年の夏、ハワイ大学ヒロ校のサマーセッションを受講した折、Hawai’i ‘Ohana という授業で使った教科書でした。
 

ThePolynesin Family System in Ka ’u Hawaii
※プクイ女史の著作の1冊『The Polynesian Family System in Ka‘u Hawaii』 筆者所有の書籍より
 

それまでの保守的なハワイ人は自分たちの文化や教えを他人に詳らかにすることを躊躇しましたが、プクイは「自分たちの孫のために、これを残すのです」と、白人の価値観をもとに公に記録を残しました。そこに大きな価値がありました。
 

あまりに著名なプクイ女史の功績を並べることは簡単です。それより私は、彼女の“ハパ・ハオレ”としての個人に大変興味を持ちました。
 

“ハパ・ハオレ”とは何か?
 

みなさんは、“ハパ”というハワイアンミュージックのグループをご存じでしょうか。ニューヨーク生まれの金髪で白人のバリー・フラナガンが、1980年ハワイにやって来てすっかりハワイの虜となり、ハワイ人のケリィ・カネアリィとデュオを組んで生まれたのがハパ。そして1992年発表したアルバム『Hapa』は大ヒットしました。バリーの見事なスラックキー・ギターに、ケリィの味のあるヴォーカル。そしてトラディショナルからポップまで様々なスタイルでアレンジされた美しいメロディ。彼らはなぜデュオの名をハパと名付けたのでしょうか。ハワイ語でhapaとは、上記のプクイ女史の辞書によると“portion, fragment, part”そして“person of mixed blood”とあります。一人はニューヨーク生まれ金髪の白人、もう一人は生粋のハワイ人というこのデュオは、白人とハワイ人が半分ずつ、という意味でハパと名付けたわけです。(ハパの音楽に関して書き始めると大きく道が外れるので、いつか改めて書きたいと思います)
 

Hapa
※筆者所有のCD
 

プクイの父親はマサチューセッツ出身のヘンリー・ナサニエル・ウィギンという白人(ハワイ語でハオレ)で1892年にハワイへやって来ました。ハワイ島のシュガープランテーションで働いていましたが、後にオアフへ移り、刑務所の警備の仕事に就きます。母親のパアハナはハワイ人でした。家庭内では、白人の父親はハワイ語が流暢であるにも関わらず、プクイに英語で話し、母親はハワイ語のみを使いました。ですからプクイは生まれながらにバイリンガルだったのです。プクイを“ハパ・ハオレ”と言った所以は白人の父とハワイ人の母を持つということにあります。この“ハパ・ハオレ”であることが、彼女のその後の人生を決めたといえるでしょう。
 

ハワイではかつて、女の子が生まれると母方の祖母に預け、ハワイの慣習を学ばせる、ということがよくありました(ハワイ語でハナイ、つまり養子)。父親は白人だったにも関わらず、プクイを祖母であるポアイに預けることを受け入れます。彼女はポアイからハワイの全般にわたる多くの文化を学びました。プクイが6歳の時祖母が亡くなり、再び両親のもとに戻りますが、プクイに大きな影響を与えたこの祖母ポアイとは、どのような人物だったのでしょうか。
 

ポアイは1830年生まれで、ハワイ島カウ地域の女首長の血筋を持ち、遠くをたどれば火の女神ペレを守る神官でした。また薬草に詳しく助産婦でもあり、自分の子供は最後の子を除き、自身だけで出産したそうです。ハワイの宗教、歴史、儀式などに深く精通し、フラは、クイーン・エマのお抱えフラ・ダンサーでもありました。
 

ポアイは、守護神(ハワイ語でアウマクア)は家族にとってとても大切だとプクイに教えました。それぞれの家庭にはサメ、フクロウ、トカゲ、ネズミ、ウナギ、石、植物などの守護神がいて、家族を守っているのだと。
 

私がハワイにいたときこんな話を聞きました。ボルケーノへ行く道の交差点を横切ろうとした車が、対向車に気づかず衝突しそうになった瞬間、目の前にフクロウが現れ、それを避けようとハンドルをきったおかげで事故を免れた。運転していた人の守護神はフクロウだったということです。また、ハワイでは指で何かを指すことはいけないとされています。虹や雲をむやみに指さしてはいけない、それは誰かの守護神であるかもしれないのだから。また、見知らぬ人から食べ物や飲み物を求められたら、拒んではいけない。その人はもしかして火の女神ペレが姿を変えているかもしれないから。このような、昔からのハワイの教えの多くをプクイは祖母ポアイから学んだのです。私もまた日系二世の方から、このような話は何度も聞きました。現在もペレはしっかり生きているのです。
 

ポアイの教えで大変興味深いものがあります。
プクイが11カ月になった時、ポアイは離乳の儀式を行いました。ポアイが“ク”と“ヒナ”神に赤ん坊の母乳への欲求を取り去るように祈りを奉げた後、孫のプクイを膝にのせ、その前にお乳を表わす石を2つ置きます。ポアイは、まだ言葉が話せないプクイの代わりに、母親のパアハナに尋ねます。「お前はもう、おっぱいを欲しがらないか?」。するとわずか11カ月のプクイは前に置いてある石をつかんで放り投げて、もう母乳を欲しがらないことを表明するのです。日本では最近、若いママは『卒乳』という言葉を言います。これは母親のほうから離乳を勧めるのではなく、赤ん坊が自ら母乳を欲しがらなくなるまで待つという離乳のやり方です。何が正解なのか、こればかりは分かりませんが、時代や場所によって“離乳”一つでも全く違うことに、母親を経験した私は、大いに興味を持ちました。
 

プクイが6歳の時、ポアイは亡くなりました。古代ハワイでは亡くなった人の骨を赤と黒のカパ(木の皮をたたきなめして布のようにしたもの)に包み、キラウエアの火口から投げ込んでペレのもとに送るのが習わしでした。しかしポアイは敬虔なキリスト教徒で、彼女の世代としては初めてキリスト教式の埋葬をされた一人でした。
 

ハワイは1893年ハワイ王国の終焉を迎え、その後アメリカ合併に向け英語教育が進められました。また学校教育の場ではハワイ語を使用することが禁止されます。
プクイが15歳、ホノルルにあるカワイアハオ神学校に通っていた時のことです。ほとんど英語を話せない地方出身のある女子生徒がいて、プクイに助けを求めてきました。当時ハワイの田舎ではまだ英語を話せない人も大勢いたのです。プクイは英語もハワイ語も達者でしたから、もちろんハワイ語で応対してあげました。ところが禁止されているハワイ語を学校で話したという理由で、プクイはひどく叱られ、1週間全生徒の前で一人テーブルに座らされ、水とパンしか与えられず、家族のもとに帰宅することも許されませんでした。自分たちの言葉で話すことが、そんなにいけないことなのか。クプイは大変傷つき、母親のパアハナも激怒してこの事件以降娘を途中退学させます。
 

これと同じようなことが日系移民の中でも起きました。移民としてハワイへ移住した日系一世は、もちろん英語が話せません。ハワイで生まれた日系二世は、学校に通いながら英語を学びましたが、家に帰れば親は英語が分からず、日本語で話さなくてはなりません。また、フィリピン、ポルトガル、韓国、中国など、母国語が全く違う国々からやって来た移民は、互いのコミュニケーションのために必要に迫られて、ピジンイングリッシュと呼ばれる共通語が、自然発生的に話されるようになりました。(『ハワイ研究への招待 フィールドワークから見える新しいハワイ像』(関西学院大学出版会)によると、『ピジン”とは、”共通の言語を持たない人々の間でコミュニケーションの手段として用いられる、簡略化された補助言語』と定義されています)。
 

ハワイで生活をしていた当時、親しくしていた日系二世のヨコヤマさんから最初にこの言葉を聞いた時、私は”ピジン(pidgin)”を”ピジョン(pigeon鳩)”の意味で言っているのだろうと誤解しました。“ハワイの日系人の少しブロークンな英語を、鳩の鳴き声のような英語という表現をしている”と思ったのです。子供たちも当然、ピジンイングリッシュを使って遊びます。ですから日系二世は学校では英語、家に帰れば日本語、そして友達同士では学校でもつい禁止されているピジンイングリッシュを使ったのです。しかしこれは正しい英語ではないと、プクイと同じように、学校で教師からひどくしかられました。
 

“自分たちの言葉を使うことを禁じられる”。日本人はそういう経験をしたことこがありません。ハワイの人々は言葉だけではなく、すべての文化を否定された時期がありましたが、プクイのような、ハワイ語を残そうという強い思いは、その後1960年代末の「ハワイアン・ルネサンス」へと繋がっていきます。
 

1913年、プクイが18歳の時ナポレオン・カロリイ・プクイと結婚します。二人には長い間子供ができず、1920年にインフルエンザの流行で孤児となった日本人の女の子を養女に迎え、ペイシェンス(Patience)と名付け、翌年、日本人とハワイ人の混血の孤児を再び養女にし、フェイス(Faith)と名付けました。その後1931年にようやくプクイに子供ができペレ(Pele)と名付けました。ペレはプクイの教えで素晴らしいフラダンサーになりますが、1979年エディス・カナカオレ(フラの第一人者)の受賞式で、アリヨシ州知事の前でチャント(詠唱)を唱えている時、心臓の発作で亡くなってしまいます。
 

夫のカロリイについては詳しい情報はほとんどなく、どれを見ても1943年、突然亡くなったとしか出ていません。辛うじてたった一つ、孫のラアケア・スガヌマが会長をしている、Mary Kawena Pukui Cultural Preservation Societyの中に、「カロリイがオピヒを採りに出かけて、海に落ちた」とう記載があります。オピヒというのはカサガイの仲間でハワイ固有の貝。表面を磨くと美しい光沢が出て、ペンダントトップなどのアクセサリーになります。波の荒い危険な岩場にくっついており、採るのは命がけです。
 

オピヒ1 オピヒ2
※オピヒ 出典:Maui Ocan Center
 

かつてハワイにいたとき、日系のヨコヤマさんの甥、ジョージが、初孫のお祝いパーティを開いたことがありました。体育館のような広い会場いっぱいにテーブルとイスが設置され、舞台ではカウからやって来たハワイアンバンドが歌い豪華なご馳走が並ぶ、とても華やかなパーティでした。そのご馳走の中でもひときわ目を引いたのがオピヒです。ジョージは私に「自分がとってきたオピヒがあるから、ぜひ食べなさい」と勧めてくれた言葉を思い出します。孫のためにオピヒを命がけで採ってきた、ということは、それだけ孫を深く愛しているということの現れなのです。プクイの夫カロリイは、常々自分は海で死にたいと言っていたそうです。気難しい人だったようですが、家族のために命を懸けて危険なオピヒ採りに行ったのでしょうか。その死は謎のままです。
 

プクイは1986年、91歳で亡くなりました。晩年はハワイのお年寄りからの様々な思い出話やインタビューをテープに記録したり(ビショップ博物館に保存されています)ハワイ語をYWCAで教えたり、カメハメハ・スクールでフラを踊ったりと、最後までハワイの文化と言語を残すことに努力しました。彼女がモットーとしていたのは、
 

『Knowledge to me is life』 (私にとって知識は人生…生きること) 扇原訳
 

でした。
 

私がハワイにいた1973~75年当時、プクイはまだ80歳前後。その時にもし今のように彼女のことを知っていたら、と思うと、本当に残念です。なんとしても一目会っておきたかった! 
 

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やさしいHawaii 第73回 ハワイの未来を予言した男

【最近の私】ここ1週間ほど暑さが急だったので、体がついていかない。でも今日あたりはだいぶ慣れてきて、やっぱり「夏が好き」。
 

今回取り上げるのは、デビッド・マロというハワイの歴史家です。
あのカメハメハ大王が最も強い勢力を持ち、ヌウアヌパリでの戦いに勝利しハワイを統一した時とほぼ同じ時代に、マロは生まれました。父親はカメハメハ軍に仕え、彼自身もカメハメハの妻カアフマヌの弟クアキニと親交があったため、古代ハワイの歴史、神話などの造詣を深くし、伝統、メレ(詠唱)、王族の家系、フラなど、広い分野での豊富な知識を持っていました。彼は古代ハワイの文化の中で人生の前半を過ごし、口承文化の時代の語り部として活躍しました。
 

ところが1820年、キリスト教の宣教師がやって来て以降、ハワイの社会は根源にかかわることすべてに大きな変化が起きます。これまでのハワイの宗教、神、文化がすべて否定され、古代ハワイの生活を厳しく規制する基本となったカプ(タブー)制度が崩れました。
 

マロは古代ハワイの中で育ち、その文化について高い知識を持ちながら、後にキリスト教の布教によって強い影響を受けます。ハワイの古代文化について貴重な資料を著し、また聖書のハワイ語翻訳にも尽力する功績を残しますが、大きな社会の変化の狭間でマロは苦しんだのです。
 

まずは、彼の予言(1837)です。
 
1
※〔写真は『Hawaiian Antiquities』 から〕

“If a big wave comes in, large fishes will come from the dark ocean which you never saw before, and when they see the small fishes they will eat them up; such also is the case with large animals, they will prey on the smaller ones;
The ships of the whitemen have come, and smart people have arrived from the Great Countries which you have never seen before, they know our people are few in number and living in a small country; they will eat us up, such has always been the case with large countries, the small ones have been taken Over throughout the world.”
(この原文はハワイ語で書かれていたため英訳はいくつかあり、部分的に少し違いがありますが、大勢は同じ)
 

デビッド・マロの予言(1837年)
『大きな波が押し寄せ、見たこともない暗い大海から巨大な魚がやってくる。その巨大な魚は小さな魚を見つけるとぺろりと平らげる。大きな動物も同じことだ。彼らは小さな動物を餌にして食い尽くす。
白人が乗った船がやってきた。頭のいい彼らは、見たこともない巨大な国々からやって来た。彼らは我々が民の数も少ないし国も小さいことを知っている。そして我々をぺろりと平らげるだろう。大国というものは常にそうしてきた。小さな国々は世界中でずっと、そういう目にあってきたのだ。』(扇原訳)
 

これはデビッド・マロが42歳の時、ハワイの未来を予知し憂えた言葉です。後々、この予言は彼自身の死にまで影響を及ぼすことになります。
 

デビッド・マロは1795年、ハワイ島コナの北部ケアウホウで生まれました。古代ハワイ文化に囲まれた環境の中で育ち、語り部としてハワイの伝統文化を伝えていました。(デビッド・マロの生まれた年に関しては諸説ありますが、最も信頼性の高いBishop Museum Press の情報をとりました)
 

その後、マウイ島ラハイナに移り、宣教師ウィリアム・リチャード牧師と知り合い、強い影響を受けます。36歳前後にハワイで最古のミッションスクール、ラハイナルナ・スクールの一期生として、最年長で入学します。マロは入学前にリチャード牧師から英語の手ほどきを受けていたので、スクールでは生徒というより、むしろ教師の役割が大きかったようです。しかし英語の読み書きを学んだマロではありましたが、36歳からの全く新しい言語の習得はかなり困難でした。
 

リチャード牧師の影響でキリスト教に改宗したマロは、クリスチャン・ネームのデビッドを授けられました。そして牧師が聖書をハワイ語に翻訳するのを手伝います。それまで古いハワイの信仰の中で育ったマロでしたが、改宗以降は古代ハワイの宗教儀式などを軽蔑し始め、自身が育った文化を見下すようにさえなりました。おそらくキリスト教文化に対する渇望の裏で、同時に強い恐れも感じたのだろうと思います。自分が育った古代ハワイが、いつの日にかキリスト教文化に支配されてしまうのではという不安から、古代ハワイを否定するようになったのではないでしょうか。
 

ラハイナルナ・スクールの周囲の白人たちは、マロの古代ハワイに関する高い知識が大変貴重であることに気づいていました。中でも、スクールの創始者であるロリン・アンドリュースはマロに古代ハワイの宗教や歴史に関してハワイ語で記述することを勧めます。このハワイ語で記された『Moolelo Hawaii』は1838年に出版。後にナサニエル・エマーソンによって英訳されて『Hawaiian Antiquities』として出版されました。マロの著書の英訳で出版されたものは、これが唯一の本です。(ハワイ語ではほかにカメハメハ一世について書いたと言われていますが、その原稿は発見されていません)。
 
2
〔Hawaiian Antiquities by David Malo〕
 

『Hawaiian Antiquities』のハワイ語の原本と英訳については、翻訳されてから1世紀以上経つ現在、様々な疑問点が出てきています。翻訳するということは、大変な作業です。一世紀後にも、こうして問題点を指摘されることがあるのですから。
 

エマーソンは『Hawaiian Antiquities』の前文で、マロについて個人的な情報を語っていますが、その最後の部分に、思いもかけないことが記されていました。
『作家としてのマロが背負っていたハンディの一つに、ペンを使用する経験の未熟さがあった』。
口承文化の中では、ペンを持つ必要がなかった。実はペンで文字を書くことがマロにとっては大きな障壁であったのだという、想像もしなかった事実に改めて気づかされました。
 

最後に、マロに関するわずかな資料の中で、個人生活に触れたいと思います。
 

彼は3回結婚しました。
最初の結婚はマウイ島に移動する前に、Aa-lai-oa(1790?~1822)という、首長の未亡人との結婚です。彼女はマロより5歳年上でした。マウイの大首長カヘキリの娘、という説もありますが、おそらくそうではないようです。古代ハワイでは、たとえ身体的に魅力がなくても、富と地位があれば女性が男性を選ぶことはよくあることだったようです。マロは背が高く引き締まった体形をし、行動的で雄弁な人物だったと、エマーソンは記しています。そんなところにこの首長の未亡人は魅かれたのかもしれません。子供はできず、マロが27歳の時に亡くなりました。
 

その後マウイ島に移り住み、2番目の結婚をします。妻の名はPahia(1796~1845)。彼女も女首長の血を引く女性だと言われています。キリスト教徒になり、洗礼名をBathshebaといいます。やはり子供はいませんでした。マロの妻としては、このPahiaだけが正式な記載があります。
 

最後の結婚は悲惨な結果になりました。妻はLepeka(1810~1853)といい、マロより15歳若い女性でした。洗礼名をRebeccaといいます。娘が一人生まれ、名前を最初の妻の名をとり、Aa-lai-oaと名付けました。エマーソンによると、この女性は大変奔放な性格で、その自堕落な行動がマロの心に重くのしかかり、彼を深く傷つけました。マロは苦しんだ末に食事をとることを拒み衰弱していきます。彼が牧師をしていた教会のメンバーが集まって回復を祈りましたが、無駄でした。マロは最後の望みを彼らに託します。それは『自分をカヌーに乗せてラハイナに運び、母校であるラハイナルナ・スクールの裏手にあるマウント・ボールと呼ばれる丘に葬ってほしい。そこなら西欧の侵略の波は押し寄せてこないだろう。そこなら自分の墓の上に白人が家を建てることもないだろう』
 

1853年、彼の遺体は望みどおり、マウント・ボールに安置されました。58歳の生涯でした。
3 4
※デビッド・マロの墓
写真はともに『Images of Old Hawaii』から
 

マロが42歳の時に書いた、あの『巨大な魚が小さな魚をぺろりと平らげる』という予言に、彼自身、生涯縛られていたのでしょうか。西欧の文明とキリスト教の文化に魅了された一方で、その波にのまれるハワイを強く憂えたマロ。変わりゆく二つのハワイの狭間で、彼は人一倍強く苦しみを感じたに違いありません。
 

<参照>
『Hawaiian Antiquities Mo’olelo Hawai’i』 by David Malo
Translated by Nathaniel B. Emerson
 

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やさしいHawaii 第72回 ハワイ語 口承からテキストへ

【最近の私】コロナ、オミクロン・・・この2年半余りは人間が振り回された感がありますが、徐々に以前の生活を取り戻せそうな、今日この頃。私も気を付けながら、交友を復活です。
 

先日私は、2年ぶりにJVTAに伺いました。
久しぶりにスタッフの方々とお会いし、とても楽しいひと時を過ごしました。私は相変わらずハワイの話題で盛り上がったのですが、その時ある方から「文字を持たなかったハワイの文化が、どのようにして現在に伝えられたのだろうか」と、訊かれました。私は漠然としたことは分かったつもりだったのですが、明確な説明ができませんでした。このひと言がきっかけで、改めてハワイの文字文化の変遷について調べてみることにしました。
 

古代ハワイの人たちは、文字を持ちませんでした。ですから、当時の歴史、伝統などに関しては、明確にテキストとして表記されたものが残っていないため、これが絶対に正しいと断定することは難しく、推測の域を出ないものもあります。また、多くの島からなるハワイでは、おそらく地域によって話されていたハワイ語や発音も多少違いがあったと想像されます。何代も語り継がれてくると、その内容も少しずつ変わってきたかもしれない、という可能性も否定はできません。そんな事実を前提に、文字を持っていなかったハワイが、どのようにして現在に至ったのかを、多くの資料から紐解いていきたいと思います。
 

文字が存在しなかったハワイの世界は、古老たちがハワイ王家の血統、歴史、神話、伝統などを次世代に語って聞かせる、口承の文化でした。それに加え大変重要な存在だったのが、フラです。神への祈りであるメレ(詠唱)が歌われ、神にささげるフラを踊ることによって、ハワイの豊かな文化が伝えられていきました。ただフラに関しては、あまりに膨大な内容なので、ここでは文字文化に限ります。
 
フラ
〔キラウエアカルチュアルフェスティバルで見た神に奉げるフラカヒコ(古典フラ)〕
 

ハワイの歴史をさかのぼったとき、不思議だと思ったことがあります。
カメハメハ大王は若干20歳前後のころ、イギリスからやって来たバンクーバー船長と親交を深くしていました。しかしカメハメハは、言葉の通じないバンクーバーと一体どのようにして国の治め方や諸外国との接し方を学んだのでしょうか。さらに、ハワイの首長たちとは違い、なかなか思うように収められない妻のカアフマヌとのいさかいの、仲介までやってもらったのです。バンクーバーがハワイを訪れていたのは1791年~1795年。宣教師がやってきた1820年よりずっと以前のことです。おそらく何度か太平洋の島々を訪れた船員の中には、タヒチ語と似ていたハワイ語をある程度理解する人間もいたのでしょう。彼らが簡単な通訳のような役目を行っていたのかもしれません。妻カアフマヌとの夫婦喧嘩は万国共通で、おそらくバンクーバーの仲介に、言葉は必要なかったのでしょう。
 

その後1820年にはキリスト教の宣教師がハワイにやって来て、西欧文化の大きな波が押し寄せます。宣教師たちはすでにタヒチなどで布教活動を始めており、タヒチ語にはある程度精通していたと言われています。ハワイでの布教を効果的に行うには、聖書をハワイ人に理解してもらうことが大切でした。そこでタヒチ語と類似していたハワイ語を、まずアルファベット表記し、ハワイ語による聖書ができました。このようにして、ハワイ語をテキストとして表記するようになったことが、これまでのハワイの口承文化に大きな変革をもたらしたのです。
 

当時ハワイでは西欧人との接触により様々な伝染病が蔓延し、免疫を持たなかったハワイ人の人口は急激に減少しました。(クック船長が来島した1778年にはハワイ人の人口は推定30万人、それが1892年には4万人に減少)。そこで文字を持たなかった古代ハワイ人の中で、口承だけではこれまでの伝統文化を伝えていけなくなるという危機感が、特に知識人の中に広まったと推測できます。ハワイ人は、猛烈な勢いで識字率を上げていきました。宣教師がやって来た1820年当時、識字率はほぼ0%だったのが、1860年には95%にまで上り、世界の中でもトップクラスの識字率だったといいます。(ユネスコでは識字率を「日常生活で用いられる簡単で短い文章を理解して読み書きできる15歳以上の成人」としています)
 

ハワイの識字率を上げたもう一つの大きな理由に、ハワイ語の新聞が多く発行されていたことがあります。当時、歴史家、知識人として活躍したデビッド・マロ、ジョン・パパ・イイ、サミュエル・カマカウなどは、こぞって新聞に投稿し、これまで口承で伝えられてきたものをハワイ語で書き残しました。(当時は新聞が、彼らの著作の発表の場であったのでしょう)。その内容は、王家の伝統文化、歴史を始め、世界のニュース、社説、宗教、物語、読者投稿など広範囲にわたり、多くの人が読んだようです。1834年から1948年までの114年間に100紙以上の週刊、日刊紙が発行されたといいます。新聞が当時のハワイの社会で、いかに大きな存在だったかが分かります。これらの投稿記事から、歴史、神話、物語などを抽出し、のちに英語に翻訳したものを、現在私たちは読んでいるのです。
 

最後に少し横道に外れます。
「ハワイ語とタヒチ語が似ている」ことに関して思っていることがあります。この二つの言語は、広い意味ではオーストロネシア語族に属します。西はマダガスカル島に始まりインドネシア、マレーシア、フィリピン、北は台湾、南はニュージーランド、そして太平洋のタヒチ、ハワイなど、東はイースター島、という広大な地域で使われていた言語です。私は以前、ハワイで3年間暮らし、その数年後シンガポール(公用語は英語、中国語、マレー語、タミール語)ジャカルタ(公用語はインドネシア語。インドネシア語はマレー語とほぼ同じ)に合計6年暮らしました。
 

ジャカルタで「火」のことを「api」と言います。あれ、どこかで聞いたことがある。そう、ハワイでは確か「火」のことを「ahi」と言っていた。「先生」はジャカルタでは「guru」、そういえばハワイでは「kumu」と言っていた。これらの言葉の類似性は私にとっては大きな驚きで、心の中に長く長くモヤモヤとくすぶっていました。その時はまだオーストロネシア語族などということは全く知りませんでした。
 

後日『カラカウア王のニッポン仰天旅行記(荒俣宏翻訳)』を読んで、はたと納得がいったのです。かつてハワイ王国7代目カラカウア王が世界一周の旅に出たときのことです。王はシンガポールの近くのジョホールという小さな国のパーティーに招待されました。彼らの言葉の中でハワイの言語によく似た単語が多くあることに王は驚き、「これは長いこと離れ離れになっていた兄弟の再会である」と言い合ったとあります。ジョホールで使われていたマレー語は、遠く離れたハワイの言語とよく似ていたのです。
 
カラカウア王

カラカウア王が感じた驚きと同じものを私も感じたと思うと、カラカウア王がぐっと身近に感じられました。
 

それからハワイ語とマレー語を調べてみると、数多く類似した言葉がありました。
 

無題
 
オーストロネシア語族が、それを使っていた人々と共にはるばる海を越えてハワイやタヒチにたどり着いた、と考えると、なんと雄大で夢のある話でしょうか。このことを知り、長年私のモヤモヤしていた気持ちは、ようやく吹っ切れました。(この人々の動きは、言語に限らず多くの文化を運んできました。それについてはまたいつの日か)。
 

次回は、当時歴史家、知識人として活躍したデビッド・マロ、ジョン・パパ・イイ、サミュエル・カマカウの3人が、西洋文明の大きな波が押し寄せてきた中で、どのような人生を送ったかについて、触れたいと思います。
 

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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。
 
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