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やさしいHAWAI’I 第76回 『カアフマヌの“たられば”』

【最近の私】ようやく爽やかな日が続くようになった中、10月23日、地元井草八幡宮の流鏑馬が久しぶりに執り行われた。4年に一度の神事だが、前回はコロナ禍で中止。地元の私たちにとっては、待ちに待った行事。目の前を馬が疾走し矢を射る迫力はなかなかのものだった。
 

ハワイ島の西部カイルア・コナからコナ空港の脇を通りカワイハエまでを南北に走るハイウェイは、クイーンカアフマヌ・ハイウェイと名付けられ、毎年アイアンマン世界選手権大会の自転車競技では、主にこの道路が使われます。コロナ禍の影響で、2020年、2021年と中止になっていたハワイで最も過酷なレース、アイアンマンは、3年ぶりに今年(2022年)10月6日~8日に再開されました。

クイーンカアフマヌ

かつてここに膨大な量の溶岩が流れたその中を、ひたすら北に向かって走る1本の道。
途中にワイコロア・ビレッジ、マウナラニ・リゾート、マウナケアビーチ・ホテルなどが点在し、ホテルに近づくと真っ黒に広がる溶岩の中から、突然オアシスのように緑の芝生が広がり、ブーゲンビリアやハイビスカスの鮮やかな花々が現れます。
 

そんなハイウェイに名付けられた、カアフマヌという女性。しかし、知られているのはカメハメハの妃になって以降のことで、彼女の幼少時代に関しては、ほとんど資料がありません。
 

ハイウェイ花
 

バイク
〔周囲が溶岩に囲まれているクイーンカアフマヌ・ハイウェイの中を走るバイク〕
Red Bull アイアンマン世界選手権2019レポート&フォトギャラリーから
https://www.redbull.com/jp-ja/2019-ironman-world-championship-report
 

このコラムの第75回(https://www.jvta.net/co/yasasiihawaii-75/)で、カメハメハ大王がハワイ諸島を統一し、1819年に亡くなった後を引き継いだのが『最もお気に入りの妃、カアフマヌ』と述べました。あの大王と言われたカメハメハに最も愛されたのは、なぜか。18人とも21人とも言われている多くの妻の中で、なぜカメハメハはカアフマヌを特別に愛したのか。一体彼女はどんな人物だったのか。わずかな資料を基に私は独自にカアフマヌ像を作り上げていくことにしました。
 

カアフマヌ
〔カアフマヌの肖像画〕  ハワイ観光局アロハプログラムから
https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/463
 

まずカアフマヌはどのような両親の下に生まれたのでしょうか。
 

父親はもとハワイ島コナの首長で、マウイ島の首長の血を引く母親と結婚します。しかしマウイ島には最強の首長がおり、マウイ島での力をさらに増大しようと、この結婚に強く反対しました。ハワイ島にいた両親は彼に追われ、モロカイ島へ、さらにはマウイ島のハナ湾に位置するカウイキに逃げました。カアフマヌが生まれた年に関しては、1768年、1777年など諸説ありますが、最強の首長の力が及ぶのを恐れ、母親は祖母の助けで、ひっそりとカウイキの洞窟の中でカアフマヌを出産しました。
明敏で誰からも信頼されていた祖母は、いみじくも「カアフマヌは将来ハワイの支配者となり、すべての親族が彼女の前にひれ伏すであろう」と予言し、後年その予言は現実のこととなったのです。
 

カアフマヌは3人姉妹で、他に兄弟が2人いました。父親は、好戦的で野心に富んだ人物でした。彼はハワイ諸島統一をもくろんでいたカメハメハの戦場に赴き、常に先頭に立って兵士を率い功績をあげ、カメハメハから大きな信頼を勝ち得ていました。そして将来ハワイ諸島のリーダーとなるのはカメハメハであると予測し、自分の娘3人をすべてカメハメハの妃にしたのです。
 

最初に送られたカアフマヌは、13歳(これも10歳だったという説もあります)の時からカメハメハの近くに置かれました。ハワイ諸島の統一に向け、日々激しい戦いが続く真っただ中に生き、カメハメハという偉大な征服者が権力を得ていく劇的な出来事を、カアフマヌは身近で目撃したのです。父親の好戦的で野心に富んだ血を受け継いだ彼女は、権力を持つことに強い魅力を感じたに違いありません。そして16歳の時にはカメハメハの妃となります。
 

カアフマヌ2
〔カアフマヌと言えば必ず使われる肖像画。短いカヒリ(棒の先に鳥の羽を飾ったもの。その人のマナが宿ると言われている)を持っていて、大柄で豊かな体つきをしている。〕
ハワイ観光局アロハプログラムから
 

そんなカアフマヌはとび抜けて美しい女性でした。ハワイの歴史家カマカウはこう言っています。
『カアフマヌは身の丈は6フィート(1.8m)スタイルが良く、非の打ち所がない魅力的な女性だった。彼女の腕はバナナの茎の内側のようで、指先は細く、頬はバナナのつぼみのように細長くピンク色…』
彼女の美しさが、すべてバナナに例えられているのはなぜでしょうか。実は古代ハワイでは、バナナは女性が決して食べてはならない食べ物であるという厳しいカプ(禁止を意味する。英語のタブーの語源となったポリネシア語)がありました。古代ハワイには、生活の隅々にまで及ぶ多くのカプがあり、中でも食に関するカプは大変厳しく、男女は決して一緒に食事をしてはならない(アイカプと呼ばれていました)、女性はバナナや豚肉、ココナッツを食べてはならない、等々。掟を破ったものはほとんどの場合死刑となるほど厳しいものでした。カアフマヌは、そんなカプの食べ物であるバナナに例えられていた、ということは、よっぽど美しかったのだろうと私は想像します。
 

カアフマヌは大変自己主張の強い女性だったようです。ほしいものは必ず手に入れる。白人の船がやって来る度に、彼女は白人たちと共にカプの対象となっていた豚肉も、酒も、すでに食していたようです。しかし何を食べても天罰が下らなかったので、このころからカアフマヌの心の中には、カプを恐れない心が芽生えていたに違いありません。カメハメハとの生活でも、カアフマヌはなかなか彼の言う通りにはならなかった。そんなところがまた、カメハメハの心を惹きつけたのでしょう。
 

母親を見れば、このカアフマヌの行動は何も特別なことではなかった、ということがよく分かります。イギリスの探検家ジョージ・バンクーバーは3回ハワイを訪れ、カメハメハと懇意になり、カアフマヌとも会っています。バンクーバーはハワイに滞在中、船にカアフマヌの両親を招待しました。当時のハワイの女性たちは、男性と共に食事をすればカプを破り死刑になると恐れたのですが、母親はどうしても参加したいと、夫と共にバンクーバーの船ディスカバリー号にやって来て食事をともにしました。母親は彼女自身の意思で自由の扉を開けたのです。カアフマヌはそんな母親の血も引き継いでいたのでしょう。
 

1819年カメハメハの臨終の折、『カメハメハは私を“クヒナ・ヌイ”(日本で言えば摂政。王と同じ権力を持つ)に指名すると言い残した』とカアフマヌは人々に宣言しました。この遺言により、カアフマヌはカメハメハ2世、3世を通して、実際にはハワイ王国で最も力を持つ人物となったのです。しかし臨終の場にはほかに誰もいなかったのですから、その真偽のほどは分かりません。
 

カメハメハの死後、カアフマヌはそれまでのハワイ社会の基盤であったカプをすべて撤廃しました。なかでも男女が一緒に食事をすることは最大のカプでしたが、“アイカプ(ともに食事をしてはならない)”は廃止となり“アイノア(ともに食事をする)”となりました。また、これまで信仰の対象となっていたヘイアウ(神殿または、神へ奉げる儀式をする場)はことごとく破壊され、偶像も燃やされました。ただペレ信仰だけは、秘密裏に存続していきました。火山は実際噴火し、周囲に脅威をもたらしたからです。火の女神ペレは人々の心の中に生き続けました。
 

カプを廃止することで、カアフマヌは単に男女の差別をなくそうとしただけなのでしょうか。いいえ、そこにはもっと深い彼女の権力への渇望があったのだと、私は思います。彼女にとって、カプとなっていた食べ物はすでに容易に手に入りました。しかし女性には決して許されなかった権力、すなわち神との交信を行えるのは、カフナ(神官または特殊技能をマスターした専門家たち)だけでした。カアフマヌは完全な権力を得るために、ハワイの神をも否定し、カフナの力を奪い、ヘイアウを破壊したのです。
 

ハワイの神を撤廃した時を同じくして、1820年キリスト教がハワイにやって来たことは、前回すでに述べました。カアフマヌはこの新しい宗教に接し、大きな光明を見たのでしょうか。それとも、このキリスト教をさらに自分の権力を確実なものにするために使おうとしたのでしょうか。カアフマヌは自らクリスチャンになりたいと申し入れ、1825年、神にのみ愛をささげることを誓い、ようやくエリザベスという洗礼名を授かります。自由奔放で、欲しいものはなんでも手に入れる貪欲なカアフマヌでしたが、ここで、“New Kaahumanu”が誕生したのです。これ以降のカアフマヌは、ハワイの人民のために、多くの功績を残します。彼女は自ら英語の読み書きを学び、ハワイの人民にも教育を与えるために、学校を開設しました。マウイ島には彼女の名前の付いた教会があり、最近では多くの日本人がここで結婚式を挙げるそうです。
 

そんなカアフマヌに関して、私がずっと考えているハワイ王朝の最大の『たられば』で今回を締めくくりたいと思います。
『もしも、カメハメハとカアフマヌの間に子供が生まれていたら…。』
カメハメハとカアフマヌには子供がいませんでした。もし、ハワイ諸島を統一したあのカメハメハと、長年古代ハワイの社会基盤となっていたカプを全廃したカアフマヌ、という卓越した能力を持ったふたりに子供が生まれたとしたら、一体どんな人物になったでしょうか。カメハメハの“聖なる妻”と呼ばれていたケオプオラニは心穏やかな、控えめな人物だったそうです。そんな彼女から生まれたカメハメハ2世と3世。もしかしたら、カアフマヌの子は、この二人を凌ぐ大物になっていたのかも。そうなるとハワイ王朝は、まったく違う状態になっていたかも。
 

そう、「たられば」の世界です。
 

オヒアレフア
〔ハワイの最大の神話「ペレ」に必ず登場する、オヒアレフアのハナ〕
 

【参考文献】
・『KAAHUMANU MOLDER OF CHANGE』 JANE L. SILVERMAN
・多文化社会ハワイ州における教育の実態と展望 田中圭次郎(日本の教育学者、佛教大学嘱託教授)
・アロハプログラム ハワイ州観光局が運営する公式ラーニングサイト https://www.aloha-program.com/
 

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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。
 
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やさしいHAWAI’I  第75回「シンクレティズム」

【最近の私】フェデラーが引退!!! ああ、ついにこの日が来てしまった。分かってはいたが、現実になってほしくなかった。
出てくる言葉はこれだけ。「ありがとう、ありがとう、感動をありがとう!」
 

『シンクレティズム』とは?
 

今回ハワイの宗教に関して調べているうちに、初めてぶつかった単語です。
 

『異なる文化の相互接触により多様な要素が混淆・重層化した現象をさす。宗教について用いることが多い』(百科事典マイペディアより)
 

これはまさに今回私がハワイに関して書こうと思った内容でした。
前回、メアリー・カヴェナ・プクイの祖母ポアイはキリスト教徒で、亡くなった時は当時としては初めてキリスト教式の葬儀を行った一人だったと述べました。(第74回 メアリー・カヴェナ・プクイは “ハパ・ハオレ”)ポアイはモルモン教徒でした。
 

少し歴史を遡ってみます。カメハメハ大王はハワイ諸島を統一したのち、1819年没。その後を引き継いだのは、カメハメハの最もお気に入りの妃と言われたカアフマヌでした。(彼女のことはいずれ詳しく述べるつもりです)。カアフマヌはそれまでのハワイの社会の基盤だったカプシステム(禁止事項のこと。例えば『男女が一緒に食事をしてはいけない』をはじめとし、生活の細々としたことまで厳しく制限する掟があった)を崩壊させ、ハワイ古来の宗教や神々を否定するという、大きな変革を行ったのです。そのためハワイ人はすがるものを失い、精神的空白ができました。そして1820年、実にタイミングよく、プロテスタントの宣教師がハワイへやって来て、その空白をキリスト教で埋めたのです。
 

神殿1
※ハワイ島マウナケアにある、神への捧げもの

神殿3
※ヘイアウ(神殿)
 

1827年にはカトリックもやって来ますが、すでにカアフマヌがプロテスタントを強く支持していたために、当時はなかなか広まることができませんでした。そしてモルモン教は1850年に布教が始まりますが、意外にもハワイで信徒の数を増やしていきます(オアフ島北東部にあるポリネシア文化センターはモルモン教・・・正式には末日聖徒イエス・キリスト教会・・・が経営する施設です)ポアイは1830年生まれですから、彼女が20歳のころモルモン教に出会ったわけですが、不思議なのは、ポアイの祖先は高位のカフナ(神官、医者、職人、呪術者など様々な分野における専門家のこと)であり、さらに昔をたどれば、火の女神ペレを守る神官でした。彼女自身もハワイ古来の生活様式や文化を大切にし、薬草の知識が豊富で、フラの秀でた踊り手でもありました。そんなポアイが、なぜ異国の宗教であるモルモン教を受け入れることができたのでしょうか。どうしてもその疑問が頭から離れません。モルモン教とほかのキリスト教との違いは何だったのか?
 

当時、たとえキリスト教がやって来ても、ハワイ人の心の中には、崩壊したはずの伝統的なハワイの宗教が根強く残っており、特にカフナの存在は大きいものでした。ハワイ人が病気や死に際してカフナと接触し、古来の神々のマナ(霊的な力)に頼るということはこれまで代々伝承されてきたことで、彼らにとっては自然のことだったのだと思います。同じようにプクイ女史の祖母ポアイが、モルモン教徒になりながら、伝統的な文化をしっかり守っていたのは、当然のことだったのでしょう。
 

ペインテッドチャーチ1 ペインテッドチャーチ2
※ハワイ島カイムにあるペインテッドチャーチ
 

中でも、ペレ信仰は根強く残りました。ハワイ諸島は火山活動によってできた島々で、いまだにハワイ島では活発な火山の噴火、溶岩流が見られます。人間の力のとうてい及ばない自然の脅威は、そこに神がいると信じざるを得ないのです。そしてハワイ人は火の女神ペレに奉げるためにフラを踊りました。ただ、プロテスタントとカトリックは、フラは腰を振る卑しい踊りとし、踊ることを禁じていました。ではモルモン教は?
 

いろいろと調べてくると、ポアイがモルモン教を選択した理由が分かってきました。
ハワイとキリスト教を研究している天理大学国際学部教授、井上昭洋さんによると、『モルモン教宣教師は、フラなどの伝統芸能に比較的寛容であり、また、ポリネシア人は古代ヘブライ人の子孫であるというこの宗派独自の教義も手伝って、彼らはハワイ人の間に信徒を獲得していく』とあります。
 

これで合点がいきました。古来の宗教やフラ、そして先祖(ハワイ語でクプナ)を重視していたハワイ人のポアイにとって、新しく入ってきたキリスト教の中では、プロテスタントでもなく、カトリックでもなく、モルモン教が最も近づきやすかったわけです。こうして、ハワイの伝統信仰や文化とキリスト教文化が接触し、宗教面のみならず、ハワイ人の生活、文化すべてに関して、大きな変革が起きていきました。
 

その後、ハワイの砂糖産業の振興により、1852年の最初の中国人移民をはじめ、1868年には元年者と呼ばれた日本人最初の移民、他にポルトガル、韓国、フィリピンなど、様々な国から大勢の移民がやって来ます。彼らはそれぞれ異なった文化背景、宗教を抱えて移住しました。これによりハワイは人種のみならず、宗教、文化すべにおいて多様性を持つようになったのです。
 

話は少し外れます。私は1980年代に4年間シンガポールで生活をしましたが、この国は大変興味深い国でした。シンガポールの国歌は、マレー語です。民族は中国人76%、マレー人15%、インド人7.5%(2019年外務省資料による)、言語に関しては、国語とされているのはマレー語、公用語が英語、中国語、マレー語、タミール語。そして、年4回新年があり、Chinese New Year(中国), Hari Raya Puasa(マレー), Deepavali(インド), New Year’s Day(キリスト教)です。大統領も各民族集団から選ばれ、現在はマレー民族の初の女性が大統領となっています(大統領は行政権を持ちません。実際に政治の主導権を持つのは首相です)。国内の政治経済に関しては最多人口である中国系の人々が中心となっていますが、中国系の間でも、広東語、福建語など出身地によって全く言葉が通じず、英語が苦手の年配の中国人は共通語として北京語を使います。食べ物も、一般的にインド系の人は牛肉を食べず(牛は神)、マレー系は豚を食べず(イスラム教)、中国人はなんでもOK(チャイナタウンに行くと、サル、コウモリなども売っています)。このような大きな違いを抱えながら、互いの民族はそれぞれの存在を尊重し、民族間の諍いはなく、内政的に大変安定した状況です。多様性を認めたうえで、みな同じシンガポーリアンなのです。
 

ハワイでお世話になった日系二世のヨコヤマさん一家も、徐々に多様性を持つようになりました。当時(1970年代)ヨコヤマさんの長女に子供がいなかったため、養子をもらうことになったのですが、ヨコヤマさんは日本から紹介を受けると決めていました。そうすれば決して混血にはならないということが理由でした。おそらく二世ぐらいまでは、そういう考えの日系人が大多数でした。しかし、甥のジョージ一家の次女は、フィリピン人が4分の1入っている男性と結婚しました。それは当然の流れなのです。宗教的にも、ヨコヤマさんは仏教徒で自宅には立派な仏壇が飾ってありましたが、妹のシマダさんはクリスチャンでした。ヒロのホンガンジで盆踊りがあれば、日系人のみならず多くの白人がやって来て、浴衣を着、うちわを持って楽しそうに輪になって踊ります。
 

日系人の集団墓地の入り口に置いてある仏像
※日系人の集団墓地の入り口に置いてある仏像
 

お大師さん1 お大師さん2
※ハワイ島ホノムの町にあるお大師さん 真言宗Henjoji Mission お坊さんのお経は日本語だが、説教は英語で行われる
 

違う文化、宗教が接触すれば、それらが混合して新しい文化が生じ、また並立、共存して互いを尊重しあう、それが理想の文化交流なのではないでしょうか。世界が狭くなり、簡単に行き来ができる現代です。世界中でハワイやシンガポールと同じように『シンクレティズム』の現象が起き、『異なる文化の相互接触により多様な要素が混淆・重層化』すれば、現在あちこちで起きている国同士の諍いも、少しは減っていくのではないでしょうか。困難であることは分かっています。でも、ジョン・レノンが言っているではありませんか。
 

Imagine there’s no countries
It isn’t hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion, too
 
You may say I‘m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as one
 

『Imagine』より
作詞・作曲: ジョン・レノン/オノ・ヨーコ

 

世界の現状を見れば、確かにこれは夢のような話かもしれません。しかし、時間をかけてでも、いつかこのような世界が生まれることを、私は心から願います。地球上にまだ人間が存在できている間に、そんな理想の世界が現実となりますように。
“John, I will surely join you.”
 

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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
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やさしいHawaii 第74回 メアリー・カヴェナ・プクイは “ハパ・ハオレ”

【最近の私】「コロナでハワイへ行けない!!!」 ハワイ好きは今、みんなそう思っている。でも皮肉なことに観光客が激減して、ハワイの海は本来の美しさを取り戻したようだ。
 

今回はメアリー・カヴェナ・プクイ女史をとりあげます。
 

プクイ女史
※プクイ女史
出典:『Mary kawena Pukui Cultural Preservation Society』 
 

プクイ女史は、前回取り上げたデビッド・マロ(第73回 ハワイの未来を予言した男https://www.jvta.net/co/yasasiihawaii-73/)からちょうど100年後の1895年に生まれました。彼女がなぜハワイの文化において、バイブルと言われるほど欠くことのできない重要な人物であるのか。それは彼女の残した功績から明らかです。プクイ女史は50冊以上の訳書や著書、150曲以上のハワイ語の歌詞を作りました。また、前回のデビッド・マロを始め、ジョン・パパ・イイや、サミュエル・カマカウなど19世紀の知識人がハワイ語で書き記した歴史や文化のほとんどを、プクイ女史が英訳しました。これは彼女が英語とハワイ語をともに母語としていたからこそ可能だったことです。中でも最も大きなものは、1957年に完成したエルバートとの共著『Hawaiian Dictionary』です。ほぼ3万語のハワイ語を抱えるこの辞書はハワイ語を学ぶ人々にとって、なくてはならないものとなっています。そして私にとって大変思い入れの強い一冊が『The Polynesian Family System in Ka’u ,Hawaii』です。2002年の夏、ハワイ大学ヒロ校のサマーセッションを受講した折、Hawai’i ‘Ohana という授業で使った教科書でした。
 

ThePolynesin Family System in Ka ’u Hawaii
※プクイ女史の著作の1冊『The Polynesian Family System in Ka‘u Hawaii』 筆者所有の書籍より
 

それまでの保守的なハワイ人は自分たちの文化や教えを他人に詳らかにすることを躊躇しましたが、プクイは「自分たちの孫のために、これを残すのです」と、白人の価値観をもとに公に記録を残しました。そこに大きな価値がありました。
 

あまりに著名なプクイ女史の功績を並べることは簡単です。それより私は、彼女の“ハパ・ハオレ”としての個人に大変興味を持ちました。
 

“ハパ・ハオレ”とは何か?
 

みなさんは、“ハパ”というハワイアンミュージックのグループをご存じでしょうか。ニューヨーク生まれの金髪で白人のバリー・フラナガンが、1980年ハワイにやって来てすっかりハワイの虜となり、ハワイ人のケリィ・カネアリィとデュオを組んで生まれたのがハパ。そして1992年発表したアルバム『Hapa』は大ヒットしました。バリーの見事なスラックキー・ギターに、ケリィの味のあるヴォーカル。そしてトラディショナルからポップまで様々なスタイルでアレンジされた美しいメロディ。彼らはなぜデュオの名をハパと名付けたのでしょうか。ハワイ語でhapaとは、上記のプクイ女史の辞書によると“portion, fragment, part”そして“person of mixed blood”とあります。一人はニューヨーク生まれ金髪の白人、もう一人は生粋のハワイ人というこのデュオは、白人とハワイ人が半分ずつ、という意味でハパと名付けたわけです。(ハパの音楽に関して書き始めると大きく道が外れるので、いつか改めて書きたいと思います)
 

Hapa
※筆者所有のCD
 

プクイの父親はマサチューセッツ出身のヘンリー・ナサニエル・ウィギンという白人(ハワイ語でハオレ)で1892年にハワイへやって来ました。ハワイ島のシュガープランテーションで働いていましたが、後にオアフへ移り、刑務所の警備の仕事に就きます。母親のパアハナはハワイ人でした。家庭内では、白人の父親はハワイ語が流暢であるにも関わらず、プクイに英語で話し、母親はハワイ語のみを使いました。ですからプクイは生まれながらにバイリンガルだったのです。プクイを“ハパ・ハオレ”と言った所以は白人の父とハワイ人の母を持つということにあります。この“ハパ・ハオレ”であることが、彼女のその後の人生を決めたといえるでしょう。
 

ハワイではかつて、女の子が生まれると母方の祖母に預け、ハワイの慣習を学ばせる、ということがよくありました(ハワイ語でハナイ、つまり養子)。父親は白人だったにも関わらず、プクイを祖母であるポアイに預けることを受け入れます。彼女はポアイからハワイの全般にわたる多くの文化を学びました。プクイが6歳の時祖母が亡くなり、再び両親のもとに戻りますが、プクイに大きな影響を与えたこの祖母ポアイとは、どのような人物だったのでしょうか。
 

ポアイは1830年生まれで、ハワイ島カウ地域の女首長の血筋を持ち、遠くをたどれば火の女神ペレを守る神官でした。また薬草に詳しく助産婦でもあり、自分の子供は最後の子を除き、自身だけで出産したそうです。ハワイの宗教、歴史、儀式などに深く精通し、フラは、クイーン・エマのお抱えフラ・ダンサーでもありました。
 

ポアイは、守護神(ハワイ語でアウマクア)は家族にとってとても大切だとプクイに教えました。それぞれの家庭にはサメ、フクロウ、トカゲ、ネズミ、ウナギ、石、植物などの守護神がいて、家族を守っているのだと。
 

私がハワイにいたときこんな話を聞きました。ボルケーノへ行く道の交差点を横切ろうとした車が、対向車に気づかず衝突しそうになった瞬間、目の前にフクロウが現れ、それを避けようとハンドルをきったおかげで事故を免れた。運転していた人の守護神はフクロウだったということです。また、ハワイでは指で何かを指すことはいけないとされています。虹や雲をむやみに指さしてはいけない、それは誰かの守護神であるかもしれないのだから。また、見知らぬ人から食べ物や飲み物を求められたら、拒んではいけない。その人はもしかして火の女神ペレが姿を変えているかもしれないから。このような、昔からのハワイの教えの多くをプクイは祖母ポアイから学んだのです。私もまた日系二世の方から、このような話は何度も聞きました。現在もペレはしっかり生きているのです。
 

ポアイの教えで大変興味深いものがあります。
プクイが11カ月になった時、ポアイは離乳の儀式を行いました。ポアイが“ク”と“ヒナ”神に赤ん坊の母乳への欲求を取り去るように祈りを奉げた後、孫のプクイを膝にのせ、その前にお乳を表わす石を2つ置きます。ポアイは、まだ言葉が話せないプクイの代わりに、母親のパアハナに尋ねます。「お前はもう、おっぱいを欲しがらないか?」。するとわずか11カ月のプクイは前に置いてある石をつかんで放り投げて、もう母乳を欲しがらないことを表明するのです。日本では最近、若いママは『卒乳』という言葉を言います。これは母親のほうから離乳を勧めるのではなく、赤ん坊が自ら母乳を欲しがらなくなるまで待つという離乳のやり方です。何が正解なのか、こればかりは分かりませんが、時代や場所によって“離乳”一つでも全く違うことに、母親を経験した私は、大いに興味を持ちました。
 

プクイが6歳の時、ポアイは亡くなりました。古代ハワイでは亡くなった人の骨を赤と黒のカパ(木の皮をたたきなめして布のようにしたもの)に包み、キラウエアの火口から投げ込んでペレのもとに送るのが習わしでした。しかしポアイは敬虔なキリスト教徒で、彼女の世代としては初めてキリスト教式の埋葬をされた一人でした。
 

ハワイは1893年ハワイ王国の終焉を迎え、その後アメリカ合併に向け英語教育が進められました。また学校教育の場ではハワイ語を使用することが禁止されます。
プクイが15歳、ホノルルにあるカワイアハオ神学校に通っていた時のことです。ほとんど英語を話せない地方出身のある女子生徒がいて、プクイに助けを求めてきました。当時ハワイの田舎ではまだ英語を話せない人も大勢いたのです。プクイは英語もハワイ語も達者でしたから、もちろんハワイ語で応対してあげました。ところが禁止されているハワイ語を学校で話したという理由で、プクイはひどく叱られ、1週間全生徒の前で一人テーブルに座らされ、水とパンしか与えられず、家族のもとに帰宅することも許されませんでした。自分たちの言葉で話すことが、そんなにいけないことなのか。クプイは大変傷つき、母親のパアハナも激怒してこの事件以降娘を途中退学させます。
 

これと同じようなことが日系移民の中でも起きました。移民としてハワイへ移住した日系一世は、もちろん英語が話せません。ハワイで生まれた日系二世は、学校に通いながら英語を学びましたが、家に帰れば親は英語が分からず、日本語で話さなくてはなりません。また、フィリピン、ポルトガル、韓国、中国など、母国語が全く違う国々からやって来た移民は、互いのコミュニケーションのために必要に迫られて、ピジンイングリッシュと呼ばれる共通語が、自然発生的に話されるようになりました。(『ハワイ研究への招待 フィールドワークから見える新しいハワイ像』(関西学院大学出版会)によると、『ピジン”とは、”共通の言語を持たない人々の間でコミュニケーションの手段として用いられる、簡略化された補助言語』と定義されています)。
 

ハワイで生活をしていた当時、親しくしていた日系二世のヨコヤマさんから最初にこの言葉を聞いた時、私は”ピジン(pidgin)”を”ピジョン(pigeon鳩)”の意味で言っているのだろうと誤解しました。“ハワイの日系人の少しブロークンな英語を、鳩の鳴き声のような英語という表現をしている”と思ったのです。子供たちも当然、ピジンイングリッシュを使って遊びます。ですから日系二世は学校では英語、家に帰れば日本語、そして友達同士では学校でもつい禁止されているピジンイングリッシュを使ったのです。しかしこれは正しい英語ではないと、プクイと同じように、学校で教師からひどくしかられました。
 

“自分たちの言葉を使うことを禁じられる”。日本人はそういう経験をしたことこがありません。ハワイの人々は言葉だけではなく、すべての文化を否定された時期がありましたが、プクイのような、ハワイ語を残そうという強い思いは、その後1960年代末の「ハワイアン・ルネサンス」へと繋がっていきます。
 

1913年、プクイが18歳の時ナポレオン・カロリイ・プクイと結婚します。二人には長い間子供ができず、1920年にインフルエンザの流行で孤児となった日本人の女の子を養女に迎え、ペイシェンス(Patience)と名付け、翌年、日本人とハワイ人の混血の孤児を再び養女にし、フェイス(Faith)と名付けました。その後1931年にようやくプクイに子供ができペレ(Pele)と名付けました。ペレはプクイの教えで素晴らしいフラダンサーになりますが、1979年エディス・カナカオレ(フラの第一人者)の受賞式で、アリヨシ州知事の前でチャント(詠唱)を唱えている時、心臓の発作で亡くなってしまいます。
 

夫のカロリイについては詳しい情報はほとんどなく、どれを見ても1943年、突然亡くなったとしか出ていません。辛うじてたった一つ、孫のラアケア・スガヌマが会長をしている、Mary Kawena Pukui Cultural Preservation Societyの中に、「カロリイがオピヒを採りに出かけて、海に落ちた」とう記載があります。オピヒというのはカサガイの仲間でハワイ固有の貝。表面を磨くと美しい光沢が出て、ペンダントトップなどのアクセサリーになります。波の荒い危険な岩場にくっついており、採るのは命がけです。
 

オピヒ1 オピヒ2
※オピヒ 出典:Maui Ocan Center
 

かつてハワイにいたとき、日系のヨコヤマさんの甥、ジョージが、初孫のお祝いパーティを開いたことがありました。体育館のような広い会場いっぱいにテーブルとイスが設置され、舞台ではカウからやって来たハワイアンバンドが歌い豪華なご馳走が並ぶ、とても華やかなパーティでした。そのご馳走の中でもひときわ目を引いたのがオピヒです。ジョージは私に「自分がとってきたオピヒがあるから、ぜひ食べなさい」と勧めてくれた言葉を思い出します。孫のためにオピヒを命がけで採ってきた、ということは、それだけ孫を深く愛しているということの現れなのです。プクイの夫カロリイは、常々自分は海で死にたいと言っていたそうです。気難しい人だったようですが、家族のために命を懸けて危険なオピヒ採りに行ったのでしょうか。その死は謎のままです。
 

プクイは1986年、91歳で亡くなりました。晩年はハワイのお年寄りからの様々な思い出話やインタビューをテープに記録したり(ビショップ博物館に保存されています)ハワイ語をYWCAで教えたり、カメハメハ・スクールでフラを踊ったりと、最後までハワイの文化と言語を残すことに努力しました。彼女がモットーとしていたのは、
 

『Knowledge to me is life』 (私にとって知識は人生…生きること) 扇原訳
 

でした。
 

私がハワイにいた1973~75年当時、プクイはまだ80歳前後。その時にもし今のように彼女のことを知っていたら、と思うと、本当に残念です。なんとしても一目会っておきたかった! 
 

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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。
 
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やさしいHawaii 第73回 ハワイの未来を予言した男

【最近の私】ここ1週間ほど暑さが急だったので、体がついていかない。でも今日あたりはだいぶ慣れてきて、やっぱり「夏が好き」。
 

今回取り上げるのは、デビッド・マロというハワイの歴史家です。
あのカメハメハ大王が最も強い勢力を持ち、ヌウアヌパリでの戦いに勝利しハワイを統一した時とほぼ同じ時代に、マロは生まれました。父親はカメハメハ軍に仕え、彼自身もカメハメハの妻カアフマヌの弟クアキニと親交があったため、古代ハワイの歴史、神話などの造詣を深くし、伝統、メレ(詠唱)、王族の家系、フラなど、広い分野での豊富な知識を持っていました。彼は古代ハワイの文化の中で人生の前半を過ごし、口承文化の時代の語り部として活躍しました。
 

ところが1820年、キリスト教の宣教師がやって来て以降、ハワイの社会は根源にかかわることすべてに大きな変化が起きます。これまでのハワイの宗教、神、文化がすべて否定され、古代ハワイの生活を厳しく規制する基本となったカプ(タブー)制度が崩れました。
 

マロは古代ハワイの中で育ち、その文化について高い知識を持ちながら、後にキリスト教の布教によって強い影響を受けます。ハワイの古代文化について貴重な資料を著し、また聖書のハワイ語翻訳にも尽力する功績を残しますが、大きな社会の変化の狭間でマロは苦しんだのです。
 

まずは、彼の予言(1837)です。
 
1
※〔写真は『Hawaiian Antiquities』 から〕

“If a big wave comes in, large fishes will come from the dark ocean which you never saw before, and when they see the small fishes they will eat them up; such also is the case with large animals, they will prey on the smaller ones;
The ships of the whitemen have come, and smart people have arrived from the Great Countries which you have never seen before, they know our people are few in number and living in a small country; they will eat us up, such has always been the case with large countries, the small ones have been taken Over throughout the world.”
(この原文はハワイ語で書かれていたため英訳はいくつかあり、部分的に少し違いがありますが、大勢は同じ)
 

デビッド・マロの予言(1837年)
『大きな波が押し寄せ、見たこともない暗い大海から巨大な魚がやってくる。その巨大な魚は小さな魚を見つけるとぺろりと平らげる。大きな動物も同じことだ。彼らは小さな動物を餌にして食い尽くす。
白人が乗った船がやってきた。頭のいい彼らは、見たこともない巨大な国々からやって来た。彼らは我々が民の数も少ないし国も小さいことを知っている。そして我々をぺろりと平らげるだろう。大国というものは常にそうしてきた。小さな国々は世界中でずっと、そういう目にあってきたのだ。』(扇原訳)
 

これはデビッド・マロが42歳の時、ハワイの未来を予知し憂えた言葉です。後々、この予言は彼自身の死にまで影響を及ぼすことになります。
 

デビッド・マロは1795年、ハワイ島コナの北部ケアウホウで生まれました。古代ハワイ文化に囲まれた環境の中で育ち、語り部としてハワイの伝統文化を伝えていました。(デビッド・マロの生まれた年に関しては諸説ありますが、最も信頼性の高いBishop Museum Press の情報をとりました)
 

その後、マウイ島ラハイナに移り、宣教師ウィリアム・リチャード牧師と知り合い、強い影響を受けます。36歳前後にハワイで最古のミッションスクール、ラハイナルナ・スクールの一期生として、最年長で入学します。マロは入学前にリチャード牧師から英語の手ほどきを受けていたので、スクールでは生徒というより、むしろ教師の役割が大きかったようです。しかし英語の読み書きを学んだマロではありましたが、36歳からの全く新しい言語の習得はかなり困難でした。
 

リチャード牧師の影響でキリスト教に改宗したマロは、クリスチャン・ネームのデビッドを授けられました。そして牧師が聖書をハワイ語に翻訳するのを手伝います。それまで古いハワイの信仰の中で育ったマロでしたが、改宗以降は古代ハワイの宗教儀式などを軽蔑し始め、自身が育った文化を見下すようにさえなりました。おそらくキリスト教文化に対する渇望の裏で、同時に強い恐れも感じたのだろうと思います。自分が育った古代ハワイが、いつの日にかキリスト教文化に支配されてしまうのではという不安から、古代ハワイを否定するようになったのではないでしょうか。
 

ラハイナルナ・スクールの周囲の白人たちは、マロの古代ハワイに関する高い知識が大変貴重であることに気づいていました。中でも、スクールの創始者であるロリン・アンドリュースはマロに古代ハワイの宗教や歴史に関してハワイ語で記述することを勧めます。このハワイ語で記された『Moolelo Hawaii』は1838年に出版。後にナサニエル・エマーソンによって英訳されて『Hawaiian Antiquities』として出版されました。マロの著書の英訳で出版されたものは、これが唯一の本です。(ハワイ語ではほかにカメハメハ一世について書いたと言われていますが、その原稿は発見されていません)。
 
2
〔Hawaiian Antiquities by David Malo〕
 

『Hawaiian Antiquities』のハワイ語の原本と英訳については、翻訳されてから1世紀以上経つ現在、様々な疑問点が出てきています。翻訳するということは、大変な作業です。一世紀後にも、こうして問題点を指摘されることがあるのですから。
 

エマーソンは『Hawaiian Antiquities』の前文で、マロについて個人的な情報を語っていますが、その最後の部分に、思いもかけないことが記されていました。
『作家としてのマロが背負っていたハンディの一つに、ペンを使用する経験の未熟さがあった』。
口承文化の中では、ペンを持つ必要がなかった。実はペンで文字を書くことがマロにとっては大きな障壁であったのだという、想像もしなかった事実に改めて気づかされました。
 

最後に、マロに関するわずかな資料の中で、個人生活に触れたいと思います。
 

彼は3回結婚しました。
最初の結婚はマウイ島に移動する前に、Aa-lai-oa(1790?~1822)という、首長の未亡人との結婚です。彼女はマロより5歳年上でした。マウイの大首長カヘキリの娘、という説もありますが、おそらくそうではないようです。古代ハワイでは、たとえ身体的に魅力がなくても、富と地位があれば女性が男性を選ぶことはよくあることだったようです。マロは背が高く引き締まった体形をし、行動的で雄弁な人物だったと、エマーソンは記しています。そんなところにこの首長の未亡人は魅かれたのかもしれません。子供はできず、マロが27歳の時に亡くなりました。
 

その後マウイ島に移り住み、2番目の結婚をします。妻の名はPahia(1796~1845)。彼女も女首長の血を引く女性だと言われています。キリスト教徒になり、洗礼名をBathshebaといいます。やはり子供はいませんでした。マロの妻としては、このPahiaだけが正式な記載があります。
 

最後の結婚は悲惨な結果になりました。妻はLepeka(1810~1853)といい、マロより15歳若い女性でした。洗礼名をRebeccaといいます。娘が一人生まれ、名前を最初の妻の名をとり、Aa-lai-oaと名付けました。エマーソンによると、この女性は大変奔放な性格で、その自堕落な行動がマロの心に重くのしかかり、彼を深く傷つけました。マロは苦しんだ末に食事をとることを拒み衰弱していきます。彼が牧師をしていた教会のメンバーが集まって回復を祈りましたが、無駄でした。マロは最後の望みを彼らに託します。それは『自分をカヌーに乗せてラハイナに運び、母校であるラハイナルナ・スクールの裏手にあるマウント・ボールと呼ばれる丘に葬ってほしい。そこなら西欧の侵略の波は押し寄せてこないだろう。そこなら自分の墓の上に白人が家を建てることもないだろう』
 

1853年、彼の遺体は望みどおり、マウント・ボールに安置されました。58歳の生涯でした。
3 4
※デビッド・マロの墓
写真はともに『Images of Old Hawaii』から
 

マロが42歳の時に書いた、あの『巨大な魚が小さな魚をぺろりと平らげる』という予言に、彼自身、生涯縛られていたのでしょうか。西欧の文明とキリスト教の文化に魅了された一方で、その波にのまれるハワイを強く憂えたマロ。変わりゆく二つのハワイの狭間で、彼は人一倍強く苦しみを感じたに違いありません。
 

<参照>
『Hawaiian Antiquities Mo’olelo Hawai’i』 by David Malo
Translated by Nathaniel B. Emerson
 

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やさしいHawaii 第72回 ハワイ語 口承からテキストへ

【最近の私】コロナ、オミクロン・・・この2年半余りは人間が振り回された感がありますが、徐々に以前の生活を取り戻せそうな、今日この頃。私も気を付けながら、交友を復活です。
 

先日私は、2年ぶりにJVTAに伺いました。
久しぶりにスタッフの方々とお会いし、とても楽しいひと時を過ごしました。私は相変わらずハワイの話題で盛り上がったのですが、その時ある方から「文字を持たなかったハワイの文化が、どのようにして現在に伝えられたのだろうか」と、訊かれました。私は漠然としたことは分かったつもりだったのですが、明確な説明ができませんでした。このひと言がきっかけで、改めてハワイの文字文化の変遷について調べてみることにしました。
 

古代ハワイの人たちは、文字を持ちませんでした。ですから、当時の歴史、伝統などに関しては、明確にテキストとして表記されたものが残っていないため、これが絶対に正しいと断定することは難しく、推測の域を出ないものもあります。また、多くの島からなるハワイでは、おそらく地域によって話されていたハワイ語や発音も多少違いがあったと想像されます。何代も語り継がれてくると、その内容も少しずつ変わってきたかもしれない、という可能性も否定はできません。そんな事実を前提に、文字を持っていなかったハワイが、どのようにして現在に至ったのかを、多くの資料から紐解いていきたいと思います。
 

文字が存在しなかったハワイの世界は、古老たちがハワイ王家の血統、歴史、神話、伝統などを次世代に語って聞かせる、口承の文化でした。それに加え大変重要な存在だったのが、フラです。神への祈りであるメレ(詠唱)が歌われ、神にささげるフラを踊ることによって、ハワイの豊かな文化が伝えられていきました。ただフラに関しては、あまりに膨大な内容なので、ここでは文字文化に限ります。
 
フラ
〔キラウエアカルチュアルフェスティバルで見た神に奉げるフラカヒコ(古典フラ)〕
 

ハワイの歴史をさかのぼったとき、不思議だと思ったことがあります。
カメハメハ大王は若干20歳前後のころ、イギリスからやって来たバンクーバー船長と親交を深くしていました。しかしカメハメハは、言葉の通じないバンクーバーと一体どのようにして国の治め方や諸外国との接し方を学んだのでしょうか。さらに、ハワイの首長たちとは違い、なかなか思うように収められない妻のカアフマヌとのいさかいの、仲介までやってもらったのです。バンクーバーがハワイを訪れていたのは1791年~1795年。宣教師がやってきた1820年よりずっと以前のことです。おそらく何度か太平洋の島々を訪れた船員の中には、タヒチ語と似ていたハワイ語をある程度理解する人間もいたのでしょう。彼らが簡単な通訳のような役目を行っていたのかもしれません。妻カアフマヌとの夫婦喧嘩は万国共通で、おそらくバンクーバーの仲介に、言葉は必要なかったのでしょう。
 

その後1820年にはキリスト教の宣教師がハワイにやって来て、西欧文化の大きな波が押し寄せます。宣教師たちはすでにタヒチなどで布教活動を始めており、タヒチ語にはある程度精通していたと言われています。ハワイでの布教を効果的に行うには、聖書をハワイ人に理解してもらうことが大切でした。そこでタヒチ語と類似していたハワイ語を、まずアルファベット表記し、ハワイ語による聖書ができました。このようにして、ハワイ語をテキストとして表記するようになったことが、これまでのハワイの口承文化に大きな変革をもたらしたのです。
 

当時ハワイでは西欧人との接触により様々な伝染病が蔓延し、免疫を持たなかったハワイ人の人口は急激に減少しました。(クック船長が来島した1778年にはハワイ人の人口は推定30万人、それが1892年には4万人に減少)。そこで文字を持たなかった古代ハワイ人の中で、口承だけではこれまでの伝統文化を伝えていけなくなるという危機感が、特に知識人の中に広まったと推測できます。ハワイ人は、猛烈な勢いで識字率を上げていきました。宣教師がやって来た1820年当時、識字率はほぼ0%だったのが、1860年には95%にまで上り、世界の中でもトップクラスの識字率だったといいます。(ユネスコでは識字率を「日常生活で用いられる簡単で短い文章を理解して読み書きできる15歳以上の成人」としています)
 

ハワイの識字率を上げたもう一つの大きな理由に、ハワイ語の新聞が多く発行されていたことがあります。当時、歴史家、知識人として活躍したデビッド・マロ、ジョン・パパ・イイ、サミュエル・カマカウなどは、こぞって新聞に投稿し、これまで口承で伝えられてきたものをハワイ語で書き残しました。(当時は新聞が、彼らの著作の発表の場であったのでしょう)。その内容は、王家の伝統文化、歴史を始め、世界のニュース、社説、宗教、物語、読者投稿など広範囲にわたり、多くの人が読んだようです。1834年から1948年までの114年間に100紙以上の週刊、日刊紙が発行されたといいます。新聞が当時のハワイの社会で、いかに大きな存在だったかが分かります。これらの投稿記事から、歴史、神話、物語などを抽出し、のちに英語に翻訳したものを、現在私たちは読んでいるのです。
 

最後に少し横道に外れます。
「ハワイ語とタヒチ語が似ている」ことに関して思っていることがあります。この二つの言語は、広い意味ではオーストロネシア語族に属します。西はマダガスカル島に始まりインドネシア、マレーシア、フィリピン、北は台湾、南はニュージーランド、そして太平洋のタヒチ、ハワイなど、東はイースター島、という広大な地域で使われていた言語です。私は以前、ハワイで3年間暮らし、その数年後シンガポール(公用語は英語、中国語、マレー語、タミール語)ジャカルタ(公用語はインドネシア語。インドネシア語はマレー語とほぼ同じ)に合計6年暮らしました。
 

ジャカルタで「火」のことを「api」と言います。あれ、どこかで聞いたことがある。そう、ハワイでは確か「火」のことを「ahi」と言っていた。「先生」はジャカルタでは「guru」、そういえばハワイでは「kumu」と言っていた。これらの言葉の類似性は私にとっては大きな驚きで、心の中に長く長くモヤモヤとくすぶっていました。その時はまだオーストロネシア語族などということは全く知りませんでした。
 

後日『カラカウア王のニッポン仰天旅行記(荒俣宏翻訳)』を読んで、はたと納得がいったのです。かつてハワイ王国7代目カラカウア王が世界一周の旅に出たときのことです。王はシンガポールの近くのジョホールという小さな国のパーティーに招待されました。彼らの言葉の中でハワイの言語によく似た単語が多くあることに王は驚き、「これは長いこと離れ離れになっていた兄弟の再会である」と言い合ったとあります。ジョホールで使われていたマレー語は、遠く離れたハワイの言語とよく似ていたのです。
 
カラカウア王

カラカウア王が感じた驚きと同じものを私も感じたと思うと、カラカウア王がぐっと身近に感じられました。
 

それからハワイ語とマレー語を調べてみると、数多く類似した言葉がありました。
 

無題
 
オーストロネシア語族が、それを使っていた人々と共にはるばる海を越えてハワイやタヒチにたどり着いた、と考えると、なんと雄大で夢のある話でしょうか。このことを知り、長年私のモヤモヤしていた気持ちは、ようやく吹っ切れました。(この人々の動きは、言語に限らず多くの文化を運んできました。それについてはまたいつの日か)。
 

次回は、当時歴史家、知識人として活躍したデビッド・マロ、ジョン・パパ・イイ、サミュエル・カマカウの3人が、西洋文明の大きな波が押し寄せてきた中で、どのような人生を送ったかについて、触れたいと思います。
 

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やさしいHawaii 第71回 「ジョージとの思い出」

【最近の私】半年延びてしまった家のリフォーム。この寒さの中、中庭に面した壁をぶち抜いたので、家じゅうがさ・む・い。工事の都合だと思うが、ブルーシートに囲まれて、急に現場感満載!!早いとこ工事を進めてほしい。
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2019年12月14日のエミからのメールだ。
「Aloha!! Just wanted to let you know that George passed away on December 8, 2019. Diabetes and other illness compounded made him difficult to recover, spent in the hospital the last two months, never made it home……..
(アロハ!2019年12月8日、ジョージが亡くなったことをお知らせします。糖尿病だけでなく、その他の病気もあり回復が困難で、2カ月の入院生活を送ったのち、ついに帰宅はかないませんでした・・・・)
そして、葬儀の日程、場所が細かく記されていた。

 
ショックだった。ジョージが糖尿病のため体調が良くなく、透析をし、心臓の手術も受けていたことは知っていた。でもあの胸板の厚い、がっちりとした大柄なジョージは、どんな病気もはじき返してしまうだろうと、勝手に思っていたのだ。

 
ハワイに滞在していた私たちの親がわりだったのがリチャード・ヨコヤマさん。ジョージはそのヨコヤマさんの7人の妹の中で、すぐ下のミツダさん一家の長男だ。
ヨコヤマさん亡き後、一族のまとめ役だった。ハンサムで笑顔の優しい素敵な人だった。メールをくれたエミは彼の奥さんで、両親は沖縄からの移民だ。

 
1973年、ハワイでの私たちの新生活が始まった時、我が家には車が1台だけ。その車は夫が仕事に使用するものだから、平日の日中は車なしの生活になる。日本のようにバスがあり、電車がありの社会ではない。私一人のときは何とかなったが、長男が生まれてからは、緊急にお医者様に連れて行ったり、どうしても必要なものを買い出しに行ったりということが頻繁になり、私専用の車が必須になった。

 
ヨコヤマさんに相談すると、「甥っ子のジョージに相談したらいい。彼は車が大好きでとても詳しい。きっといい車を紹介してくれるだろう」とのこと。それがジョージと知り合うきっかけだった。

 
ジョージはヒロのダウンタウンでアロハ石油系列のガソリンスタンドを経営していた。車の件を相談すると、彼が所有する車の中で、フォードLTDを売ってくれるという。さて、どんな車なのか、実物を見てびっくり。私は日本ではカローラを運転していた。その何倍も大きいと感じるようなドデカイ車なのだ。
画像1
(我が家のLTDの写真がどうしても見つからない。これはpinterestから入手した画像。イメージ的には大体こんな車だった)

 
これはジョージがあちこち手を加えた肝いりの1台で、最大の特色はエンジンをかけなくても窓を開けられることだ。年中暑いハワイでは、駐車している車の内部は触れないほど熱くなっている。エンジンをかけずに窓を開け、中の空気を入れ替えられるのは、とても助かるのだ。しかしこんなに大きな車をどうやって扱えるものか。心配しても始まらないので、アパートの駐車場で何度か練習をしているうちに、必要にも迫られ何とか運転できるようになった。

 
そんなある日、長男の洋一郎が風邪をひき、熱を出した。日本で言われていたように、1枚上着を重ねベビーシートに座らせ、病院へ向かった。途中でジョージのガソリンスタンドに寄り、車の相談をしていた時だ。突然ジョージが叫んだ.
「He’s convulsing!!!」  えっ、何?? Convulsing  って何?
ジョージが指さしている先の長男を見ると、体は弓なりに反りかえり、目は白目をむいている。その異様な姿にびっくりした私は、その場から動けなくなった。

 
ジョージは「Emi, Hurry up. Yokun is convulsing(洋一郎のことを、ハワイの友人たちはYokunと呼んでいた.)と叫んだ。スタンドの奥にいたエミは走ってきて、とりあえずそばにあったバケツの水にぞうきんを浸して、洋一郎のわきの下を濡らした。そして、どうしてよいか分からず動けないでいる私を助手席に座らせ、病院まで車を運転してくれたのだ。

 
担当医は、洋一郎のconvulsing つまり“引きつけ” の原因を調べるために髄液を取った。その痛さに泣く息子の声を隣室で聞きながら、私も不安で一緒に泣いていた。夫はホノルルに出張で不在だったため、余計に不安になった。ヨコヤマさんは、そんな私に、「心配だろうから家に泊まりなさい」と言ってくれたので、私はその言葉に甘えて、2~3日泊めてもらった。結果は単なる熱性けいれんということでホッとした。こうして初産を外国で迎え、子育てについて知らないことばかりの新米ママは、それでもありがたいことに多くの人の助けを得ながら、何とか前に進むことができたのだ。

 
30年近く前のことだ。私が9時間に及ぶ乳がんの手術をして3カ月後、どうしてもハワイへ行きたくて息子二人を連れて1週間ほどヒロに滞在したことがある。毎日のようにヨコヤマ一族が集まってくれ、思い出話に花が咲いた。大学生になっていたハワイ生まれの洋一郎、高校生のシアトル生まれの俊介の成長を見て、ヨコヤマさんはまるで別人を見ているような様子だった。ハワイの人たちも皆、同じように年齢を重ね、それぞれ病気や様々な問題を抱えているはずなのに、底抜けに明るい彼らの姿を見て、私はどれほど勇気づけられたことか。手術後は何かにつけ悲観的なことばかり考えていた自分が情けなく思え、みんなから限りない生きるエネルギーを授けてもらった。

 
その時、ジョージが私たち3人を釣りに連れて行ってくれたことは、息子たちにとっても忘れられない思い出だ。近くの入江に行き、熱帯魚のような黄色と黒の縞模様の小さな魚を、釣り針でひっかけるようにして数匹釣った。これを釣りと呼べるのかは分からないが、私たち親子3人は夢中になって楽しんだ。いろいろなちっぽけな悩みが消えていった。

 
数年前久しぶりにヒロを訪れた。ヨコヤマさん夫妻はすでに亡く、妹の中でただ一人健在だったシマダさんも、糖尿病で目が不自由になり、グループホームのようなところで生活していた。夫の“仏のジョー”(根っからやさしい人だったので、みんながそう呼んでいた)はすでに亡くなっていた。このグループホームでは、1件の家の各ベッドルームにお年寄りが一人ずつ生活し、その洗濯や食事のお世話はフィリピン人の親子がやっていた。

 
画像2
※ジョージがまだ元気だったころ、シマダさんを連れてランチに行ったとき。
ジョージの隣がエミ。私の隣がシマダさん

 
ジョージはエミと共に、毎週必ずシマダさんを連れ出して、レストランでランチを食べ、ダウンタウンのデパートに行って買い物をした。ジョージはこう言っていた「俺は親不孝だった。ろくに両親の世話をしないまま、二人はいなくなってしまった。その罪滅ぼしに、アンティ・ヨシコ(シマダさんのこと)の世話をしているんだ」。

 
私がヒロに行った時も、一緒にシマダさんを迎えに行った。もう遠くがほとんど見えなくなっていたシマダさんは、私の呼ぶ声を聞いて、ウォーカーにすがりながら「おー、アツコさん? アツコさんなの?」と近づいてきた。
そしてジョージの車でレストランへ行き、おなか一杯豪華なランチを食べ、デパートへ行ってショッピング。シマダさんは私に何か買ってあげたいとさんざん探した挙句、ブラウスとロング丈のスカートのセットを買ってくれた。

 
そんなシマダさんも、ジョージも今はいない。ヨコヤマさん、奥さんのツルさん、シマダさんのお姉さんのクレさんなど、私の親代わりになってくれた多くの日系二世の方々は、もうこの世にはいない。だが、ありがたいことに、三世、四世の人々と依然として交流は続いている。そして、エミから新しいメールが来た。
「Hi! Thank you for remembering George…still miss him…my 80th birthday was on the 28th of December he couldn’t wait to help me celebrate my birthday…at least he is without pain and resting comfortably now.」
(ジョージのことを覚えていてくれてありがとう。私もとても寂しい。彼は12月28日の私の80歳の誕生日のお祝いまで待ってくれなかったけれど、今は苦しみもなく、ゆっくりと休んでいると思う)
そしてそのあと、「3月3日に甥の結婚式が韓国で行われるので、その帰りに東京に2泊3日する。その時ぜひ会いたい…」とあった。うれしかった。こうして私はこれからもハワイの日系の大切な友人たちとの絆を大切にしていきたいと、強く思った。

 
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やさしいHawaii 第70回 「歴史を知る面白さと怖さ」

【最近の私】このところ、ハワイ島マウナケアが落ち着かない。
https://tmt.nao.ac.jp/know/mauna_kea.html
https://www.excite.co.jp/news/article/Reuters_newsml_KCN1UF01T/
マウナケア山頂に直径30メートルの巨大望遠鏡を設置するプロジェクトに対し、再び地元のハワイアンの人々が反対を唱えているが、複雑な問題が多く関わっており、軽々に賛成だ反対だとは言えない。この件については、改めて書きたいと思っている。

 
今回は、私のハワイへの思いの、大きな転換となった出来事を書きたい。
もう、20年近く前になるだろうか。ハワイ大学のサマーセッションに出席するために、およそ3カ月ハワイ島ヒロに一人で生活したことがあった。どうしてもハワイのことをもっと知りたくなり、インターネットで大学のサイトを調べ、“Hawaii O‘hana”というハワイの社会、文化を教えてくれるクラスがあるのを見つけた。

 

ハワイ大学は、ハワイの言語や文化に関しては、ホノルルのマノア校よりハワイ島のヒロ校のほうが間口が広く、様々なクラスを抱えている。授業料さえ払えば誰でも受講でき、クラスの最後に受けるテストで合格点をもらえれば、当時はその授業の正式な単位を取得できた(最近のハワイ大学のサイトを調べると、事情は少々変化しているようだが)。

 
さて、期間中の滞在場所はどこにしようかとネットで調べると、かつて夫の転勤でヒロに住んでいた時のアパートが、今はハワイ大学と提携していて学生には割安で紹介されているのを見つけた。弁護士をしている男性とホノルルのコミュニティーカレッジの教授をしている女性が、老後の生活のためにこの古いアパートを買い上げたそうだ。私たちが最初に住んでいた70年代以降、ここはヒッピーたちのたまり場となり、ドラッグが蔓延して一般の人々は近づけない状態だったという。それをこの二人の努力で、大学と提携し学生専門のアパートに作り替えたわけだ。建物自体は当時のままで、目の前のワイアケアの池も相変わらず美しかった。いよいよ、この懐かしい場所での新しい体験が始まった。

〔写真・授業で使ったハワイ語の辞書、ノート、教科書『The Polynesian family system in Ka’u』〕

 
2カ月に及ぶ授業が一通り終了し、翌日がサマーセッションの試験という前日、私はすっかり勉強に飽きて、気分転換でハワイ島北部のホノカアという町にドライブに行くことにした。ホノカアは日系移民の歴史を持つ古い小さな町だ。ここは、2009年の映画『ホノカアボーイ』の舞台となったところ。岡田将生主演、長谷川潤、倍賞千恵子、松坂慶子などが出演した。映画の中の一場面で、倍賞千恵子扮する日系人ビーさんのキッチンのカフェカーテンを風が揺らすのを見て、私は泣いた。私が昔ヒロでお世話になった、日系人ヨコヤマさんやシマダさんのキッチンに流れていた風もこれと同じだった。懐かしくて懐かしくてたまらなくて、涙を抑えられなかった。


 
ホノカアに着き、車を道路わきのマカイ(ハワイ語で海側という意味。海岸線に対し、海側をマカイ、山側をマウカと呼ぶ)に駐車して、ぶらぶらと歩いていると、大きな倉庫のような建物に、“Honokaa Trading Company Antiques”とサインがある店を見つけた。アンティーク好きの私は、思わず中に引き込まれるように入っていくと、様々な古物が所狭しと飾られているのが見えた。壁には古い日本の着物が貼り付けられ、天井からは何か分からない古めかしい物がぶら下がり、小さなショーケースには価値のありそうな宝物のような物が並んでいる。部屋の隅には本棚が置いてあった。私は当時、火の女神ペレに夢中で、ハワイの神話の本にばかり目が行き、本棚の中からPELEの文字を追っていると、この店の主人らしい女性が近づいてきた。「何を探しているの?」私が神話の本だというと「神話はどだい人間が作り上げた物語でしょ。その前にまず、人間が実際にどのような歴史を作ってきたか、それを知らなくちゃ」。

 
サモア出身の、スラリと背の高いその女性は、人懐っこい笑顔を見せながら、英語で私にそう語りかけてきた。私はちょっと衝撃を受けた。全くの初対面の、それもほんの1時間ほど前に会ったばかりの人から、そんな風にアドバイスを受けるとは全く予想外のことだった。確かにそうだ。私は子どものころから神話にとても興味があり、歴史はさておいてまず神話、という傾向があった。ハワイをこんなに好きでも、ハワイの歴史に関して私は一体、どれほどの知識を持っているだろう…。

 
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〔写真・火の女神ペレの神話〕

 
そして彼女は本棚から数冊、ハワイの歴史に関する本を紹介してくれた。私は夢中になって、少しでも歴史に関係するような本を棚から漁った。1時間ほどして両手に余るほどの本を抱えて店のレジに行くと、彼女はこう言った。「今日は1日の売り上げが終わったから、もう店を閉めるわ。これから娘たちとバーベキューをするの。一緒にいらっしゃいよ」そこで初めて互いの名前を名乗りあった。彼女の名前はグレース。(後から知ったのだが、実は彼女は前出の『ホノカアボーイ』の中にちらりと出ていた、ホノカアの町では有名な看板娘(おばさん)だったのだ)

 
唖然としている私をそこに残し、彼女はさっさと倉庫のドアを閉めて、店じまいを始めた。「あ~、どうしよう。明日は試験があるし、暗くなると帰りのくねくね道の運転がちょっと心配だし…」

 
そんなことはわれ関せず、彼女は私を車に乗せて自宅へ戻り、キッチンであらかじめ用意していた肉、野菜、バーベキューソース、ナイフやフォークなどをさっさと車に詰め込んで、再び車を走らせた。到着したのはホノカアの先にある海が見渡せる公園。そこには娘さんと彼女のボーイフレンドが待っていた。火を起こして肉を焼き、刻々と沈みゆく美しい夕日を眺めながら、最高の時を過ごした。おまけにグレースは、翌日の試験のために私が準備していたまとめの紙を見ながら、問題を出してくれたのだ。

 
思いがけない素敵な時間を過ごし、いよいよヒロのアパートへ帰るギリギリの時間となった。別れを惜しんで互いにハグしたときに彼女が言った言葉は、
"Atsuko, we had such a pleasant time together. You know what? This is Hawaii’s Aloha spirit"なんだか涙が出るほどうれしかった。初対面の人とその家族と、こんなに楽しい時を共に過ごせたなんて、一生の思い出。アロハスピリットって、なんて素敵なんだと。

 
"Good luck for tomorrow’s exam"という言葉を後ろに聞きながら、私は一路ヒロのアパートへと車をスタートさせた。ホノカアからヒロへの帰路ハマクア・コーストは、途中に谷がいくつもあり、道が大きく島の内側に入り込んでいるところが何カ所もある。ただでさえ夜間は慣れない運転なのに、途中で大雨が降り始め、ワイパー全開でスピードを極力落とし、ドキドキしながら必死の運転だ。ローカルの人たちは慣れたもので、次から次へと私の後ろに何台ものライトが見える。私は4~5台たまると、道路のわきへ避けて、それらの車に先を譲った。ヒロの街の明かりが見えたときは本当にホッとし、アパートに戻った時は正直、死なないでよかったと思った。

 
翌日の試験は無事合格。Hawaii O’hanaの授業の単位は獲得できた。
ホノカアでのグレースとのめぐり逢いは、私のハワイへの興味が変わる、大きな転機となった。ハワイの歴史は面白い。知れば知るほど奥が深い。それと同時に、“楽しいハワイ”だけではない、思いもかけない事実を知るかもしれない怖さも、同時に感じるようになった。ほとんどの人にとってハワイは南国のパラダイス。しかしその陰には、あまり語られていない、哀しい歴史も存在することを徐々に知ることになる。

 
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。

 
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やさしいHawai’I  第69回  「国旗が語るその国の歴史」

【最近の私】今回の原稿を書くために、久しぶりに本を読み漁った。ハワイの州旗は知っていたが、現在のユニオンジャックになったのは1801年以降であることを今回知った。ということは、ハワイの州旗の左上についているユニオンジャックも、1801年を境に変わっていることに、今更ながら気づいた。大きな収穫だった。

 
私のハワイ関係の蔵書の中で、いつも気になっている小さな本がある。ハワイの古本屋で見つけた小さな本。タイトルは
『KA HAE HAWAII』(The Story of Hawaiian Flag by Edith B. Williams)
扇原さんハワイ国旗冒頭

 
そこで今回はハワイの国旗について考えてみたいと思う。

 
まずは日本の国旗「日章旗」はいつ頃正式に使用されるようになったのだろうか。
日章旗

 
長く鎖国政策を執っていた日本は、1983年、突然ペリーの黒船来航を迎えた。翌年の1984年には、日米和親条約を調印。薩摩藩主島津斉彬、幕府海防参与徳川斉昭らの進言により、日本総船印として「日の丸」を掲げることとなった。これが最初の正式な日章旗の使用といわれている。日本船を外国船と区別するための標識が必要となったのだ。
※参考 (一般社団法人 日本船主協会)海運雑学ゼミナール
https://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_283.html

 
星条旗
これはご存じのアメリカ国旗、星条旗だ。左上にある★はアメリカ合衆国を形成している50の州の数を表す。ハワイは1959年、50番目の州となった、アメリカ合衆国では最も新しい州だ。

 
ハワイの旗
では上記の旗は一体どこの旗か、判るだろうか。これはハワイの州旗だ。上から白で始まる8本のストライプは、ハワイの島の数を表している(北から、ニイハウ、カウアイ、オアフ、モロカイ、ラナイ、マウイ、カホオラヴェ、ハワイの8島。この縞の色の順序は時代によって変わってきた)。しかし、違和感を持つ人は多いだろう。アメリカ合衆国の1州なのに、なぜユニオンジャックが左上にあるのか。

 
オーストラリア国旗
かつてイギリスの植民地であったオーストラリア、ニュージーランド、ヴァージン諸島、ツバルなどは、その国旗にユニオンジャックがついていることには納得する。ということはハワイもかつての歴史で、イギリスの影響を強く受けていたことは、容易に推測できる。ではハワイはイギリスとどのような関係にあったのか。

 
ハワイの最初の西欧文化との接触は、1778年イギリスの探検家キャプテンクックによるハワイ諸島発見である。確かにこのことでハワイは以降、大きな変革の時期を迎えるが、ハワイにとって最初に最も大きな影響を与えた西欧人は、クックよりむしろキャプテン・ジョージ・バンクーバーだったと私は思う。

 
バンクーバーは最初キャプテンクックの次席航海士だったが、クックの亡き後、イギリス政府から再度太平洋の探検を命ぜられ、1793年に船長としてハワイにやって来た。それ以後3回にわたってハワイを訪れたバンクーバーに対し、カメハメハは親交のしるしにフェザーヘルメットやフェザーマントなど貴重な品々を贈り(現在、ロンドンの大英博物館に収められている)、バンクーバーは牛や羊などの家畜をハワイに連れてきた(その時の牛が繁殖し、現在のパーカー牧場の牛となった)。カメハメハは当時ハワイ諸島の統一を目指しており、イギリスから大型帆船、銃などを買い集め、それを武器に1810年ついにハワイ諸島の統一に成功する。

 
カメハメハはバンクーバーから、国の統治の仕方など、多くのことを学んだ。そしてジョージ3世に宛てて、正式にイギリスの庇護を受けたいと申し出たが、イギリスはそれに対し関心を示さなかった。
参考:(『The Hawaiian Kingdom 1778-1854 by Kuykendall 』 P54)
red ensign
バンクーバーはイギリスがハワイを保護しているという印に、最初red ensignという、赤地に左上にユニオンジャックが記された旗(イギリス商船が使用した旗)をカメハメハに贈った。

 
その後、カメハメハ所有のダブルカヌーに帆を張ったり、最後のハワイ訪問の際には、ハワイで最初の西欧型帆船を製造し、ユニオンジャックの旗と共に、カメハメハに贈呈した。
初代ユニオンジャック
※バンクーバーが贈ったであろう初代ユニオンジャック

 
カメハメハはこのユニオンジャックを大変喜び、この時以降イギリスの庇護をうけている証として、1794年から1816年までの22年間、ハワイにユニオンジャックを掲げた。
参考:(https://www.crwflags.com/fotw/flags/us-hi_hi.html)
   (『Ka Hae Hawaii The Story of The Hawaiian Flag by Edith B. Williams』P1より)

 
ハワイ国旗2
19世紀に入り、アメリカは白檀の取引や、捕鯨船の寄港地として、ロシアは毛皮を目的としたアメリカ北東部への中継基地として、ハワイへ勢力を伸ばそうとしていた。そんな中1812年戦争(アメリカ=イギリス戦争)が勃発。アメリカから、イギリスの国旗を掲げていることを非難されたハワイは、一時アメリカ国旗を掲げた。しかしイギリスもハワイがアメリカ国旗を掲げることを非難し、そのトラブルを避けるために、カメハメハはハワイ国の旗を作成することを決める。カメハメハにとっては、バンクーバーとの親交およびイギリスからの庇護は重要なことであるが、アメリカが寄港地に落としていく経済的利点も見逃すことはできない。そこで、キャプテン・アダムスやキャプテン・ベックリー、ほかの様々な人間からのアドバイスも考慮し、1816年ごろ(正確な時期については明記がない)現在のハワイ州の旗ができたと言われている。(横縞の色の順序は時代により変わった)
参考:(https://www.crwflags.com/fotw/flags/us-hi_hi.html)
(『Ka Hae Hawaii The Story of The Hawaiian Flag by Edith B. Williams』 P2より)

 
当時の話として興味深いものがある。
1816年、カメハメハはイギリスからForester号を購入し、お気に入りの妻の名である、“カアフマヌ”号と名付け、自らの船で白檀の取引のために中国に入港した。その際、真新しいハワイの旗を船に掲げたが中国からは認識されず、船長のアダムスのアドバイスにより急遽ユニオンジャックが掲げられた。だが入港経歴のないハワイの旗を掲げたことで、船長のアダムスは入港税3000ドル(現在にするといくらになるかはわからない)を払わされた。それを見たカメハメハは以降それに習い、ハワイの港に入るすべての船に対し、同じように入港税を課したという。カメハメハがハワイ諸島を統一できたのは、彼のこのような抜け目のない能力も大きな力になったのだろう。
参考:(『Ka Hae Hawaii The Story of The Hawaiian Flag by Edith B. Williams』より)

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カメハメハ3世の時代に、1843年2月から7月まで、イギリスのポーレット海軍士官がハワイの領有を一方的に宣言し(The Paulet Affair)5カ月ほどユニオンジャックが掲げられたが、イギリス政府がそれを違法と認め、再びハワイの国旗が使用された。

 
時は流れ、ハワイ国内ではアメリカ系市民の勢力が強まり、1893年1月17日、ついに女王リリウォカラニが王位を退くことを決意した。そして2カ月ほど星条旗が挙がったが、1894年ハワイ併合への第一歩としてのハワイ共和国が誕生し、再びハワイの国旗を使用する。だが1898年にはアメリカの準州に、更に1959年には50番目の州となり、ハワイの国旗は降ろされて、星条旗が国旗となった。

 
星条旗 ハワイの旗
しかしハワイの国旗は州旗として、現在も使われている。アメリカ上院議員の重鎮だった、亡きダニエル・イノウエ氏(今はホノルル空港に名付けられている)の、1912年のハワイでの葬儀の時も、歌手エイミーがかつてのハワイ王国国家“Hawaii Ponoi”を歌うなか、星条旗の隣に、ハワイ州旗が並んでいた。


 
ハワイは過去に様々な国の影響を受け、国旗もいろいろと変遷を重ねてきた。しかし、ハワイの人々の心に常に存在するのは、ホノルルのイオラニ宮殿のゲートに掲げられた、この紋章だ。
紋章
紋章の中心の下部に記されている言葉は
「Ua mau ke ea o ka aina i ka pono”
「土地の命は正義とともに永遠に生き続ける」(『ハワイ さまよえる楽園 中嶋弓子』訳P44)
カメハメハ3世によって語られた、この言葉こそが、ハワイのモットー、信念なのだ。

 
ハワイ州観光局の調べによると、現在のハワイを訪れる観光客の数は、アメリカ本土に続き日本が2位となっている。
参考:https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1106511.html
確かに日本にとってハワイは最も身近な外国だ。しかし、こうして歴史を振り返ると、カメハメハ大王をはじめ、カラカウア以前のハワイ王室とイギリスとの絆は大変強固であったことがわかる。地理的にお互いに地球の真後ろにあるイギリスとハワイ。ハワイがもし大西洋にあったなら・・・いや、歴史の流れはそんなに簡単に推測できるものではない。

 
参考文献
〇『KA HAE HAWAII The Story of THE HAWAIIAN FLAG』by EDITH B. WILLIAMS
Privately printed in Honolulu Distribution by South Sea Sales
https://www.findagrave.com/memorial/36362985/edith-b_-williams
〇『SHOAL OF TIME A HISTORY OF THE HAWAIIAN ISLANDS』
BY GAVAN DAWS University of Hawaii Press Honolulu
〇『THE HAWAIIAN KINGDOM 1778-1854』 BY R.S. KUYKENDALL
University of Hawaii Press Honolulu
〇『ハワイ さまよえる楽園』 中嶋弓子著 東京書籍
〇ハワイ州観光局公式プログラム Aloha Program 
https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/169 
〇https://www.britannica.com/topic/flag-of-Hawaii

 
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。

 
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これがイチ押し、アメリカン・ドラマ 第54回 “THE ORVILLE”

    今、アメリカ発のテレビドラマが最高に熱い。民放系、ケーブル系各社に[…]

    “Viewer Discretion Advised!”
    これがイチ押し、アメリカン・ドラマ
    Written by Shuichiro Dobashi 

    第54回“THE ORVILLE”
    “Viewer Discretion Advised”は海外の映画・テレビ番組等の冒頭で見かける注意書き。「バイオレンスやセックス等のコンテンツが含まれているため、視聴の可否はご自身で判断して下さい」という意味。

    今、アメリカ発のテレビドラマが最高に熱い。民放系・ケーブル系に加えてストリーミング系が参戦、生き馬の目を抜く視聴率レースを日々繰り広げている。その結果、ジャンルが多岐に渡り、キャラクターが深く掘り下げられ、ストーリーが縦横無尽に展開する、とてつもなく面白いドラマが次々と誕生しているのだ。このコラムでは、そんな「勝ち組ドラマ」から厳選した、止められない作品群を紹介する。
     

    “Sci-Fi parodrama”って何だ?
    本作を「“Star Trek”のパロディ」、「SFコメディ」なんて書き流している記事やブログを信用してはいけない。
    “THE ORVILLE”は『テッド』を生んだ才人セス・マクファーレンが放つ、画期的な“Sci-Fi parodrama”(筆者の造語:SFパロディドラマ)。“Star Trek”を観ていなくても存分に楽しめるのだ!

     
    ついでに惑星連合の職位・役職の英語も覚えてしまおう。(本作および“Star Trek”シリーズの職位は基本的に米国海軍に準じている。役職は小文字表記。)

     
    “To boldly go where no one has gone before…with my ex-wife!”
    ―西暦2418年の地球
    エド・マーサー(セス・マクファーレン)は惑星連合士官学校を首席で卒業し、現在は気鋭の大佐(“Captain”)として将来を嘱望されている。エドはワーカホリックで、妻のケリー(エイドリアンヌ・パリッキ)と一緒に過ごす時間が取れない。

     
    ある日エドが予定より早く帰宅すると、ケリーは青い異星人と浮気をしていた。

     
    ―1年後
    エドはケリーと離婚したあと荒れた生活を送り、出世コースから外れていた。だが一発逆転のチャンスが訪れる。人手不足に悩むハルジー提督(“Admiral”)が、エドを中型探査艦オーヴィルの艦長(“commanding officer”)に任命したのだ!

     
    子供のころからの夢がかなったエドは感激し、新たな任務にすべてを捧げる決意をする。エドは親友のゴードン(スコット・グライムズ)を操舵手(“helmsman”)に抜擢した。ゴードンは超一流の操舵技術を持つ大尉(“Lieutenant”)だが、チャラ男ぶりが災いしてデスクワークに甘んじていた。
    あとは提督が、空席となっている副長(“first officer”)を指名してくれればクルーはすべて揃う。

     
    数日後、副長が決まった。ケリー・グレイソン中佐(“Commander”)、エドの元妻だ!
    エドの抵抗もむなしく、ケリーはオーヴィルに着任した。

     
    エドの新艦長としての初任務は、最新鋭の研究所がある惑星エプシロン2に供給物資を運ぶ簡単な仕事…のはずだった。
    おりしも研究所のグループは極秘で「時間加速機」を完成したばかり。この技術を虎視眈々と狙っていた戦闘種族クリルが、奇襲攻撃をかけてきた。クリルによって時間加速機が軍事転用されれば大変なことになる!

     
    孤立無援、戦力的にも圧倒的に不利な状況下で、エドとケリーは(元)夫婦喧嘩を始める。そのとき、起死回生のアイディアを思いついたのはケリーだった!

     
    才人セス・マクファーレン、エンジン全開!
    エド役のセス・マクファーレンは、アニメの老舗ハンナ・バーベラ(懐かしいね)のイラストレーターとしてキャリアをスタート、スタンダップコメディアンを経て、過激アニメ“Family Guy”で8キャラ(!)の声を演じ分けてブレークした。
    彼の名を不動のものにしたのはメガヒット・コメディ『テッド』(2012)で、製作、監督、主演(テッドの声)、脚本をつとめた。マクファーレンはグラミー賞に3度ノミネートされたジャズ・シンガーでもあり、ハリウッド屈指のマルチタレントだ。
    本作でも主演に加えて製作総指揮、共同監督&脚本をこなし、才人ぶりをいかんなく発揮している。

     
    ケリー役のエイドリアンヌ・パリッキは「一見気が強そうで嫌な女」を演じると絶品で、青春ドラマの傑作“Friday Night Lights”で頭角を現した。マーベルの“Agents of S.H.I.E.L.D.”では準主役のボビー役でタフなアクションをこなし、人気を決定づけた。

     
    コミカルな地球人パイロットのゴードン・マロイを演じたスコット・グライムズは、“ER”のアーチー・モリス医師が代表作。シンガーでもある。

     
    医療主任(“chief medical officer”)のクレア・フィン少佐(“Lieutenant Commander”)を演じたベニー・ジョンソン・ジェラルドは、“24”の大統領夫人シェリー・パーマー役で日本でも顔なじみだ。

     
    モクラン人のボータス少佐を演じたのは、舞台俳優のピーター・メイコン。モクラン人は男だけの単一性種族で、卵を産むと自分で温めて孵化させる。ポータスにはクライデンという名のパートナーがいる。

     
    他にも、警備主任(“chief of security”)で小柄だが強靭なセレア人女性アララ・キタン大尉、高いIQを隠してお気楽に生きる地球人航海士(“navigator”)のジョン・ラマー大尉、ケイロン星出身のアンドロイドのアイザック、スライム状エンジニアのヤフィットなど、楽しいクルーたちが登場する。

     
    こんなパロディ観たことない!
    SFパロディというと、『フレッシュゴードンSPACE WARS』(1974:ソフトポルノ)、『アタック・オブ・ザ・キラー・トマト』(1978:超低予算カルト映画)、『スペースボール』(1987)、『ギャラクシー・クエスト』(1999)、『宇宙人ポール』(2011)などの映画が頭に浮かぶ。ほとんどが全編スラップスティックのナンセンス系だ。

     
    “THE ORVILLE”が画期的なのは、ストーリーからコメディ部分を取り除くと、ほぼ“Star Trek”(本格SFドラマ)として成立してしまう点なのだ。つまりパロディ形式は単なるプラットフォーム。各エピソードは真面目に作られていて、脚本・演技・特撮のレベルも高い。そこへ笑いがピンポイントで落とし込まれるので、コメディとしての質も上がる。

     
    いかにも“Star Trek”っぽい勇壮なテーマソングも嬉しい。CMを増やすために数秒で終わらせる昨今の悪しき風潮に逆らって、フルバージョンで提供される。

     
    オーヴィルがエンタープライズのようなギャラクシー級の旗艦ではなく、中型探査艦という設定もユニーク。“Star Trek”とは一味違う、スピード感のある『スター・ウォーズ』的な戦闘シーンが展開される。

     
    ゲストも贅沢で、シーズン1ではロブ・ロウ(青い異星人!)、リーアム・ニーソン、シャーリーズ・セロンが登場する。

     
    “Trekkie”(“Star Trek”の狂信的ファン)で“Sci-Fi nerd”を自認するマクファーレンは、ドキュメンタリー『コスモス:時空と宇宙』(2014)を制作するほどの宇宙好き。昔から“Star Trek”と“The Twilight Zone”をモチーフにしたドラマを作りたかったという。
    本作で描かれるのは、シリーズ最高作“Star Trek: The Next Generation”(“TNG”)のテイストに近い「希望あるSF」だ。
    (因みに、“Ted”のナレーターは“TNG”のピカード艦長ことパトリック・スチュアート。)

     
    彩り豊かなエピソードは、「マンハッタンくらいある巨大宇宙船」 「すべてがオンライン投票で決まる地球に酷似した惑星」 「2次元の世界」などウィットに富んでいて、ワクワクさせる。
    圧巻なのは、モクラン人のポータスとクライデンに突然変異で女の子が生まれるエピソードだ。赤ん坊に対する強制的な性転換手術に反対するエドたちは、モクラン星の法廷に乗り込んで彼女の人権を争う!

     
    “THE ORVILLE”はパロディなのに本格SF、特撮もストーリーも一級品、セス・マクファーレンが放つ、渾身の“Sci-Fi parodrama”。こんなパロディ観たことない!

     
    本作は『宇宙探査艦オーヴィル』の邦題で、FOXスポーツ&エンターテインメントが昨年シーズン1(全12話)を放映した。米国では現在シーズン2を放映していて、日本での放送が待ち遠しい。

     
    【“Star Trek”ファンへ朗報】
    昨年、『自叙伝 ジャン=リュック・ピカード』(“The Autobiography of Jean-Luc Picard”, 2017)が竹書房から翻訳出版された。ピカード艦長の波乱の生涯が描かれる“TNG”ファンにとっては垂涎・必携の一冊で、筆者も一気読みした。著者のデイヴィッド・A・グッドマンは“THE ORVILLE”の製作総指揮の一人だ。

     
    また、タイトルは未定ながら2つの新シリーズの製作が決まっている(ひとつはパトリック・スチュアート主演!)。“Star Trek Universe”は今も進化・拡張し続けているのだ!

     
    <今月のおまけ> 「My Favorite Movie Songs」㉝
    Title: “Everybody Needs A Best Friend”
    Artist: Norah Jones
    Movie: “Ted” (2012)

    歌詞を担当したのもセス・マクファーレン。

     
    写真Written by 土橋秀一郎(どばし・しゅういちろう)’58年東京生まれ。日本映像翻訳アカデミー第4期修了生。シナリオ・センター’87年卒業(新井一に学ぶ)。マルタの鷹協会会員。’99年から10年間米国に駐在、この間JVTAのウェブサイトに「テキサス映画通信:“Houston, we have a problem!”」のタイトルで、約800本の新作映画評を執筆した。映画・テレビドラマのDVD約1300本を所有。推理・ハードボイルド小説の蔵書8千冊。’14年7月には夫婦でメジャーリーグ全球場を制覇した。
     
     

     
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    https://www.jvta.net/blog/5724/

やさしいHAWAI‘I 第68回 生物の進化 東京とハワイ

【最近の私】ハワイとの付き合いも、すでに45年近くなる。親しくしていただいた日系二世の方々はすでに高齢で、ヨコヤマ一族の最後の二世の方も、先日亡くなられた。貴重な日系二世の証言、ドキュメンタリーを制作なさっている松元裕之監督の『Go for Broke! ハワイ日系二世の記憶』の上映会を2019年4月15日(月)19時~21時半JVTAにて行います。ご興味のある方はぜひお越しください。
※詳細はこのページの下部にリンクがあります。

 
先日NHKBS1プレミアムで『東京ロストワールド -秘島探検の全記録ー』を観た。

 
植物、動物、昆虫の進化に関わるさまざまな科学者とNHK調査隊が小笠原諸島の島々に上陸し、豊かな生態系とその進化の状況を5年にわたり研究調査してきた。番組ではその結果を詳しく紹介している。もちろん生態系を乱すことは許されないから、持ち物は可能な限り新品を、そして尿、便などの人間の排泄物は当然持ち帰る。新しい西之島や南硫黄島には、いまだ人間の影響は及んでいない。しかしこの島固有の生物、すでに進化を始めている生物などの発見、厳しい現況に立ち向かう科学者たちの素晴らしい根性、そして生物の進化の面白さに強く惹きつけられた。特にこれらが火山島であるという点で、ハワイに繋がるところが多々あり、大変興味深かった。

 
<番組では下記の場所を紹介していた>
【西之島】父島の西方約130キロにある西之島の南東沖に、新たな火山の噴火が始まり、溶岩流により既存の西之島と一体化した。2018年7月に再噴火し、現在も島は少しずつ成長を続けている。

西之島
※海上保安庁撮影 公式サイトより

 
【南硫黄島】およそ3万年前に誕生し、父島と比べると若い島のため、生態系形成の初期段階を調査するのに適切な環境を持つ。周囲は7.5キロ、標高は916メートル。平均斜度45度で、上陸するには大変困難な島だ。

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※海上保安庁撮影 公式サイトより

 
【父島】東京の南方およそ1000キロにあり、人口はおよそ2000人。小笠原諸島は平成23年に世界自然遺産に登録された。
父島のハートロック

 
【そうふ岩】東京の南およそ660キロの海中に忽然と現れる黒色のカンラン石単斜輝石玄武岩からなる岩。この岩の南西2.6キロには火口があり、かつては火山としての活動があった。

そうふ岩
※海上保安庁撮影 公式サイトより

 
ハワイは、もっとも近いアメリカ大陸西岸部からでさえおよそ4000キロメートル離れた位置にある、太平洋の孤島であり、これまで大陸と地続きになったことはない。(『ハワイ・ブック』近藤純夫著 P183 「カリフォルニア沿岸からでさえ4000キロメートルも離れた島、それはハワイ諸島だったのだ。」)当初は完全な固有種だけが棲息していたが、ハワイの先住民がさまざまな外来の物を運びこみ、またキャプテンクックのハワイ諸島発見による大きな時代の流れで、帰化植物が急激に増えた。

 
その中でオヒアは、ハワイ全島のおよそ20%という、もっとも広い地域に分布するハワイ固有の樹木だ。まるで立ち枯れしたようなゴツゴツと荒い木肌に、美しい刷毛のような真っ赤な花が咲く(中には、オレンジ色、クリーム色、黄色などもあるそうだが、私は真っ赤な花が一番好きだ)。そのゴツゴツした幹(オヒアと呼ぶ)と美しい真っ赤な花(レフアと呼ぶ)のアンバランスが多くの物語を作り出す。何ゆえに幹と花に別々の名がつけられているのか。それはまたの機会に紹介したい。
オヒア

 
ハワイ諸島が噴火し溶岩が流れた直後、まだ生物が何も生存していないときに真っ先に根付くのは、まるでカビが生えたように見える地衣類やコケ類、シダ類だ。その次に、溶岩の割れ目から芽を出すのがこの、オヒアの木。溶岩など何の栄養もなさそうに見えるが、実は植物が成長するために必要なミネラルがたっぷり含まれている。もともとオヒアは陽樹といって、日光を好む樹だ。溶岩が流れ周囲に日光を遮るものが全くない環境は、オヒアにとって絶好の場所だ。風で飛ばされてきたオヒアの種は、溶岩の割れ目に留まり、そこから樹液を出してわずかな土壌を捕まえ、しっかりと根を下ろす。
オヒア溶岩

 
おもしろいのは、このオヒアの木が環境によって、さまざまに姿を変えることだ。
オヒアは日光を好むので、最初は背の高い樹木に成長し、時には樹高10メートルもの森林を形成する。その葉は薄く大きく滑らかだ。しかし樹が混んできて日差しが当たらなくなると、新たなオヒアの芽は成長できず、寿命が来ると枯死し森は消滅する。その後日差しが戻ると、再びオヒアの森は復活する。また湿原地帯では、栄養素が不足しているためにオヒアの樹高は50センチにも満たなくて、その葉は小さく厚く、裏側には毛が密生している。
オヒア樹木

 
オヒアは大変生命力の強い樹木ではあるが、ここ数年ROD(Rapid Ohia Death)が大きな問題となっている。オヒアの木に病原菌(真菌)が付き、多くのオヒアが立ち枯れているのだ。その範囲はどんどん広がり、いったん菌がオヒアに付くとたちまち枯れてしまう。全島の20%に棲息するハワイ固有のオヒア。それが枯れてしまうと、オヒアに依存している様々な鳥類、例えばアパパネと呼ばれるアカハワイミツスイなどの鳥は、オヒアの赤い花の蜜を好むため、大きな影響を受けざるを得ない。現在ハワイではこの菌の感染の拡大を防ぐために、さまざまな方法が研究模索されている。
オヒア枯れる

 
大好きなこのオヒアの木。何とかRODが収まってくれるように心から願わずにはいられない。
apapane-09
※画像出展 Webサイトanuhea「ハワイの花・植物・野鳥図鑑」より

 
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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やさしいHAWAI’I
70年代前半、夫の転勤でハワイへ。現地での生活を中心に“第二の故郷”を語りつくす。

 

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