【参考文献】
・『KAAHUMANU MOLDER OF CHANGE』 JANE L. SILVERMAN
・多文化社会ハワイ州における教育の実態と展望 田中圭次郎(日本の教育学者、佛教大学嘱託教授)
・アロハプログラム ハワイ州観光局が運営する公式ラーニングサイト https://www.aloha-program.com/
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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話は少し外れます。私は1980年代に4年間シンガポールで生活をしましたが、この国は大変興味深い国でした。シンガポールの国歌は、マレー語です。民族は中国人76%、マレー人15%、インド人7.5%(2019年外務省資料による)、言語に関しては、国語とされているのはマレー語、公用語が英語、中国語、マレー語、タミール語。そして、年4回新年があり、Chinese New Year(中国), Hari Raya Puasa(マレー), Deepavali(インド), New Year’s Day(キリスト教)です。大統領も各民族集団から選ばれ、現在はマレー民族の初の女性が大統領となっています(大統領は行政権を持ちません。実際に政治の主導権を持つのは首相です)。国内の政治経済に関しては最多人口である中国系の人々が中心となっていますが、中国系の間でも、広東語、福建語など出身地によって全く言葉が通じず、英語が苦手の年配の中国人は共通語として北京語を使います。食べ物も、一般的にインド系の人は牛肉を食べず(牛は神)、マレー系は豚を食べず(イスラム教)、中国人はなんでもOK(チャイナタウンに行くと、サル、コウモリなども売っています)。このような大きな違いを抱えながら、互いの民族はそれぞれの存在を尊重し、民族間の諍いはなく、内政的に大変安定した状況です。多様性を認めたうえで、みな同じシンガポーリアンなのです。
Imagine there’s no countries
It isn’t hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion, too
You may say I‘m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as one
『Imagine』より
作詞・作曲: ジョン・レノン/オノ・ヨーコ
世界の現状を見れば、確かにこれは夢のような話かもしれません。しかし、時間をかけてでも、いつかこのような世界が生まれることを、私は心から願います。地球上にまだ人間が存在できている間に、そんな理想の世界が現実となりますように。
“John, I will surely join you.”
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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※プクイ女史
出典:『Mary kawena Pukui Cultural Preservation Society』
プクイ女史は、前回取り上げたデビッド・マロ(第73回 ハワイの未来を予言した男https://www.jvta.net/co/yasasiihawaii-73/)からちょうど100年後の1895年に生まれました。彼女がなぜハワイの文化において、バイブルと言われるほど欠くことのできない重要な人物であるのか。それは彼女の残した功績から明らかです。プクイ女史は50冊以上の訳書や著書、150曲以上のハワイ語の歌詞を作りました。また、前回のデビッド・マロを始め、ジョン・パパ・イイや、サミュエル・カマカウなど19世紀の知識人がハワイ語で書き記した歴史や文化のほとんどを、プクイ女史が英訳しました。これは彼女が英語とハワイ語をともに母語としていたからこそ可能だったことです。中でも最も大きなものは、1957年に完成したエルバートとの共著『Hawaiian Dictionary』です。ほぼ3万語のハワイ語を抱えるこの辞書はハワイ語を学ぶ人々にとって、なくてはならないものとなっています。そして私にとって大変思い入れの強い一冊が『The Polynesian Family System in Ka’u ,Hawaii』です。2002年の夏、ハワイ大学ヒロ校のサマーセッションを受講した折、Hawai’i ‘Ohana という授業で使った教科書でした。
※プクイ女史の著作の1冊『The Polynesian Family System in Ka‘u Hawaii』 筆者所有の書籍より
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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“If a big wave comes in, large fishes will come from the dark ocean which you never saw before, and when they see the small fishes they will eat them up; such also is the case with large animals, they will prey on the smaller ones;
The ships of the whitemen have come, and smart people have arrived from the Great Countries which you have never seen before, they know our people are few in number and living in a small country; they will eat us up, such has always been the case with large countries, the small ones have been taken Over throughout the world.”
(この原文はハワイ語で書かれていたため英訳はいくつかあり、部分的に少し違いがありますが、大勢は同じ)
<参照>
『Hawaiian Antiquities Mo’olelo Hawai’i』 by David Malo
Translated by Nathaniel B. Emerson
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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2019年12月14日のエミからのメールだ。
「Aloha!! Just wanted to let you know that George passed away on December 8, 2019. Diabetes and other illness compounded made him difficult to recover, spent in the hospital the last two months, never made it home……..
(アロハ!2019年12月8日、ジョージが亡くなったことをお知らせします。糖尿病だけでなく、その他の病気もあり回復が困難で、2カ月の入院生活を送ったのち、ついに帰宅はかないませんでした・・・・)
そして、葬儀の日程、場所が細かく記されていた。
そんなシマダさんも、ジョージも今はいない。ヨコヤマさん、奥さんのツルさん、シマダさんのお姉さんのクレさんなど、私の親代わりになってくれた多くの日系二世の方々は、もうこの世にはいない。だが、ありがたいことに、三世、四世の人々と依然として交流は続いている。そして、エミから新しいメールが来た。
「Hi! Thank you for remembering George…still miss him…my 80th birthday was on the 28th of December he couldn’t wait to help me celebrate my birthday…at least he is without pain and resting comfortably now.」
(ジョージのことを覚えていてくれてありがとう。私もとても寂しい。彼は12月28日の私の80歳の誕生日のお祝いまで待ってくれなかったけれど、今は苦しみもなく、ゆっくりと休んでいると思う)
そしてそのあと、「3月3日に甥の結婚式が韓国で行われるので、その帰りに東京に2泊3日する。その時ぜひ会いたい…」とあった。うれしかった。こうして私はこれからもハワイの日系の大切な友人たちとの絆を大切にしていきたいと、強く思った。
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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ホノカアに着き、車を道路わきのマカイ(ハワイ語で海側という意味。海岸線に対し、海側をマカイ、山側をマウカと呼ぶ)に駐車して、ぶらぶらと歩いていると、大きな倉庫のような建物に、“Honokaa Trading Company Antiques”とサインがある店を見つけた。アンティーク好きの私は、思わず中に引き込まれるように入っていくと、様々な古物が所狭しと飾られているのが見えた。壁には古い日本の着物が貼り付けられ、天井からは何か分からない古めかしい物がぶら下がり、小さなショーケースには価値のありそうな宝物のような物が並んでいる。部屋の隅には本棚が置いてあった。私は当時、火の女神ペレに夢中で、ハワイの神話の本にばかり目が行き、本棚の中からPELEの文字を追っていると、この店の主人らしい女性が近づいてきた。「何を探しているの?」私が神話の本だというと「神話はどだい人間が作り上げた物語でしょ。その前にまず、人間が実際にどのような歴史を作ってきたか、それを知らなくちゃ」。
思いがけない素敵な時間を過ごし、いよいよヒロのアパートへ帰るギリギリの時間となった。別れを惜しんで互いにハグしたときに彼女が言った言葉は、
"Atsuko, we had such a pleasant time together. You know what? This is Hawaii’s Aloha spirit"なんだか涙が出るほどうれしかった。初対面の人とその家族と、こんなに楽しい時を共に過ごせたなんて、一生の思い出。アロハスピリットって、なんて素敵なんだと。
"Good luck for tomorrow’s exam"という言葉を後ろに聞きながら、私は一路ヒロのアパートへと車をスタートさせた。ホノカアからヒロへの帰路ハマクア・コーストは、途中に谷がいくつもあり、道が大きく島の内側に入り込んでいるところが何カ所もある。ただでさえ夜間は慣れない運転なのに、途中で大雨が降り始め、ワイパー全開でスピードを極力落とし、ドキドキしながら必死の運転だ。ローカルの人たちは慣れたもので、次から次へと私の後ろに何台ものライトが見える。私は4~5台たまると、道路のわきへ避けて、それらの車に先を譲った。ヒロの街の明かりが見えたときは本当にホッとし、アパートに戻った時は正直、死なないでよかったと思った。
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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カメハメハはこのユニオンジャックを大変喜び、この時以降イギリスの庇護をうけている証として、1794年から1816年までの22年間、ハワイにユニオンジャックを掲げた。
参考:(https://www.crwflags.com/fotw/flags/us-hi_hi.html)
(『Ka Hae Hawaii The Story of The Hawaiian Flag by Edith B. Williams』P1より)
19世紀に入り、アメリカは白檀の取引や、捕鯨船の寄港地として、ロシアは毛皮を目的としたアメリカ北東部への中継基地として、ハワイへ勢力を伸ばそうとしていた。そんな中1812年戦争(アメリカ=イギリス戦争)が勃発。アメリカから、イギリスの国旗を掲げていることを非難されたハワイは、一時アメリカ国旗を掲げた。しかしイギリスもハワイがアメリカ国旗を掲げることを非難し、そのトラブルを避けるために、カメハメハはハワイ国の旗を作成することを決める。カメハメハにとっては、バンクーバーとの親交およびイギリスからの庇護は重要なことであるが、アメリカが寄港地に落としていく経済的利点も見逃すことはできない。そこで、キャプテン・アダムスやキャプテン・ベックリー、ほかの様々な人間からのアドバイスも考慮し、1816年ごろ(正確な時期については明記がない)現在のハワイ州の旗ができたと言われている。(横縞の色の順序は時代により変わった)
参考:(https://www.crwflags.com/fotw/flags/us-hi_hi.html)
(『Ka Hae Hawaii The Story of The Hawaiian Flag by Edith B. Williams』 P2より)
当時の話として興味深いものがある。
1816年、カメハメハはイギリスからForester号を購入し、お気に入りの妻の名である、“カアフマヌ”号と名付け、自らの船で白檀の取引のために中国に入港した。その際、真新しいハワイの旗を船に掲げたが中国からは認識されず、船長のアダムスのアドバイスにより急遽ユニオンジャックが掲げられた。だが入港経歴のないハワイの旗を掲げたことで、船長のアダムスは入港税3000ドル(現在にするといくらになるかはわからない)を払わされた。それを見たカメハメハは以降それに習い、ハワイの港に入るすべての船に対し、同じように入港税を課したという。カメハメハがハワイ諸島を統一できたのは、彼のこのような抜け目のない能力も大きな力になったのだろう。
参考:(『Ka Hae Hawaii The Story of The Hawaiian Flag by Edith B. Williams』より)
ハワイは過去に様々な国の影響を受け、国旗もいろいろと変遷を重ねてきた。しかし、ハワイの人々の心に常に存在するのは、ホノルルのイオラニ宮殿のゲートに掲げられた、この紋章だ。
紋章の中心の下部に記されている言葉は
「Ua mau ke ea o ka aina i ka pono”
「土地の命は正義とともに永遠に生き続ける」(『ハワイ さまよえる楽園 中嶋弓子』訳P44)
カメハメハ3世によって語られた、この言葉こそが、ハワイのモットー、信念なのだ。
参考文献
〇『KA HAE HAWAII The Story of THE HAWAIIAN FLAG』by EDITH B. WILLIAMS
Privately printed in Honolulu Distribution by South Sea Sales
https://www.findagrave.com/memorial/36362985/edith-b_-williams
〇『SHOAL OF TIME A HISTORY OF THE HAWAIIAN ISLANDS』
BY GAVAN DAWS University of Hawaii Press Honolulu
〇『THE HAWAIIAN KINGDOM 1778-1854』 BY R.S. KUYKENDALL
University of Hawaii Press Honolulu
〇『ハワイ さまよえる楽園』 中嶋弓子著 東京書籍
〇ハワイ州観光局公式プログラム Aloha Program
https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/169
〇https://www.britannica.com/topic/flag-of-Hawaii
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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“To boldly go where no one has gone before…with my ex-wife!”
―西暦2418年の地球
エド・マーサー(セス・マクファーレン)は惑星連合士官学校を首席で卒業し、現在は気鋭の大佐(“Captain”)として将来を嘱望されている。エドはワーカホリックで、妻のケリー(エイドリアンヌ・パリッキ)と一緒に過ごす時間が取れない。
他にも、警備主任(“chief of security”)で小柄だが強靭なセレア人女性アララ・キタン大尉、高いIQを隠してお気楽に生きる地球人航海士(“navigator”)のジョン・ラマー大尉、ケイロン星出身のアンドロイドのアイザック、スライム状エンジニアのヤフィットなど、楽しいクルーたちが登場する。
“THE ORVILLE”が画期的なのは、ストーリーからコメディ部分を取り除くと、ほぼ“Star Trek”(本格SFドラマ)として成立してしまう点なのだ。つまりパロディ形式は単なるプラットフォーム。各エピソードは真面目に作られていて、脚本・演技・特撮のレベルも高い。そこへ笑いがピンポイントで落とし込まれるので、コメディとしての質も上がる。
<今月のおまけ> 「My Favorite Movie Songs」㉝
Title: “Everybody Needs A Best Friend”
Artist: Norah Jones
Movie: “Ted” (2012)
歌詞を担当したのもセス・マクファーレン。
Written by 土橋秀一郎(どばし・しゅういちろう)’58年東京生まれ。日本映像翻訳アカデミー第4期修了生。シナリオ・センター’87年卒業(新井一に学ぶ)。マルタの鷹協会会員。’99年から10年間米国に駐在、この間JVTAのウェブサイトに「テキサス映画通信:“Houston, we have a problem!”」のタイトルで、約800本の新作映画評を執筆した。映画・テレビドラマのDVD約1300本を所有。推理・ハードボイルド小説の蔵書8千冊。’14年7月には夫婦でメジャーリーグ全球場を制覇した。
【最近の私】ハワイとの付き合いも、すでに45年近くなる。親しくしていただいた日系二世の方々はすでに高齢で、ヨコヤマ一族の最後の二世の方も、先日亡くなられた。貴重な日系二世の証言、ドキュメンタリーを制作なさっている松元裕之監督の『Go for Broke! ハワイ日系二世の記憶』の上映会を2019年4月15日(月)19時~21時半JVTAにて行います。ご興味のある方はぜひお越しください。
※詳細はこのページの下部にリンクがあります。
オヒアは大変生命力の強い樹木ではあるが、ここ数年ROD(Rapid Ohia Death)が大きな問題となっている。オヒアの木に病原菌(真菌)が付き、多くのオヒアが立ち枯れているのだ。その範囲はどんどん広がり、いったん菌がオヒアに付くとたちまち枯れてしまう。全島の20%に棲息するハワイ固有のオヒア。それが枯れてしまうと、オヒアに依存している様々な鳥類、例えばアパパネと呼ばれるアカハワイミツスイなどの鳥は、オヒアの赤い花の蜜を好むため、大きな影響を受けざるを得ない。現在ハワイではこの菌の感染の拡大を防ぐために、さまざまな方法が研究模索されている。
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Written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)
1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
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